緒方 耕一(おがた こういち、1968年9月2日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、野球評論家・野球解説者。熊本県立熊本工業高等学校時代は1番・遊撃手を務め、3年時には甲子園大会へ春夏連続で出場。チームメイトにエースの永野吉成、二番手投手の木村重太郎、外野手の杉本拓也(近鉄バファローズからドラフト6位指名を受けるも入団拒否)がいた。のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)から6位指名を受け入団。入団後スイッチヒッターに転向。入団二年目のに二軍でイースタン・リーグの盗塁王を獲得。また、同リーグタイ記録となる1試合6盗塁を記録している。に一軍公式戦初出場を果たし、後の正遊撃手となる川相昌弘とのポジション争いには敗れるが、内外野を兼任して出場機会を獲得。ランニングホームランで一軍初本塁打を記録するなど、打席数は少ないながら打率3割8厘、13盗塁の成績を残した。同年に台頭した井上真二が高校の2年先輩であったため「熊工コンビ」としてメディアに取り上げられ、とりわけ若い女性の人気を集めた。また、ジュニアオールスターゲームへ出場している。には腰痛で長期離脱した篠塚和典の穴を埋める活躍で初の規定打席到達を果たすと共に33盗塁で野村謙二郎と並び初のセントラル・リーグ盗塁王を獲得したが、日本シリーズで一塁に駆けこんだ際にアキレス腱を故障。この影響で1991年は出場機会を減らし、盗塁数も激減した。1992年は終盤、故障でまともに出場できない状況であったが、監督の藤田元司はビジターの試合で2番で先発させ、1回の表に打席を完了すると回の裏から他の選手を守備に就かせて(出塁時は代走が送られた)打席数を稼ぎ、規定打席に到達させた。にはケガから復活し、24盗塁で石井琢朗と並び2度目の盗塁王を獲得。日本プロ野球の盗塁王としては、セントラル・パシフィックの2リーグ制開始以降、最も少ない記録だった。緒方以降、2011年の藤村大介まで巨人からは18年間盗塁王が誕生しなかった。また、巨人で複数回盗塁王を獲得したのは緒方が最後である。は守備・走塁のスペシャリストとして活躍し、後に伝説の一戦と呼ばれた「10.8」にもグラッデンに変わって守備で途中出場した。日本シリーズではファインプレーを見せた他、第5戦で勝利を決定づける満塁本塁打を放ち、試合後のインタビューでは長嶋茂雄監督に「ミラクルボーイ」と言わしめた。その後、アキレス腱や腰痛など故障により満足なプレーができず、に30歳で現役を引退した。より、東京放送(TBS)とプロ野球解説者契約を結ぶ。主に「マイクを持った盗塁王」のキャッチフレーズでTBSラジオナイター中継のベンチリポーターを務めた(一時期、ナイター中継の事前番組・事後番組のパーソナリティも担当)。また、この頃には専門誌『週刊ベースボール』で連載しているイ・リーグのリポート記事「イースタン・チェック」も担当していた。に巨人二軍外野守備・走塁コーチへ就任、鈴木尚広などに自己のノウハウを伝授した後、に退団。からまで再びTBSラジオでベンチリポーターを務めたのち、に巨人二軍外野守備・走塁コーチへ復帰した。から一軍外野守備・走塁コーチに就任。また、同年2009 ワールド・ベースボール・クラシック(2009 WBC)の日本代表外野守備・走塁コーチに就任、翌年の本大会では一塁ベースコーチとして大会連覇に貢献した。10月24日に来季の契約を更新しないことが発表され、巨人を退団。同年の日本シリーズからTBSラジオのプロ野球中継解説者に復帰、以前とは異なり放送席での解説を担当することになった(2011年に正式復帰)。以降は、日刊スポーツの野球評論家も務める。また、日テレG+(日本テレビ系衛星放送チャンネル)のイースタン・リーグ巨人二軍主管試合中継でも解説を担当。からはTBSラジオに加え、テレビ東京「neo sports」、更に日テレG+では巨人一軍戦中継の解説も担当。10月10日に、野球日本代表の外野守備・走塁コーチに就任した事が発表された。11月13日に、背番号が「73」となった事が発表された。愛称は「熊本のプリンス」「マイクを持った盗塁王」など。非常に誠実な人柄で知られ、巨人時代は先輩後輩を問わず多くの選手・関係者に慕われた。2度の盗塁王に輝き、89年・94年と2度の日本一に大きく貢献した功労者でありながら、「他の選手に迷惑がかかるから」という理由で引退試合を断っている。共に外野を守った松井秀喜とは親交が深く、94年の日本一パレードでも隣同士だった。引退後も交友関係は続き、松井がレイズに移籍した直後に独占インタビューを許可された。巨人の走塁コーチとして、鈴木尚広を若手時代に指導。
出典:wikipedia
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