モルモン・トレイル(またはモルモン開拓者トレイル、)は、1846年から1868年に末日聖徒イエス・キリスト教会の信徒が通った総延長1,300マイル (2080 km) の道である。今日、モルモン・トレイルは「モルモン開拓者国定歴史の道」として国定トレイル・システムの一部になっている。モルモン・トレイルは、1839年から1846年まで末日聖徒イエス・キリスト教会の主要開拓地だったイリノイ州ノーブーから、ブリガム・ヤングとその追随者達が1847年を初めとして移り住んだユタ州ソルトレイクシティまで続いている。アイオワ州カウンシルブラフスからワイオミング州ブリッジャー砦まではオレゴン・トレイルやカリフォルニア・トレイルとほぼ同じ経路を辿っており、これらの道は集合的に移民の道と呼ばれている。モルモン開拓者の移動は、この教派が隣人との紛争に直面した1846年に、指導者ヤングがノーブーを捨ててグレートベースンに新しい教会の本拠を設立することを決めたときに始まった。この年、ヤングの追随者達はアイオワ州を横切った。途中である者達は開拓地を作るよう割り当てられ、後の移民のために作物を植えて収穫した。1846年から1847年の冬、移民たちはアイオワ州やその近くの州、さらには後にネブラスカ州となるまだ組織化されていなかった領土で冬を過ごした。最も大きな集団はネブラスカのウィンター・クォーターズで過ごした。1847年春、ヤングは先行隊を率いて、当時はアメリカ合衆国の領土外で後にユタ州となったソルトレイク・バレーに向かった。この最初の年の移民達は大半が元ノーブーの住人であり、ヤングに従ってユタまで同行した。後に、この移民たちは次第にイギリス諸島やヨーロッパ大陸からの改宗者を包含していった。モルモン・トレイルは1869年に最初の大陸横断鉄道が完成するまで20年以上にわたって使われた。その移民の中には1856年から1860年にかけてのモルモン手押し車開拓者隊がいた。ジェイムズ・G・ウィリーとエドワード・マーティンに率いられた手押し車隊の2つは、出発が遅かったためにワイオミングで激しい暴風雪に遭うという惨事を経験した。末日聖徒イエス・キリスト教会はジョセフ・スミス・ジュニアの指導の下に、1830年から1844年の間に合衆国中に幾つかの地域社会を設立し、その中でも著名だったのが、オハイオ州カートランド、ミズーリ州インデペンデンスおよび、イリノイ州ノーブーだった。しかし教会は内部の不一致や他の開拓者との紛争のためにそれらの開拓地から追い出された。教会は最終的に1846年にノーブーも捨てざるを得なくなった。1844年にスミスが死んだ後で教会は幾つかの会派に分裂したが、多くの信徒はブリガム・ヤングとその末日聖徒イエス・キリスト教会に加わった。ヤングの指導の下にノーブーにいた約14,000人の教徒が、西部で新しい住処を見つけるために出発した。スミスの死後、ヤングは十二使徒定員会の上級使徒として教会を指導する責任を取った。後には教会の大官長かつ預言者になった。ヤングはこのとき、正確にどこへ行くかとか、どこまで行けば終わりになるかというこも分かっておらずに、遥か西部に教徒達を率いて行く必要があった。ヤングは、誰も住むことを望まないような一つの場所にモルモン教徒が入植すべきであり、孤立したグレートベースンは教会に多くの利点を提供してくれると主張した。ヤングはグレートソルトレイク・バレーやグレートベースンに関する情報を調べ、マウンテンマンや罠漁師達に相談し、その地域に詳しいイエズス会宣教師ピエール=ジャン・デ・スメーとも会談した。ロッキー山脈を越える道を開発するために先行隊を組織し、道の状況を評価し、水源を見つけ、グレートベースンで集合する場所を選択させることとした。プラット川やノースプラット川に沿ったルートは、既にその南岸にあったオレゴン・トレイルを使う旅人との牧草権、水の利用および宿営地などに関して起こりそうなトラブルを避けるために、北岸の新しいルートが選定された。1845年10月のクィンシー会議でモルモン教徒が1846年5月までにノーブーを明け渡すよう要求する決議が可決されていた。その数日後のカーシッジ会議で、モルモン教徒が5月の日限を守らなかった場合に退去を強制するための民兵隊の設立が要求された。モルモン教徒はこの日限を守りグレートベースンへ向けて早期に出発する為に1846年2月にノーブーを出発し始めた。ノーブーからの出発はヤングの指導下で2月4日に始まった。この早期の出発のために冬の一番寒い時の条件に曝されることになった。ミシシッピ川を渡った後、アイオワ準州を横切るときは原始的な領土内道路やインディアンの使う道を辿った。ヤングは当初約300人の急行隊を率いて1846年の夏の間にグレートベースンまで行く計画だった。当初はアイオワを抜けてミズーリ川に着くのに4週間ないし6週間掛かると思っていた。しかし、実際にアイオワを抜けるだけで、雨やぬかるみ、膨れ上がった川および乏しい準備のために遅れ、計画したよりも3倍近い16週間を要した。激しい雨のためにアイオワ南部のうねりのある平原は車軸の深さもあるぬかるみに変わった。さらに旅に十分な食糧を持ってきた人も少なかった。この天候と全体的な準備の足りなさ、さらにこのような大集団で移動する経験が無かったことで、全てが耐え忍ばねばならない困難さになった。最初の集団は6月14日にミズーリ川に到着した。その季節の残りでグレートベースンに辿り着くことは出来ないのが明白だったので、ミズーリ川近くで冬を越すことにした。移民のある者達はミズーリ川のアイオワ州側のケインズビルと呼ばれる開拓地を作った。その他の者達は川を渡り、今日のネブラスカ州オマハの地域に入り、ウィンター・クォーターズと呼ぶ冬季宿営地を作った。1847年4月、先行隊に選ばれたメンバーが集まり、最後の物資が詰められ、この集団は14個中隊に編成された。民兵隊と夜警が形成された。先行隊は143名で構成され、その中には3人の黒人と十二使徒定員会の中から8人が含まれ、さらに3人の女性と2人の子供も居た。隊列は73両の荷車と役畜、家畜となり、この集団の1年分の物資が積まれた。4月5日、荷車隊はウィンター・クォーターズからグレートベースンに向けて出発した。ウィンター・クォーターズからララミー砦まで6週間掛かり、6月1日に砦に到着した。ララミー砦にいる間にモルモン大隊のメンバーが合流した。彼らはミシシッピ州から来た者達であり、病気のために隊を離れてコロラドのプエブロで冬を過ごしていた。ここで大きくなった先遣隊は既に確立されていたオレゴン・トレイルを通ってブリッジャー砦の交易基地に向かった。ヤングは6月28日にジム・ブリッジャーと出遭った。二人はソルトレイク・バレーに入る経路を検討しグレートベースンの山岳が多い渓谷で発展しうる開拓地の実現可能性を話し合った。先遣隊はサウスパスを通過し、筏でグリーン川を渡り、7月7日にブリッジャー砦に到着した。これと同じ頃、モルモン大隊の病気になっていた分遣隊12名がさらに合流した。それから先の岩の多く障害だらけの道に直面したヤングは前年にドナー・リード隊がカリフォルニアに行った時に使った道を辿ることにした。先遣隊は岩の多い山道を抜ける為に隊を3つに分けた。ヤングとその他何人かの隊員は森林ダニが媒介する一般に「山岳熱」と呼ばれる熱病に罹っていた。病人の小さな隊が大きな集団の後に遅れて付いていき、斥候隊が作られて指定された経路を先行することになった。斥候のエラストゥス・スノーとオーソン・プラットが7月21日にソルトレイク・バレーに入った。7月23日、プラットは神に土地を捧げる祈りを提案した。土地が切り開かれ、灌漑用の溝が掘られ、ジャガイモとカブがまず畑に植えられた。7月24日、ヤングは友人のウィルフォード・ウッドラフが御する病人用荷車から渓谷を初めて見た。ウッドラフに拠れば、ヤングは渓谷の様子に満足の意を表し、「これがまさにその場所だ、進もう」と宣言した。1847年8月、ヤングと先遣隊の選ばれたメンバーがウィンター・クォーターズに戻り、翌年に予定される移動隊を編成した。1847年12月までに、2,000人以上のモルモン教徒がソルトレイク・バレー、さらにはメキシコ領への旅を完了した。耕されていなかった土地で耕作することは当初難しく、乾燥した大地を鋤こうとすると鋤が壊れた。灌漑システムが考案されて鋤く前に土地を水浸しにし、そのシステムは1年中補助的な水分を供給した。ソルトレイクシティの都市計画が作られ、そこを教会の本部に指定した。懸命な労働で繁栄する地域社会が生まれた。この新しい開拓地では娯楽も重要であり、最初の公共建築物は劇場になった。しかし、アメリカ合衆国が間もなく追いついてきて、メキシコとの戦争が終わった後の1848年にモルモン教徒が入植した土地はアメリカ合衆国の一部になった。モルモン教徒の移民が続いた各年で、人々は「中隊」に編成され、各中隊はその指導者の名前を付け、さらに10人から50人の小集団に分けられた。教徒は行程を2つに分け、先遣隊が開発した道を旅した。最初の行程はノーブーに始まり、今日のネブラスカ州オマハに近いウィンター・クォーターズで終わった。旅の残りは後にネブラスカ州とワイオミング州となった地域を抜けて現在のユタ州にあるソルトレイク・バレーで終わるものだった。初期の集団は幌を付けた荷車を牛に曳かせ、物資を積んで山河を進んだ。後期の集団は手押し車を使い、徒歩で進んだ。1849年までにアイオワ州やミズーリ州に残っていたモルモン教徒は貧乏であり、旅に必要とされる荷車や役獣それに物資を買う余裕が無かった。末日聖徒イエス・キリスト教会は無期限移民基金と呼ばれる回転資金を設立し、貧しい者が移住できるようにした。1852年までに移民を希望したノーブーからのモルモン教徒は大半がそれを成し遂げ、教会はアイオワの開拓地を放棄した。しかし、東部州やヨーロッパからの教会員がユタに向かい続け、無期限移民基金に援けられることが多かった。1856年、貧しいヨーロッパからの移民が安価に旅することを可能にするために、手押し車中隊という仕組みを始動させた。手押し車は2輪の荷車で、役獣の代わりに人間が曳いていくものであり、1856年から1860年まで輸送の代替手段として使われた。これはヨーロッパからの改宗者をソルトレイクシティまでより速くより容易にまたより安く連れてくる手段だと考えられた。およそ3,000人のモルモン教徒が653両の手押し車と50両の物資荷車を使い、10個中隊に分かれてソルトレイクシティへの道を進んだ。手押し車を使ったのは初めてのことではなかったが、それを大々的に使ったのはこの集団だけだった。手押し車は通りの清掃員が使っていた荷車を改装したものであり、ほとんど木材でできていた。一般に長さは6ないし7フィート (183 - 213 cm)、幅は狭い荷車道に合うだけのもので、引っ張るか押して進めた。車には小さな箱が付けられ、その長さは3ないし4フィート (91 - 122 cm)、深さは8インチ (20 cm) だった。積み込む物資の重さは約500ポンド (227 kg)であり、その大半は旅の食糧とわずかな個人の所有物だった。手押し車中隊のうち2隊を除いて、さしたるトラブルも無く、わずかに死者を出しただけででこぼこ道の旅を成功させた。しかし、ウィリー中隊とマーティン中隊と呼ばれた第4および第5の中隊は大きなトラブルに遭遇した。この2個中隊は1856年7月にアイオワシティを出発したが、平原を横切る旅を始めるには大変遅すぎる時期だった。この2隊は現在のワイオミング州キャスパーの西で厳しい冬の気象に遭遇し、旅の残り期間深い雪と吹雪と戦って道を続けた。食糧は間もなく枯渇した。ヤングはこれら中隊を連れてくる為に救援隊を組織したが、この2個中隊にいた980人の移民のうち210人以上が死んだ。手押し車中隊は1860年まで続いて成功し、伝統的な牛に曳かせる荷車中隊も高い費用を出せる者達のために続いた。1860年以降、教会は毎年春に荷車中隊を東に送り、夏の間にモルモン教徒を連れてユタに戻ってくるようにした。最終的に1869年に最初の大陸横断鉄道が開通し、その後の移民は鉄道で旅することができ、モルモン開拓者トレイルの時代は終わりを告げた。以下に記すのは、初期のモルモン開拓者が立ち寄り、一時的な宿営所を設立しあるいは目印や落ち合う場所として使ったトレイル沿いの主要地点である。これらの場所は現在のアメリカ合衆国の地名で表してある。
出典:wikipedia
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