自由民主党幹事長(じゆうみんしゅとうかんじちょう)は、日本の自由民主党の役員職。自由民主党総裁を補佐し、党務を執行する役職である。自由民主党幹事長は、同党総務会長、同党政務調査会長、同党選挙対策委員長とともに、党四役として同党総裁を補佐する。党則上総裁に次ぐとされる同党副総裁は常設の役職ではないので、幹事長が事実上の党ナンバー2とされる。党最高責任者である総裁が内閣総理大臣である場合は、党務全般を幹事長が握る。ただし、自民党の参議院議員団に関する党務については同党参議院幹事長が担当する。任期は1年で再任の制限無し。任期途中で辞職した場合、新任者の任期は前任者の残任期間までである。総裁が新たに選任された場合は在任期間に関わらず、幹事長の任期は終了する。幹事長は人事局、経理局、情報調査局、国際局などの党の組織を掌握している。また、幹事長は党の総合調整機関である役員会に参加する。なお、幹事長を補佐する役職として、幹事長代理および副幹事長が置かれる。野党時代の2011年より新たに幹事長代行を新設した。通常、総裁に代わり党務を掌握しているため絶大な権限を持ち、俗に「閣僚ポスト2つ分」と言われる。党の実務責任者として重要な任務が多いことから、幹事長経験者は総裁候補と目されることが多く、過去に自民党総裁に就任した24名のうち半数の12名までが幹事長経験者であった。また谷垣禎一は幹事長経験がなく総裁に就任したが、一度総裁を辞したのちに幹事長に就任している(現在までで唯一の例)。幹事長の最大の仕事は、選挙活動を指揮し、勝利することである。幹事長は立候補者に対する公認権を持ち、さらに党財政も管理しているため、公認と資金両面から党内において絶大な発言力を握る。特に、衆議院議員総選挙で小選挙区制が導入されたことにより、従来から大きかった幹事長の影響力がさらに増加したとされる。小選挙区制では、政党から公認を受けない候補が立候補して当選することが、従来の中選挙区制に比べて格段に難しくなったとされるからである。また、自民党が与党の際は内閣総理大臣が事実上決定権を持つとされる衆議院解散権が、衆院選候補の公認権限を持つ自民党幹事長によって抑制されるケースがあった。2007年(平成19年)9月24日に総裁に就任した福田康夫は選挙対策を重視し、総裁直属の選挙対策委員会を設置した。その委員長を党三役と同格の党四役とし、総裁が指名するとしたことから、幹事長が独占してきた選挙指揮を選挙対策委員長が担うこととなった。しかし、2009年(平成21年)8月30日の衆院選で下野後の同年9月28日に新たに総裁となった谷垣禎一は、翌29日にさっそく組織再編に着手し、選挙対策委員会は選挙対策局に変更格下げした。これにより、再び幹事長が選挙指揮を担うこととなった。2012年(平成24年)12月25日に実施された自民党役員人事において総裁の安倍晋三は福田同様選挙対策を重視し、総裁直属の選挙対策委員会を再設置した。その委員長を党三役と同格の党四役とし、総裁が指名するとした。同時に委員長に選挙対策局長の河村建夫を指名した。幹事長は、選挙以外にも、衆参両院の議院運営委員会、党内の国会対策委員会などを通じて、国会運営、法案審議の指揮を行う。国会運営は、法案審議のみならず選挙日程にも関係するため、選挙の指揮に次ぐ重要な役割である。幹事長は他党との各種交渉の指揮も行うため、連立政権を組んでいる場合には、連立を組んでいる政党との窓口も幹事長が担当した。幹事長は他党との政策協議、国会運営の指図等を通じて、間接的に政策の企画立案にも関与することとなる。幹事長は党務全般を管理している。そのため、自民党の財政、人事についても大きな権限を握っている。党則上は副幹事長(幹事長代行・代理も含む)、幹事長の下に置かれる各局の局長・次長、国会対策委員長の決定権を持つ。党内の役職だけでなく、閣僚や国会の委員長ポスト、場合によっては高級官僚の人事にも影響力を及ぼすことがある。自民党が初めて下野した細川内閣の時期以降、自民党が銀行から融資を受ける際には、幹事長が連帯保証人となっている。また、自民党のナンバー2として、同党のスポークスマンの役割も担い、定例記者会見を行う。さらに、テレビ等で各党幹部を集めて討論を行う際には、党の政策責任者である政調会長に代わって、党を代表して幹事長が出演することもある。総幹分離とは、「幹事長は総裁の出身派閥から出さない」という慣例の通称である。1979年(昭和54年)以降、24年間にわたり踏襲され、その後も概ね維持されている。閣僚任免権をもつ総理総裁と、党役員任免権および公認権をもつ幹事長が同一派閥から出ることによって、特定派閥に権力が集中するのを抑制するという趣旨である。自民党結党以来、幹事長には総裁派閥の出身者など総裁に近い人物が就任するのが通例であったが、1974年(昭和49年)、椎名悦三郎が椎名裁定によって総裁に三木武夫を選出する際、選出の条件として総幹分離が打ち出された。これにより、三木は任期中、他派閥から幹事長を指名した。また、次の総裁・福田赳夫は、当初「大福連合」に政権の基盤を置いていたこともあって総幹分離を踏襲し、大平正芳を幹事長に起用した。1978年(昭和53年)12月、福田に総裁選で勝利した大平は、「(裁定ではなく)公選で総裁に選出された場合には、総幹分離は適用されない」として、総裁着任当初、自派の鈴木善幸の幹事長起用を模索した。しかし、この人事案は他派の反発を買ったため、自派ながら比較的派閥色の薄い斎藤邦吉を幹事長に起用した。このように、総幹分離は、この時点では必ずしも明確な慣行とはされていなかったと解される。その後、大平は衆議院総選挙で大敗した責任を追及され、妥協策として反主流派である中曽根派の櫻内義雄を幹事長とした。以後、四十日抗争直後からハプニング解散に至る激しい党内抗争の中で、櫻内が党内融和に奔走した実績が買われ、櫻内は続く鈴木政権でも続投することになる。かかる経緯により、総幹分離の慣例は定着した。また、幹事長を総裁派閥以外から起用した場合、代わりに幹事長代理を総裁派閥から選任することが慣例化した。1981年(昭和56年)11月、総裁に就任した鈴木の下で、櫻内に替わって二階堂進(田中派)が幹事長に就任する。このとき以降、最大派閥を率いていた田中角栄は、自らの総裁返り咲きのために自派から総裁候補を出さず、代わりに幹事長ポストに自派議員を送りこみ続けた。田中派から竹下派に代替わりしてからも同様であり、自派から総裁を出していないときは、その代わりに幹事長ポストを得、総裁の党運営を牽制した。このことも総幹分離を定着させた一因である。1994年(平成6年)に導入された衆議院の小選挙区制度は、派閥の影響力を殺ぎ、党本部への権力集中を促進した。さらに、派閥中心の党運営に否定的で官邸主導の政権運営を行った小泉純一郎の総裁就任によって、派閥の影響力はさらに低下した。小泉は総裁に就任すると、幹事長に山崎派の領袖山崎拓を起用した。これは、形式的には総幹分離に則っているが、山崎は小泉の盟友であり、最大派閥の橋本派(旧田中派)を排除して、主流派が総裁・幹事長を独占する形になった。小泉はさらに総裁再選に伴い、総裁派閥の安倍晋三を幹事長に起用し、24年間続いた総幹分離が形式の上からも途切れた。安倍の後任には再び山崎派の武部勤を起用した。もっとも、武部が自らを「偉大なるイエスマン」と称したことからも分かるとおり、この人事は総幹分離によって党内融和を図ったというよりも、むしろ総裁の意向の通りやすい人物を選んだものであって、小泉はここでも派閥にとらわれない人物本位の人事を貫いた。小泉の後継総裁である安倍晋三は、当初は出身派閥の中川秀直を幹事長に起用したものの、野党に惨敗した2007年(平成19年)7月の参院選後に行った役員改選では麻生太郎(麻生派)に幹事長を任せた。小泉以降の総裁は、総幹分離の慣例の趣旨を踏まえつつ、柔軟な人事を行っている。いずれにしても、熾烈な派閥抗争を調整し、権力のバランスをとるという意味での総幹分離の慣例は、その役割を終えた。※…形式上な派閥解消または派閥離脱は実質的な所属派閥を記載。太字は後に総裁に就任した人物谷垣禎一は幹事長就任前に総裁を経験している
出典:wikipedia
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