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そごう心斎橋本店

そごう心斎橋本店(そごうしんさいばしほんてん)は、2009年8月まで大阪府大阪市中央区心斎橋筋1丁目8-3にあった百貨店。この項では、2000年12月まであったそごう大阪店についても記述する。そごう大阪店はそごう一号店として、旗艦店の役割を果たしていた。創業以来そごう発祥の地として180年もの間心斎橋筋商店街で商いを続けてきた自負もあり、その存在は絶大だった。隣接する大丸とは競合関係にあったが互いに切磋琢磨し合い、結果的に心斎橋全体の活性化につなげた。しかしながら、阪急、阪神、近鉄(阿倍野本店)といったターミナル駅併設型店舗の優位性が次第に顕著になり、心斎橋の当店、天満橋の松坂屋(2004年閉店)、北浜の三越(2005年閉店)といった中心市街型店舗は低迷するようになった。かつては同型店舗だったものの、早々にターミナル型へ移行した高島屋、新規出店に踏み切った大丸(梅田店)とは明暗を分け、最終的には株式会社そごうの経営破綻と共に閉店へと追い込まれた。長らく親しまれていた、そごう大阪店の建物は1935年に完成し、アールデコ様式で村野藤吾の設計による。建物内にはシンボルゾーン「光の樹」。藤川勇造作のシンボルモニュメント「飛躍の像」。エレベーターは島野三秋作の「漆螺鈿装飾扉」。モザイクタイル天井画は鶴丸梅吉作の「天空」があった。2003年の解体においては、保存の要望や解体の反対運動が起きるなど、その歴史的価値を高く評する者もいた。2000年12月25日に一旦閉店したそごう大阪店の跡地に、「そごう再生のシンボル」との位置づけで2005年9月7日にそごう心斎橋本店として新装開店した。 当初旧店舗閉店後は三越に売却する予定だったが、親会社・ミレニアムリテイリングの和田繁明社長の提案により「創業の地にそごう再生のシンボル」として売却を撤回した。そごう大阪店閉店当初は、再びこの地にそごうが本当に戻って来るのか不安視する顧客も多く、現に閉店から解体まで時間をかなり要したことにより、本当に「再生のシンボル」として新しいそごうが建てられるのか懐疑的な者もいた。しかし新しい建物が着工され再生が現実味を増すと、心斎橋の活性化の起爆剤になると概ね好意的に迎え入れられた。地下2階・地上14階、売り場面積約40000m²で、ハートビル法の認定を受けていた。当初は地上8階・地下3階で建設する予定だったが、売り場面積の拡張を狙い建物の容積率の規制緩和を待って着工したため、営業再開が延期した経緯がある。2006年2月には、店舗デザインのアメリカ専門誌「VMSD」が主催する国際店舗デザインコンテストの総合百貨店部門で、そごう心斎橋本店が1位となった。そごう心斎橋本店は、デザインと企画をアメリカ・シアトルのキャリソン・アーキテクチャー社が担当した。「なにわ遊覧百貨店」をキャッチコピーに、オープン当初は女優の宮沢りえを起用したテレビCMや新聞広告を積極的に展開し連日賑わせた。高級かつ中高年の富裕層をターゲットにした店舗展開を図り開店当初こそ話題となったが、近隣のアメリカ村をはじめとする心斎橋界隈の急速な若年齢層化にも対応しきれず、常に厳しい運営を余儀なくされた。開店後1カ月は200万人の来客があったが、心斎橋本店再開までの5年間のブランクは予想以上にそごう離れを引き起こしており、その後は下降線をたどった。赤字損失の拡大も深刻で、開店から一度も黒字転換することがなかった。最終的には「再生のシンボル」はそごう大阪店閉店から9年弱、念願の再オープンから4年で創業の地より完全撤退という無念な形での閉店を決断せざるを得なかった。奇しくもそごうが心斎橋で百貨店事業を始めた1919年から90年という節目の年だった。2009年8月19日には「そごう心斎橋本店カウントダウン」と称して閉店までの日数を入口前に表示した。土地および建物は、隣接するJ.フロント リテイリング傘下の大丸に379億1000万円で売却された。建物はそのまま活用され、改装後の2009年11月14日に「大丸心斎橋店・北館」として開店した。14階に併設されていた旧「そごう劇場」は、「大丸心斎橋劇場」と名称を変え、イベント等に使用されている。

出典:wikipedia

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