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下津井電鉄線

下津井電鉄線(しもついでんてつせん)は、かつて岡山県都窪郡茶屋町(現:倉敷市)の茶屋町駅と倉敷市の下津井駅とを結んでいた下津井電鉄の鉄道路線である。モータリゼーションの進行による乗客の減少のために、1972年4月1日付で茶屋町 - 児島間14.5kmが廃止され、また1991年1月1日付で児島から下津井の間が廃止された。これにより、下津井電鉄は鉄道事業から撤退したが、企業名としての「下津井電鉄」の名称は鉄道事業撤退後も使用されている。(茶屋町 - 児島間廃止前のデータ)下津井電鉄線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋下津井電鉄線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋下津井電鉄線の近年の営業成績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋下津井は古くから風待港として栄えた港町である。下津井 - 丸亀間航路は航路が短いことから本州と四国とを結ぶ「四国往来」と呼ばれる主要ルートの一部とされ、金比羅参りの人々などが古くから多く利用していた。しかし、1910年に国鉄宇野線が全通し、これに接続する形で宇野 - 高松間で宇高連絡船の運航が開始されると、下津井 - 丸亀間航路の利用者は激減した。そこで四国渡航客を取り戻すために、下津井から国鉄線までの鉄道路線が計画された。会社設立に当たっては、当時塩田王として知られた野﨑家や、回船業や醸造業を営んでいた永山家をはじめとする児島・下津井の有力者らや、下津井の対岸にあたり、下津井 - 丸亀航路の盛衰が直接街の経済に影響を及ぼすことになる丸亀の有力者らの出資や用地提供を受け、1910年に下津井軽便鉄道期成同盟会を結成して、岡山県児島郡下津井より岡山県都窪郡茶屋町に至る軽便鉄道の旅客・貨物営業許可申請を行い、免許を取得した。これにより、1911年に下津井軽便鉄道会社を設立、全線の建設工事を着工した。もっとも、終端に当たる琴海 - 鷲羽山付近に大規模な岩盤開削工事が含まれ、その完成までには時間を要したため、児島郡最大の都邑であり、しかも下津井軽便鉄道にとって大口の路線用地提供者であった野﨑家が本拠を構える児島までの早期開業が要請された。これに応じて茶屋町 - 味野町(後の児島)間14.5kmが1913年に先行開業し、翌1914年に味野町 - 下津井間6.5kmが開業して茶屋町 - 下津井間21.0kmが全通している。この下津井軽便鉄道線には、山陽本線の支線である宇野線から、さらに茶屋町駅で乗り換えねばならないという立地条件の不便さがあった。このため本来の目的であった四国連絡の利用者は少なく、当初は経営難が続いた。その打開策として、山陽本線との直結を企図した倉敷への路線延長や国鉄線との直通を可能とする1,067mm軌間への改軌も幾度か検討されたが、部分開業の原因ともなった児島半島の縦断に起因する狭隘かつ急峻な地形と、これに伴う巨額の建設工事費を捻出できなかったことから、いずれの計画も断念している。その一方で大正末期より沿線、特に児島周辺で繊維産業が発達し客貨共に輸送量が増大し始めた。そのため、客貨分離とフリークエントサービスの充実を目論んで気動車(ガソリンカー)を導入、輸送力を大幅に増強した。戦前に導入したガソリンカーは単端式・ボギー車を合わせてのべ14両に達し、戦前の短距離軽便鉄道としては異例の大量導入であった。戦中および戦後の混乱期は、燃料統制に伴う石油の入手難から気動車の荷台にガス発生炉を搭載して木炭ガス燃料で走行させ、さらに釜石製鉄所から中古のドイツ製蒸気機関車を購入してしのいだ。しかし、石油・石炭等の燃料供給事情は戦時中から戦後にかけて極端に悪化し、燃料費暴騰で運行経費が著しく増大した。対策として一時は全線バス化も検討されたが、経営陣は電化を実施の上での鉄道存続を決定、物資難で工事も困難な状況下であったが、必要となる資材・人員を取り揃えて1949年に全線の電化工事を完了し、社名も下津井電鉄に変更した。電化当初は既存の大型気動車6両を電車に改造し、それらに制御車化された他の気動車を組み合わせた総括制御運転を行ったほか、必要に応じて蒸気機関車時代以来の客貨車を電車牽引することで対応した。日本の762mm軌間の電化軽便鉄道で総括制御方式を導入したのはこの下津井電鉄が最初の例である。そののち1951年に廃止となった赤穂鉄道からの譲受車による開業以来の老朽客車の置き換え、完全な新車の電車増備や、1955年に改軌した栗原電鉄からの中古電車導入、あるいは気動車改造電車の車体更新によって車両整備が順次進められた。風光明媚な鷲羽山への観光客増加も手伝って、昭和30年代に全盛期を迎え、重要拠点ゆえに老朽化が目立った児島・下津井両駅の新築による建て替えなどの大がかりな設備投資も順次実施されている。特に児島駅は鉄筋コンクリート2階(一部3階)建ての堂々たるビルに建て替えられ、児島市の玄関口としての役割を倉敷市との合併まで担うこととなった。山陽新幹線が岡山まで到達するようになった1970年代以降、岡山県内の道路網が整備され、児島地域から岡山・倉敷へは乗り換えの必要がなく所要時間も短い自社バスの利用客が増加するようになり、それまで年間200 - 250万人前後で推移していた下津井電鉄線の利用客数は1970年代初頭には150万人前後にまで急減した。このため、1972年3月末限りで茶屋町 - 児島間14.5kmが廃止された。この際、下津井周辺は狭隘な地形ゆえに道路状況が極端に悪くバスへの代替が困難であったため、末端の児島 - 下津井間6.5kmのみが創業目的の一つであった関西汽船・関西急行フェリーによる下津井 - 丸亀航路との連絡輸送維持の必要性もあって存続した。残存区間では全線を1閉塞区間とするスタフ閉塞に変更、ワンマン運転、下津井駅以外の全駅を無人化という徹底的な合理化を行い、さらに車両についても短縮前に在籍した電車21両のうち、車齢が若く手のかからない新造車を中心に6両のみを残して後はすべて廃車し、鉄道部門は従業員10人のみで運営を行った。その結果、鉄道の赤字をバス事業などの他の事業で補填できる額まで減らすことができた。1983年には旅客誘致策としてモハ1001の車両内外に乗客が自由に落書きできる電車「赤いクレパス号」が登場、「落書き電車」として有名になった。また、映画やテレビドラマのロケーション協力を積極的に進め、映画『悪霊島』では東下津井駅舎が使用され、テレビ朝日系で放映された石原プロモーション製作の刑事ドラマ『西部警察PART-III』の岡山・香川ロケに協力し、関西テレビ製作の『裸の大将放浪記』のロケ、テレビ朝日制作の土曜ワイド劇場等をはじめとしたサスペンスドラマや2時間ドラマなどのロケで使用されたが、利用客の長期低落傾向は1980年代を通じて続き、鉄道部門は赤字を出しながら自社バス部門の収益を財源とする内部補助で存続していた。1988年の瀬戸大橋開通を機に、橋にほど近い下津井電鉄では観光鉄道への転身を図った。琴海駅の交換設備を復活させて増発に備えるとともに、奇抜なメルヘン調レトロデザインの冷房付展望電車・2000系「メリーベル号」3両編成1本を新造した。児島駅の移転新築や下津井駅構内の整備、鷲羽山駅へメリーベル号導入により余剰となった車両を流用した待合室の設置などの様々な改良工事をはじめとして、イベント列車の運行などの増収策も図られた。しかし目当ての観光客のほとんどは四国や瀬戸大橋自体に流れた。そもそも乗換駅となる下電児島駅とJR児島駅とが1km程度と大きく離れているなど立地条件が不利な上、沿線で瀬戸大橋が眺望できる区間が鷲羽山周辺のごくわずかな区間に限られることから、下津井電鉄に目を向ける客はわずかであった。また期待していた瀬戸大橋関連のバスツアーや1988年に開催された瀬戸大橋博覧会の来場客も一部しか立ち寄らず、さらにJRの瀬戸大橋線が児島 - 岡山間をわずか30分で結ぶようになると、自社バス部門の高収入路線であった児島 - 岡山線の乗客が急速に減少し、さらに自社が開設した瀬戸大橋経由で岡山と四国を結ぶ都市間高速バスが主として瀬戸大橋通行料金の高額さに起因する運賃の高額さなどから失敗に終わったため、鉄道の赤字を補填することが困難になった。また、瀬戸大橋建設工事のために建設された資材搬入道路や整備された湾岸道路などが一般開放されて下津井周辺の道路状況が改善され、路線バスへの代替が可能になったこともあって鉄道線はその歴史的使命を終え、1990年末限りで全線廃止された。廃線跡は1972年の部分廃止時と1991年の残存区間の廃止時の2度に分けて倉敷市に譲渡され、その大部分が自転車道に転用された。児島 - 下津井間は通称「風の道」として整備されている。宇野線と接続していた茶屋町駅跡も、瀬戸大橋線開業まではホーム跡付近は下電バスの発着場として残されて他にも面影があったが、同線開業に伴う茶屋町駅高架化と共に実施された再開発によってホーム跡は撤去し区画整備されたため、現在、駅周辺に下津井電鉄の遺構はほとんど残されていない。茶屋町 - 児島間の一部の駅は、ホームがそのまま保存されている。また同区間の軌道敷は交差する瀬戸中央道の用地として転用された一部の区間以外は、ほぼ自転車道として整備されて残っている。児島 - 下津井間のその他の駅は、駅舎などの建物はすべて解体されたがホームはそのまま残存している箇所があり、また架線柱や信号柱などの設備も残されている箇所もある。この区間の軌道敷は前述の「風の道」として全区間整備されて歩くことができ、毎春恒例の倉敷市などが主催のウォーキングイベント「瀬戸内倉敷ツーデーマーチ」でもコースの一部として活用されている。琴海駅跡からは風光明媚な瀬戸内海を眺めることができる。正式な起点は下津井駅となっているため、起点側の1991年廃止区間を上部に記した。児島駅は部分廃止直後と最終期との2度にわたり移転している。2009年現在残されている児島駅は、1987年以降の最終期の児島駅であり、部分廃止前の1972年以前、部分廃止直後の1972年から1987年までとは場所が異なっている。そのため、上記の表中において児島駅の累計キロ(1991年時点)と児島小川駅の累計キロ(1972年時点)の差は児島小川駅の駅間キロと合致しない。なお、下津井電鉄線の児島駅はJR瀬戸大橋線の児島駅とは別地点である。列車運行上は茶屋町・児島から下津井へ向かう方が「下り」、逆方向が「上り」であった。低規格な軽便鉄道ではあったが、堅実な設計で目立たないながらも高級品を多用した車両が多いのが特徴である。1913年の開業に当たっては経営陣の判断で、対岸である四国の伊予鉄道や別子銅山鉄道と同じく、ドイツ・ミュンヘンのクラウス社(Locomotivfabrik Krauss & Comp.:現在のクラウス・マッファイ社)製蒸気機関車が刺賀商会経由で3両輸入された。周辺の鞆・両備・井笠・西大寺・三蟠の軽便鉄道各社が、同じドイツでもオットー・ライメルス商会経由で廉価なコッペル社(オーレンシュタイン&コッペル-アルトゥル・コッペル社。Orensteim & Koppel-Arthur Koppel A.-G.)製蒸気機関車を導入していた中にあって、珍しい例である。開業に当たって用意された蒸気機関車は10.2t B型ウェル・タンク機の1形1および13.2t C型ウェル・タンク機の11形11・12の計3両で、いずれもクラウス社ゼントリンク工場で1913年に製作されている。これらはクラウス社から日本へ輸入された蒸気機関車としてはほぼ最終期の製品で、第一次世界大戦勃発前の比較的余裕がある時期であったため、非常に丁寧に制作され、長年の酷使にもよく耐えたと伝えられている。その後第一次世界大戦後に増備車として13t C型ウェルタンク機の13が新製されたが、これは同じドイツでもアーノルト・ユング社 (Arnold Jung Locomotivfabrik GmbH) の製品で、軸距や軸重の関係からか下津井の軌道条件に上手く適合せず、またやや粗製濫造気味であったために不評で常に予備車の地位に置かれ、主力はクラウス製の3両のままであった。燃料の入手難で気動車の運行が困難となった戦後の混乱期には千葉県市川市の市川重工業に10t C形サイドタンク機を発注したものの、これは様々な事情から最終的に中止された。下津井鉄道に入線した最後の蒸気機関車となったのは、15t C型ウェルタンク機の15形15で、これは戦時中に立山重工業製20t級大型機を大量導入して余剰となった日本製鐵釜石製鉄所よりNo.164を譲受したものである。これは1910年にドイツのハノーマグ社で製造された車両であるが、軸重が大きく牽引力があったために混乱期には重宝された。創業当初から、電化後も1961年ごろまで多客時に対応する増結用として使用された。製作所と以前の在籍から下記の4タイプに分類する。なお、各形式は最終在籍時の型式。1913年の開業に際して、大阪の清水鉄工所で製造され準備された8両のシングルルーフ ボギー車。下津井までの全通に際して岡山の内田鉄工所で製造された切妻形ダブルルーフの5両のボギー車。大阪の加藤製作所によって1両だけ製造されたダブルルーフの大型のボギー車。妻面の窓は円型を帯びており、同社の小型曲線半径が多い線形を考えると、設計上かなりの無理があり、独自発注の車両ではないだろうと考えられている。1913年に両備鉄道に納品され、同社が1933年に国鉄に買収され1935年に改軌と線型変更を行ったため、1936年に赤穂鉄道に譲渡され、同社が廃業したために、1952年、夏の繁忙期対策に電車増結用として導入された3両のダブルルーフ、オープンデッキの汎用型軽便客車。両備鉄道時代には2・3等の合造車だった。譲渡契約日は3両共に1952年3月31日で、1953年9月に下津井電鉄の客車車両としては電動車から直流電源による点灯への改造工事が最初に施された。代燃動車の併用運転はは1927年3月20日に認可を受けている。実際の運行は1928年3月1日認可で入線した、日本車輌製造製の単端式2軸小型気動車カハ1・2に始まる。当時日本車輌製造が私鉄向けに供給していた、T型フォードなどの自動車の動力装置を利用する「軌道自動車」、いわゆるガソリンカーは、下津井鉄道の近隣路線である井笠鉄道が試作車を最初に導入していたこともあり、同社もいち早く注目してこれを導入したものである。そして井笠で先鞭を付けていた車掌省略運転(ワンマン運転)でも追随し、1928年3月に気動車に限った車掌省略許可を得、5月から実施した。ただし下津井鉄道には、稗田付近と琴海付近に1,000分の25という急勾配区間があり、公称出力20馬力/1,500rpmに過ぎない非力なフォードT型エンジン車での運行にはたいへん苦労があった模様で、「非力で坂が上れず、乗客を降ろして後押しさせた」との証言が残されている。このため1931年以降、フォードT型エンジンは遊星歯車を用いるその特殊な変速機ともども公称出力40馬力/2,200rpmと遙かに強力なフォードAのものに載せ替えられている。なお、その後のボギー車導入で余剰となったカハ2が、井笠鉄道に1939年に売却されて同社のジ13となっている。この軌道自動車によって従来の9往復から18 - 19回の高頻度運転にダイヤが改正された。不況が終わり児島周辺の紡績業が盛んになると小型の単端式では輸送力不足となり、1931年からは同じく日本車輌製造製中型両運転台ボギー気動車3両の導入が実施された。このシリーズ以降は手動式ブレーキに加えて空気圧によるSME非常弁付直通空気ブレーキが装備され、保安性が格段に向上した。また、急勾配区間対策としてクラス最強級のアメリカ製ガソリンエンジンを搭載、また勾配区間での空転防止を目的として、動軸にかかる荷重を大きくするため、台車の心皿位置を動軸寄りにずらした「偏心台車」と呼ばれる特殊な構造の鋳鋼製台車を動力台車に導入していた。これは日本車輌製造をはじめとする日本の気動車メーカー各社が当時取り組んでいた、非力な機関での気動車大型化を実現するための研究成果の一つである。1931年上期に先行導入された最初のボギー車であるカハ5は下降窓装備であったが、続いて年末に増備されたカハ6・7では二段上昇窓・鮮魚台付となり、台車心皿間寸法を500mm拡大している。この時点で大阪に工場のあった零細メーカーの加藤車輛製作所が新たに営業を図って日本車輌製造に競り勝ったとみられ、同社はカハ6・7をそのまま延長・大型化したような形態のボギー気動車を製作した。加藤車輛製作所は、まず従前のカハ6・7を単純に1,000mmストレッチしたような構造のカハ8を1933年に製造した。このカハ8ではエンジンが出力70%アップと大幅に高出力化されたウォーケシャ6MKへ変更されており、以後の増備車もこれにならった。急峻な下津井鉄道の線形では、一般の中小私鉄では強力型として取り扱われていたウォーケシャ6MSでさえ出力不足であった。続いて1934年からは、大型ボギー車カハ50形を加藤車輛製作所で増備した。カハ8を一回り拡大したようなスタイルで、運転台側にのみ乗務員扉を設置した(車掌台側には通常の2段窓が設置された)このグループは、日本国内の762mm軌間軽便鉄道向け気動車としては戦前最大の10,800mm・定員76人という大型車体にカハ8と同じウォーケシャ6MKと偏心台車を備えていた。1934年(50・51)、1936年(52)、1937年(53-55)と、カハ50-55の合計6両が順次増備されて下津井鉄道の主力車となった。なお、この加藤車輛製作所は中国鉄道向けにも日本車輌製造と気動車を毎年のように競作していたことが知られており、中国鉄道がウォーケシャ社製ガソリンエンジンを最初のキハニ100から最後のキハニ210まで一貫して採用していたことは、下津井鉄道のエンジン選定にも少なからぬ影響を与えていたと推測される。下津井鉄道が採用したウォーケシャ6MSおよび6MKは、その名の通りアメリカ合衆国ウィスコンシン州ウォーケシャに本拠を置いたウォーケシャ発動機会社の製品で、本来は農業トラクター用として開発されたものであり、それ故に自動車用のフォードA等とは比較にならない程の強トルク大出力機関であった。中でも6MKは当時の軽便鉄道向けとしては破格の強力機関であり、1,067mm軌間の地方鉄道を含む他社では客貨車牽引を目的に本機を採用した例がみられたが、ここ下津井ではボギー式気動車の連結器に当初は俗に朝顔形として知られる簡易なピンリンク式連結器を、途中からは日本車輌が新たに開発した軽量の簡易連結器を採用しており、客貨車に採用していたバッファー付きピンリンク式連結器とは構造、連結器高さ共に互換性がなかった。つまり、非力な気動車によるトレーラーの牽引は当初から構想外であったということであり、線形の厳しさが窺える。これらボギー車は俗に「鮮魚台」と呼ばれるバスケット状の荷台を車外両端に装備しているのが特徴で、下津井港からの鮮魚輸送や航路利用者の荷物搬送に有効活用された。最初のボギー車であるカハ5のみ当初は荷台なしだったが後に改造で追加装備し、単端式車4両も1932年エンジン変更の改造工事に併せて、車体後部に鮮魚台を取り付けている。戦中および戦後の混乱期は燃料不足から気動車を木炭ガスで走行させるため、気動車の鮮魚台に代燃炉を搭載して対処した。この際、燃料として必要となる木炭は、自社で工場を建設して確保している。さらに前述の通り、戦時中の大型機関車大量導入で余剰が発生していた釜石製鉄所から中古蒸気機関車を購入してしのいだが、石炭を含む燃料供給事情の極端な悪化と、これに伴う価格の高騰の対策として一時は全線のバス化も検討される有様であった。だが、最終的に経営陣は起債の上で電化して鉄道を存続することを決断し、1949年に全線の電化工事を完了、社名も下津井電鉄に変更した。この電化工事に当たっては、対岸の丸亀に発着していた琴平参宮電鉄から同社が1948年に琴平線の複線区間を単線化した際に不要となった機材を譲受するなどの手段を用い、資材難の中にあっても可能な限り良質な機材の調達に努めたことが伝えられている。例えば、架線の支持に細いながらも木柱ではなく鉄塔を用い、架線そのものも軽便鉄道にしばしば見られた路面電車並みの直接吊架ではなく、国鉄線等と同様に吊架線で間接的に吊り下げたシンプルカテナリ構造を、当初より採用していた。電化当初は従来の加藤製大型気動車6両(カハ50 - 55)を対象に電動車化改造を図り、モハ50 - 55とした。改造内容は床下のエンジン・変速機・減速機・燃料タンクを撤去し、吊り掛け式22kWモーター4基を台車枠を補強し端梁追加の上で装架、手動式単位スイッチ制御器(HL制御器)およびその補機一式を搭載してパンタグラフを屋根上に取り付けるというもので、ブレーキは新造以来の非常弁付直通空気ブレーキ (SME) のままとされたが、定格出力が合計で約120馬力、さらに4軸駆動となって牽引力が大幅に向上した。これにより、電気機関車代用としての使途が発生したモハ50 - 55には、台枠に補強を施した上で従来の簡易式連結器と上下に並べてバッファ付きねじ式連結器が追加搭載され、非常に物々しい外観となった。また、中型のカハ5 - 8はいずれも駆動系を撤去してマスコンを装備し、クハ5 - 8へ改造、当時まだ残存していた単端式のカハ1・3・4については同型のカハ1とカハ3を、ボンネット撤去の上で背中合わせに接合して車体を延伸し、台車も元の足回り2両分を巧妙に組み合わせてボギー式台車へ改造、クハ9として制御車の不足を補った。これに対して製造時期が最も新しいカハ4は、三菱重工業三原製作所で機関換装を実施の上で近隣の鞆鉄道へ譲渡され、未認可のまま同社の同系車であるキハ1と振り替えて使用されたと見られている。なお、電化後の列車運行に際しては、それらの改造電動車と改造制御車を組み合わせた総括制御運転、あるいは蒸気機関車時代以来の客貨車を電動車が牽引することで対応し、電気機関車は導入しなかった。日本の762mm軌間の電化軽便鉄道で総括制御方式を導入したのはこの下津井電鉄が最初の例であり、これにより機械式気動車の連結運転における複数運転士の搭乗による同調操作の問題が解消されている。当時、栗原鉄道や栃尾電鉄等、電化に伴い電車を導入した鉄道の多くでは、路面電車並みの直接制御電車で付随車を牽引し、終点では機関車同様に入れ替え作業を伴うことが普通であった。これに対し、この時期に電化した地方私鉄では、下津井電鉄のほかに淡路交通および和歌山鉄道(共に1,067mm軌間 直流600V電化)が総括制御を導入している。これらはいずれも下津井電鉄同様に第二次世界大戦以前より自社発注あるいは他社からの譲受による中型以上の機械式気動車が多数在籍しており、3社とも多客時の機械式気動車による連結運転の問題の多さが総括制御導入のきっかけとなったとみられる。先に挙げた直接制御電車を導入した2社が東日本に所在し、気動車時代から短編成列車の高頻度運転による旅客サービス向上に対してさほど積極的でなかったことから、これらの瀬戸内沿岸各地方私鉄における電化および列車の機動的な増解結による旅客サービスに対する取り組みの積極性が評価された。なお、この電化時の電車化改造においては、偏心台車はそのままで主電動機の装架工事が実施されており、後に台車枠の新造による振り替えが実施されるまでは、気動車改造電動車は6両とも、各軸の軸重不均等に起因する空転が発生しやすい傾向があった。1951年より新製電車の投入が開始された。いずれも、小さいながらもその時々の大手私鉄の動向が反映されているのが特徴である。第1陣となったのは、ドッジ・ラインによる緊縮財政の余波で国鉄向けの仕事を失って地方私鉄へセールス活動を展開していた日立製作所笠戸工場の手になるモハ101-クハ21の2両で、同社独特のMMC電動カム軸式自動加速制御器を備えた最新型の設計であった。もっとも、この自動加速制御器はパイロットモーターやカム軸のメンテナンスに手がかかり、しかも在来のモハ50 - 55などのHL制御器と制御シーケンスに互換性が無く相互間で併結も制御車の使い回しもできなかったために、限定的な運用に就けざるを得なかった。第2陣となったのはモハ102、クハ22・23の3両で、1954年にモハ102とクハ22がナニワ工機で、クハ23が帝国車両で製造された。これらはいずれも当時のナニワ工機が得意とした上段Hゴム支持の側窓を持つ準張殻構造でスマートなデザインの軽量車体を備え、車体の全長が伸びて13m級となった。これらはモハ101-クハ21の反省からHL制御器に戻されており、特に2両が製造された制御車は在来車と混用されてラッシュ時の混雑改善に大きな威力を発揮した。第3陣はモハ103-クハ24で、1961年にナニワ工機で製造された。車体寸法や窓配置の基本は第2陣に準じるが、乗務員扉が新設され、連結面は切妻化されて貫通路を設置し、初の2両固定編成車として登場した。デザイン面でも、当時のナニワ工機の主力製品の一つであったアルミサッシが全面的に導入され、前面デザインも湘南型をベースに前照灯を左右に振り分けて2灯装備する近代的な造形となり、紅白2色の塗り分けで鮮烈な印象を見る者に与えた。もっとも、機器は第2陣と共通で、電動車の台車が変更された程度にとどまっている。1955年には、改軌した宮城県の栗原電鉄からモハ2401・2402(1950年日本鉄道自動車工業製)・2403(1951年日本鉄道自動車工業製)を譲受し、電装解除の上でサハ1-3として竣工した。貴重な電動車を付随車化したのは、これらが比較的小型の直接制御車であり、在来車と共通運用可能とするには電装品の大半を新製して交換せねばならなかったためであった。これらの就役により、蒸気機関車時代以来の客車はその大半が淘汰された。モハ103登場後、陳腐化が進み、また明らかに見劣りするようになったことから、気動車改造電車の車体更新が自社下津井工場で開始された。工事内容は制御車の車体延伸、各車の鮮魚台部分の客室化、偏心台車の均等化などで、モハ51・54・50→モハ104・105・110、クハ8・7→クハ25・26となった。この内モハ110以外は形状をモハ102-クハ22に準じたものとし、貫通路を設置した固定編成車とされたが、モハ110に限っては電気機関車代用や早朝・深夜の単行運転を前提に両運転台のまま更新工事が実施され、入れ替え作業の便を図って乗務員扉が前後左右4か所に設置されている。なお、貫通路の設置はこの他固定編成で運用されていたモハ101・102、クハ21・22、サハ2・3に対しても実施されており、当時の輸送単位の急激な増大ぶりがしのばれる。1972年の路線短縮後、モハ110、クハ23(後のモハ1001)、モハ103+クハ24、モハ102+サハ2+クハ22の7両が残された。実際に運用上必要な車両数は6両であったが、単行運転用として片運転台の制御車であるクハ23を両運転台の電動車に改造するのに時間がかかったことから、その間の暫定的な運用車両として両運転台の更新車であるモハ110も残された。クハ23については、窓配置を変更して客用扉を両端に寄せ、廃車となったモハ52から発生したとされる電装品を用いて電装するという大工事が自社下津井工場にて実施され、あわせてワンマン化改造の上でモハ1001として1973年に竣工し、モハ110を長期休車から1977年には廃車へと追いやった。その後同車は早朝深夜や日中の単行運転用として長く重用されたが、1983年10月頃から車内外への落書きを公認しそれを目玉にした落書き電車となり「赤いクレパス号」と呼ばれて、テレビや雑誌などでも取り上げられて有名になった。また、1984年11月には定期検査の機会を捉えて車内の海側のロングシートのみ撤去し、そこに廃車となった自社所有観光バスの廃車時に発生した余剰品の座席を流用して、山側は既存のロングシート、海側は交換したクロスシートの座席配置のセミクロスシート車として廃止時まで使用された。廃止前には全国各地から訪れた人による落書きが車両内外の至る所に数多く書き込まれていた。モハ103+クハ24は朝夕の通勤通学時間帯や休日などの多客時、あるいはモハ1001の検査時などを中心に運用され、しばらくはツーマン仕様で使われていたが、1973年12月 - 1974年1月にかけての定期検査の際にワンマン化改造が実施され、モハ1001同様に運転台寄り客用扉を移設、さらに乗務員扉も廃止されて変則的な窓配置となった。その後は、車体修理の機会を捉えて1985年6月にアイボリーホワイトを主体にスカーレットの細帯を巻いた、当時の自社路線バス塗装に近いデザインに変更されたが、1988年の瀬戸大橋完成直前に富士フイルムの広告電車となり、同社製フィルムのイメージカラーである緑を主体に白帯を巻いた塗装に変更の上で廃止時まで運用された。モハ102+サハ2+クハ22は児島競艇開催時やイベント時などの多客輸送用とモハ103+クハ24の定期検査時の代走用として残されており、客用扉も手動のままで自動化されず、またワンマン化改造もされずツーマン仕様のままで路線短縮前の全盛期の姿を保っていた。ただし運用時には車掌の乗務が必須であったため通常期は運用されず、下津井車庫で留置されていることが多かった。後述するメリーベルの導入後にまずサハ2が廃車解体され、その後瀬戸大橋博'88の会期終了後には、予備車として残されていた2両も順次、下津井工場でクハ22、モハ102の順に1990年に解体された。なお同車の電装品や機器類などは既存車の予備部品として廃止時まで保管されていた。1988年の瀬戸大橋完成に合わせ、在籍車両中でも唯一ワンマン化されず、また老朽化が特に深刻になってきていたモハ102+サハ2+クハ22の代替用として、1961年のモハ103+クハ24以来実に27年ぶりの新車が用意された。アルナ工機でモハ2001+サハ2201+クハ2101の計3両1編成が製造されたこの新車は、「大正ロマン電車」をデザインコンセプトとするいわゆるレトロ調電車であり、塗装は従来車と異なり赤一色、屋根はダブルルーフ(レイルロード・ルーフ)で前面にはカウキャッチャーと飾りのベルをぶら下げたダミーのデッキを設けていた。さらに、運転台寄り半室が冷房付きで海側がクロスシート、山側がロングシートの赤いクレパス号と同様の座席配置のセミクロスシートとした密閉型、残り半室とサハの全室は車窓向きに座席が配置されたカラーパイプを並べたロングシートの開放型、という非常に特徴的なアコモデーションを備え、「メリーベル」という愛称が与えられていた。もっとも、外観の奇抜さとは裏腹にその主要機器は至って普通であった。制御器(東洋電機製造製HL制御器)と主電動機こそ下津井工場に長らくストックされていた予備品が流用されたが、主電動機は在庫品を絶縁強化して出力アップ、台車は住友金属FS538と呼称される片押し式ユニットブレーキにメンテナンスフリーの密封式円錐コロ軸受、そしてオイルダンパを組み込まれた防振台車を採用、路面電車向けに生産されていた当時最新鋭の東洋電機製Z型パンタグラフをモハとクハの前頭部寄りに搭載し、離線対策として両者間を母線結合、補助電源装置は静止形インバータ (SIV) を初採用、ブレーキも電気指令式電磁直通ブレーキ (HRD-1) とするなど、当時の最新技術を積極的に、しかもメンテナンスフリーに重点を置いて合理的な形で導入していた。この「メリーベル」は中間のサハ2201を抜き取ってモハ2001+クハ2101の2両編成でも運用可能で、同年開催された瀬戸大橋博覧会終了後はその状態でしばらく運行され、その間サハ2201は下津井駅構内に留置されていた。これら3両は久々の新造車両であり、その就役によりモハ102+サハ2+クハ22を廃車に追い込んだが、これら自体も想定外の会社不振による下津井電鉄線そのものの廃止により、実運用期間わずか3年未満で廃車となった。その後、同じ762mm軌間で2003年4月1日に近畿日本鉄道から地元自治体の支援により運営移管した三岐鉄道北勢線に車両譲渡の話もあったが、保安装置や架線電圧の相違など車両規格やその改造費用等の様々な問題があり、その後立ち消えとなって実現していない。多くの車両は部分廃止に伴う除籍後に下津井工場で解体処分されたため、現存する車両は少ない。ただ全線廃止時に残っていた車両の一部は解体されたが客車8両、貨車3両は前述の下津井駅構内にあった旧温室内へ廃止後、新たに敷かれた線路上へ保存されている。駅跡地は廃止後も下津井電鉄が所有しており、通常は一般公開されていない。一時期は周囲を有刺鉄線などで囲んでいた。また車両も劣化が進んでいた。2002年より下津井電鉄を愛好する地元住民を中心としたボランティアで結成された「下津井みなと電車保存会」の手によって、車体の補修などが徐々に進められている。車両の現況については保存会のウェブサイトで確認することができる(下記外部リンク参照)。なお、保存会の活動日および年に一度の「下津井みなと電車祭り」(夏から秋頃に開催)の際には、近くで車両を見ることが可能である。吉井川沿いの岡山県瀬戸内市長船町の国道2号脇にあるドライブインの北側、山陽新幹線高架下にも3両が、頭上を走る新幹線の枕木方向へ横並びで保存されている。部分廃止後にトラックで同所へ運び込まれた。車両は新幹線の高架下なので雨露からは凌げているが、下津井駅の保存車両と同様に窓ガラスが割られ、塗装も劣化した。2007年になって3両とも全塗装され、車両の案内看板も新調された。また、車両はいずれも常時間近で見ることができ、内部も見学可能である。以前は、国道2号からも見ることができたが、車両の南(国道)側の駐車場の端に販売店の建物が建設されたため現在では見えなくなった。

出典:wikipedia

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