千里線(せんりせん)は、大阪府大阪市北区の天神橋筋六丁目駅から大阪府吹田市の北千里駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。北千里駅まで延伸されるまでは千里山(支)線と呼ばれていた。北千里線と呼ばれることもあるが、正式なものではない。なお、正式な起点は天神橋筋六丁目駅だが、列車運行上は北千里駅から天神橋筋六丁目駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。千里丘陵に広がる千里ニュータウンの通勤・通学路線である。淡路駅をジャンクションとして、終日にわたり京都本線との直通運転が行われている。また、大阪市営地下鉄堺筋線と相互直通運転を行っており、乗り入れ先の終点・天下茶屋駅では南海電気鉄道との乗り換えも可能である。天神橋筋六丁目駅から千里山駅までは戦前に開業した区間で、急曲線や急勾配が続き、運転上のネックとなっている。例えば、豊津駅 - 関大前駅間には35km/hの制限速度が設定されている。南千里駅 - 千里山駅間には35‰の勾配があり、新型車両を投入するに当たってはこの区間で勾配起動試験を必ず行っている。千里山駅から北千里駅までは、1963年以降に開通した、阪急の鉄道路線の中では最も新しい区間で、直線的であり運行速度も速い。また、当該区間はすべて高架線、掘割またはトンネルからなっており、踏切は一つもない。南千里 - 山田間には、阪急唯一の山岳トンネルである千里トンネルがあるが、地下鉄と同様の開削工法で建設されたため構造は地下鉄のものと変わらない。千里線内だけで完結する天神橋筋六丁目駅折り返し列車は早朝と深夜のみであり、大半は、以下のように他の路線との直通運転を行っている。後述の堺筋準急・臨時に運行される直通特急を除き、いずれも普通列車である。日中は、AとC、Bと高槻市駅 - 梅田駅間の普通を一組とし、この二組を交互に運転する。それぞれの組は淡路駅で連絡を図る。そのほかにも天下茶屋駅 - 京都本線茨木市駅・正雀駅間の列車も設定されているほか、朝には相川発天下茶屋行きも設定されている。いずれも普通列車である。また京都本線と地下鉄堺筋線とを直通運転する速達列車として準急(堺筋準急)が設定されている。平日朝の下りと夕の上り、土休日の昼間にそれぞれ河原町駅発着で運転される。千里線にあたる区間では柴島駅を通過するが、これが千里線で通過列車の設定されている唯一の駅である。なお、2007年3月17日のダイヤ改正前は急行(堺筋急行)、快速急行(堺筋快速急行)として運転されていた。2011年からは、行楽期の土休日に運行される直通特急が天下茶屋駅 - 嵐山駅間に設定されている。なお、1970年の大阪万博の開催時、万博利用客のための臨時準急「EXPO準急」が運転されていた。千里線内の停車駅は淡路駅・吹田駅・関大前駅・南千里駅・万国博西口駅(万博開催時に営業していた臨時駅)であった。また十三駅でスイッチバックを行い、神戸線・宝塚線に直通運転を行う「エキスポ直通」も設定されていた。また堺筋線との相互直通運転を行う前までは天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 阪急京都駅(現在の大宮駅)間の普通列車も運転されていた(のちに河原町駅まで延長)。この運転系統は一時期まったく運行されていなかったが、2011年5月14日のダイヤ改正で土休日の朝晩に天下茶屋発河原町行きの普通列車が設定されている。6300系と9300系を除く京都線所属の形式が使用される。堺筋線直通車はすべて8両編成で阪急車両のほか大阪市交通局の66系も使用される。一方で、梅田発着の列車は8両編成と7両編成が使用されている。2015年で運行を終了した2300系は堺筋線に入線できないことから、淡路 - 北千里間でのみ使用されていた。当線の歴史は、北大阪電気鉄道が1921年に十三 - 豊津間を開業させたことに遡る。当初から大阪市内への乗り入れを計画していたが、資金難で淀川への架橋ができなかった。そこで、現・崇禅寺駅付近 - 現・吹田駅付近で東海道本線の旧線跡を譲り受け、阪神急行電鉄(阪急)の十三駅に接続することで当座をしのぐこととした。同社は沿線で霊園の開発を積極的に行ったため、「墓地電車」の異名を取った。一方京阪電気鉄道は、京阪本線のバイパスとして大阪 - 京都間で淀川右岸を通る高速新線、新京阪鉄道を計画していた。大阪側の起点を模索していた新京阪は、北大阪電気鉄道の保有する天神橋 - 淡路間の免許に目を付け、1923年に同社から鉄道事業の譲渡を受けた。1925年には淀川を渡る天神橋 - 淡路間が開業、3年後の1928年には天神橋駅 - 西院駅(のちに大宮駅)間で特急を走らせるようになり、以降戦後までは天神橋 - 淡路間が本線格の新京阪線として扱われた。後に新京阪は親会社の京阪電気鉄道に合併し、旧北大阪電気鉄道線については、十三 - 淡路間が十三線、淡路 - 千里山間が千里山(支)線となり、さらに1943年には戦時統合により京阪が阪神急行電鉄と合併、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の路線となる。合併後の1944年4月より、宝塚本線に乗り入れる形で梅田発着の京都方面急行列車が設定される。京阪が再発足して分離した1949年12月の時点では、新京阪線の名称を京都本線と改めただけで、各路線の区間には変更がなかった。しかし、戦後の1956年には京都本線の特急は全列車が梅田発着になり、実質的に十三線が本線として扱われるようになっていた。1959年に、梅田 - 十三間に京都本線用の線路が敷設(手続き上は北野線の再開および宝塚線の増設という扱い)された際に、十三 - 淡路間が京都本線、天神橋 - 淡路間が千里山線に所属が変更された。戦後の1961年12月、宝塚本線の混雑緩和を目的として、千里山線と箕面線とを連絡する千里山延長線(千里山駅 - 桜井駅間)の事業免許を取得し、このうち千里山駅 - 新千里山駅(現在の南千里駅)間は1963年8月に開業した。新千里山からは千里中央駅を経由して桜井へ向かう北西方向へのルートをとる予定であったが、大阪府からの要請によりルートを変更して北方向の北千里へ延伸することになった。北千里駅へ延伸した1967年、路線名を千里線に改称。新たな終着駅となった北千里駅には、日本初の本格的な自動改札機が導入された。一方、桜井駅に至る事業免許は、宝塚線の輸送力が増強されたことなどから1972年12月に破棄された。1970年の日本万国博覧会開催にあたっては、当路線も会場までのアクセスに供されることとなり、前年の1969年には大阪市営地下鉄堺筋線との相互直通運転を開始。この時、新京阪鉄道以来のターミナルだった天神橋駅が地下駅に移転し、天神橋筋六丁目駅と改称された。万博期間中は会場に隣接して万国博西口駅を設置、阪急各線から前述の臨時列車を運行し、メインルートである北大阪急行を補佐した。駅名は廃止時のもの。すべての駅で堺筋線天下茶屋駅経由・空港線関西空港駅までの連絡乗車券が発売されており、年に2度発売されている「高野山1dayチケット」でも天下茶屋駅経由で南海高野線への乗車が認められている。さらに2011年5月14日からは、線内では北端の北千里駅ならびに京都本線と接続する淡路駅の2駅のみではあるが、既存の関西空港駅までの連絡乗車券よりもさらに割安な「関空アクセスきっぷ」も発売している。
出典:wikipedia
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