法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。日本の戦国時代に起きた、京都における宗派間の紛争である。日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれる。天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていた。1532年(天文元年)、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちした。当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼した(山科本願寺の戦い)。この後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶ。1536年(天文5年)2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけた。延暦寺もこれに応じ、3月3日(旧暦)に延暦寺西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉(松本新左衛門久吉)とが問答したところ、松本久吉が華王房を論破した(松本問答)。延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まり、面目を潰されたと感じた延暦寺は同年、日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めたが、幕府は後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議。同年7月(旧暦)、延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。延暦寺全山の大衆が集合して、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った(当時の延暦寺などの仏教勢力は、現代人が「寺」と聞いて思い描くような平和的な集団ではなく。武装した僧兵を抱えた武装集団であり軍閥であった。そして延暦寺などは、武力行使をちらつかせ周囲の他宗派の中小寺院を恫喝・恐喝し、もとの宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて「末寺」化し、事実上支配下に置いてしまうという乱暴・横暴なことを繰り返していた)。日蓮宗側は延暦寺のこうした要求を拒否。要求を拒否された延暦寺は後奈良天皇や幕府に法華衆討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の園城寺・東寺・興福寺・本願寺などにまで協力を求めた。いずれも援軍は断ったが、中立を約束した。僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の人々を殺害した(天文法難)。さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。こうして隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。1542年(天文11年)に京都帰還を許す勅許が再び下り、1547年(天文16年)には六角定頼の仲介で、延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。後に日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建された。
出典:wikipedia
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