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赤い鳥 (フォークグループ)

赤い鳥(あかいとり)は、日本の音楽グループ。1969年に結成、1970年代を中心に活動し、1974年解散。グループ名は鈴木三重吉主宰の児童雑誌『赤い鳥』からとった。デビュー前は松田幸一も参加していた。1969年4月に赤い屋根の家(兵庫県尼崎市武庫之荘にある公民館:現在、屋根は赤く無い)でコンサートを開催した。余談だがその当時近所に住んでいた大村崑夫人にギターを教えたのは後藤悦治郎だった。1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。「竹田の子守唄」、「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得した。この時、オフコース(当時は「ジ・オフ・コース」として)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」として)も出場していた。財津和夫はオフコースを聴いて「負けた」と思い、オフコースの小田和正は赤い鳥を聴いて「負けた」と思ったという。1970年4月、ヨーロッパ旅行に出発、イギリス、ロンドンでレコーディング。6月に日本コロムビアからシングル「人生」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。9月、東芝EMIレコード/Liberty レーベルに移籍。10月、合歓ポピュラーフェスティバル'70に出場、「翼をください」で新人奨励賞を受賞。1971年1月から1972年6月まで、竹田一彦カルテットがバックバンドとして協力。1971年2月発売の「竹田の子守唄/翼をください」が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。1972年7月、渡米、レコーディング。メンバーは、後藤悦治郎(ギター)、平山泰代(ピアノ、1974年2月後藤と結婚)、山本俊彦(ギター)、新居潤子(1973年4月に山本と結婚し、山本潤子)(ボーカル・ギター)、大川茂(ベース、1969年6月加入、1972年8月アメリカ合衆国カントリーチャーチで結婚)の5名。後期には、大村憲司(ギター、1972年2月から1973年4月)、村上秀一(ドラム、1972年6月から1973年4月、村上“ポンタ”秀一)、渡辺俊幸(ドラム・キーボード、1973年4月から)を加える。各人がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。各地の子守唄・伝承されている歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ()などの曲提供によりアルバムを発表するなどいわゆるソフトロック的な音楽性も兼ね備えていた(そのため、関西地区で結成されたグループであるが、関西フォークとは一線を画していた)。路線対立から1974年9月に解散。事実上、下記の通り3分割されることになった。その後、後藤・平山の夫妻は「紙ふうせん」、山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、渡辺は「ハミング・バード」を結成した。紙ふうせんはフォークのあり方を追求し、ハイ・ファイ・セットは荒井由実やジャズを取り上げるなど、ポップな演奏を繰り拡げた。ハミング・バードは赤い鳥の後期を継承するような音楽性を展開したが、アルバム1枚とシングル数枚で解散した。また、渡辺俊幸は1976年にさだまさしのバックボーンとなってプロデュース・編曲・バックバンドのメンバーなどで活躍した。グレープ解散後さだは渡辺と新ユニットの結成も模索していたといわれる。1983年には大阪府万博球場で再結成コンサートが行われた。1991年、後藤・平山夫妻は新グループ(ユニット)「TSU-BA-SA」を結成した。2人のメンバーを新たに加えた4人編成で、90年代中頃まで活動を行っていた。赤い鳥の再結成と見られる事があったが、あくまでも後藤夫妻のプロジェクトである。大川茂は1995年、横浜市青葉区の食料品店の事務所荒らしで見張りとして(共犯)逮捕。音楽活動には戻っていない。

出典:wikipedia

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