豊予要塞(ほうよようさい)は、豊予海峡の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞である。1920年(大正9年)の要塞整理方針に基づき工事が着手された。1921年(大正10年)から1930年(昭和5年)まで第一期工事を実施し、1931年(昭和6年)以降に第二期工事が実施された。この要塞の建設により、芸予要塞・広島湾要塞が整理され廃止となった。太平洋戦争を控え、1941年(昭和16年)11月に警急戦備が下令された。1942年(昭和17年)1月、丹賀砲台(砲塔砲台)で実弾射撃の際に右砲身の砲腔破裂事故が発生し、砲台が破壊され再生不能となった。同年3月、代替の砲台として鶴見崎砲台(15cmカノン砲)の工事に着手し、同年9月に竣工した。佐田岬砲台は榴弾砲を志布志湾の高崎砲台に移設したために1924年に一度廃止されたが、1925年2月より再整備工事が始まり終戦直前に工事が完了した。豊予要塞重砲兵連隊は、豊予要塞の主戦力として1941年(昭和16年)12月20日に編成下令され、佐賀関で編成された。通称号は睦第2738部隊である。1942年(昭和17年)1月11日に、配備後初の実弾射撃を丹賀砲台で実施したところ、腔発事故を起こし、内藤連隊長以下16名が死亡、28名が負傷した。1945年(昭和20年)5月に、本土決戦に備えて野戦的な性格のある重砲兵第18連隊に改称され、独立混成第118旅団に編合された。引き続き既設の砲台に5個中隊を配置して、終戦まで防衛態勢をとった。矢野穆彦連隊長は旅団の高島地区隊長を務めていた。大戦末期には本土決戦に備えて約1100人の守備隊兵士が配置された。
出典:wikipedia
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