落語家(らくごか)は、落語を演じて視聴させることを職業とする人。戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどの副業をすることも多い。「話家」「噺家」「咄家」(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。このため、「落語家」という表現は、厳密には 1. のみを語る者ということになり、1. 2. 両方語る場合「噺家」の方が適切な呼称であるが、1.に属する一部の噺も人情噺として捉える主張の存在もあり、現在は「落語家」で定着している。江戸時代には狂歌や雑俳に関わる人々など素人の咄家も活躍していたが、やがて烏亭焉馬や三笑亭可楽などの職業咄家たちがあらわれた。その身分は見習い、前座(ぜんざ)、二つ目(ふたつめ)、真打(しんうち)からなる。弟子入りを志願した師匠から入門の許可を得た落語家の卵。入門したあと、前座名(名前)を師匠からもらい、前座登録をして、前座として楽屋入りするまでは「見習い」と呼ぶ。正規の身分制度にはもともと存在しないが、前座の数が多いのでそれまでの待機をする。おもに師匠宅で師匠・その家族のために家事などの下働き・雑用をする。休みはない。昔は師匠宅に住み込みで身の回りの世話をすることもあったが、現在は通いの方が多い。食事は師匠宅ですることが多い(作るのは見習い本人)。住み込みであれば家賃もいらない。見習いと前座は、落語家社会では一人前とみなされない。仏教における前座(まえざ)説教が語源。前述の、師匠宅の家事・雑用の他に、寄席での仕事(前座修行)が課せられる。寄席での、呼び込み太鼓・鳴り物・めくりの出し入れ・色物の道具の用意と回収・マイクのセッティング・茶汲み・着物の管理など楽屋、寄席共に毎日雑用をこなす(大阪では、これらの仕事のうち太鼓・鳴物以外は「お茶子」と呼ばれる寄席従業員によって行われる)。寄席で「開口一番」と呼ばれる最初の一席を受持つ場合もあるが、あくまで勉強の為であるから通常は落語家名は番組にも載らない。また、割(出演料)ももらえない。しかし、前座作業の代償として、僅かながら1日あたり定額の小遣い(給金)がもらえる。4代目橘家圓喬は一旦二つ目に昇進したが、親を養う金を稼ぐために、自ら前座に降格した(関山和夫『落語名人伝』)。このように、「二つ目に昇進できるのにあえて前座に止まる」落語家をへたりという。永久前座という異名もある。昭和30年代くらいまでは、へたりが数人いた。橘ノ圓福・林家正吉らである(7代目立川談志が著書『談志楽屋噺』で紹介)。歌舞伎でいう「頭取」のようなものである。実際には寄席従業員として働いているのと変わらない。また二つ目が真打昇進を諦め再び前座に戻ることを戻り前座という。一方大阪ではへたりは太鼓・鳴物の演奏を務める人を意味し、以前はかなり重宝された。主なへたりには三升小三(戎橋松竹)・桂右之助(千日劇場・旧うめだ花月)・桂文蝶(千日劇場)・桂團治(道頓堀角座)・橘家つばめ(神戸松竹座)・2代目三升紋三郎(新花月)などがいた。当日の寄席で働く前座のうち、もっとも古株を「立前座」(たてぜんざ)と呼ぶ。寄席興行の進行についての決定権を持つ、重要な役回りである。立前座は仕事を他の(下の)前座に指図する。ネタ帳を記録するのも立前座の仕事である。前座と真打の間。辞書に掲載されている形では「二つ目」だが、最近では「二ツ目」と表記されていることが多い。この表記については特に決まりが無く、人によっては「二っ目」や「二ッ目」と仮名を小さく書く場合もある。だるまに二つの目を入れられるほど、芸が開眼したという意味。落語家社会の中でようやく一人前とみなされる。自分の労力と時間を100%自分のためにだけ使うことが許される。師匠宅の雑用も寄席での裏方仕事もしなくてよい。以下のことが許される。正規の落語家として、寄席で落語をして割がもらえるようになる。しかし、定席への出演機会は大変限られているので、仕事は基本的に自分で探してこなければならなくなる。さもなくば本当に仕事がない状態となる。前座でやってきた雑用が全く無くなった分、その小遣いがもらえるわけでもなく、経済的には苦しいと言われる。最近では、芸事と関係ないアルバイトなどをするものも少なくない。なお、かつての上方落語では「中座」(なかざ)と呼ぶ。実際にはヨビと呼ばれる『仕事』が存在する。これは、代演要員として寄席に出勤するというもので、抜いた落語家の穴が埋まらない時に高座に上がれる。一部を除いて、二つ目までは自身の師匠が死去した場合、別の真打の門下に移ることになっている。「(蝋燭の)芯を打つ」ことから転じた。蝋燭は江戸時代の室内照明であり、それを打つ=消すのは最後に上がる出番の落語家が演じ終わってからである。つまり主任(とり)のみが消すことができる=芯を打てる。その名の通り寄席で主任(とり)を務めることができる資格が与えられるほか、「師匠」と敬称で呼ばれる。また弟子をとることが許される。真打昇進の際には、特別の興行となり、新真打本人がその芝居の主任となる。そして真打披露目が行われ口上が述べられる。これがなければ昇進したことにならない。つまり、真打昇進と興行とは不可分である。興行中に他の出演者に高級弁当を振る舞い、終演したら真打本人が全経費を払う飲み会が始まる。出費はかなりのもの(特に単独昇進の場合)になるが、反面、お旦(芸人のスポンサー)からのご祝儀が見込める。1980年代半ばころから落語協会、落語芸術協会共に所属する落語家の半数以上を真打が占めるようになり、制度としては形骸化しているとの意見もある。戦後、真打昇進制度は数度変わった。しかしその選考基準が不明瞭であるとする批判が一貫してある。これがひいては落語家内部の対立の原因となっている。真打制度は香盤(同一協会内の落語家間の序列)と密接に関係している。真打昇進の順番、すなわち真打昇進の早い遅いによって、真打達の香盤が決定される。真打昇進以降、中年から老年にかけて、人気、実力が変動することがあっても、順位は入れ替わらない。香盤が一門同士の対立を避けるための談合・密約を果たしているという意見もある。真打制度は戦前には上方にも存在した。しかし、戦中から終戦直後の時期において大阪では落語より漫才が好まれたこともあり、事実上上方落語が崩壊していた時期に消滅した。その真打制度は上方落語協会で1977年(昭和52年)2月に復活して公表もされた。2012年現在は制度として事実上消滅している。内部の落語家ランク(例えば協会費のランク)も他の基準(年功序列)で決定している。また大阪では、香盤は内部で存在している(かつて真打のみ一回だけ公表もされた)ものの、現在では外部には一切非公開となっている。当時の会長6代目松鶴は「真打にふさわしいかどうかはお客様が決めること(であり、真打制度に胡坐をかいて落語家サイドが真打を客に押し売りするのはおかしい)」と言っている。その後、定席天満天神繁昌亭開設時に、真打制度復活が論議されたが見送られている。上方落語ならではの自由な気風を損ねるというのが、真打制度非導入の理由であった。このこともあり、主に上方落語四天王の弟子には、寄席やテレビなどで早くに知名度をあげ、入門から7~10年程度で弟子を採る者も多くいた。また、修行中に師匠が死去しても、別の師匠の元に移籍するというようなことがない。代表的な例には6代目松鶴の最後の弟子、笑福亭鶴二がおり、入門から1年も経たずに師匠松鶴が死去し、兄弟子にあたる7代目松鶴(笑福亭松葉)らの指導を仰いだが、現在でも「松鶴の弟子」として活動している。ただし全員がその限りではなく、東京のように元の師匠の兄弟弟子などに移籍する場合も稀にある。後者の例では、5代目林家小染などがいる。真打・香盤問題は東京でも非常にセンシティブな問題で、協会分裂の直接の引き金になっている。上方落語協会ではもっとナイーブな理由(ほとんど口喧嘩)で大物が脱退したことすらある。香盤制度・真打制度は完全な実力主義でもないので、『急激に売れた人』『若い時から売れっ子になった人』に対する処遇が難しいというのも理由の一つである。真打昇進と真打昇進披露興行はリンクさせるが、上方落語協会(繁昌亭)は(香盤と関係なく)「賞」を落語家に受賞させそれと興行をリンクしている。東京の協会では幹部を話し合いで選ぶが、上方落語協会では選挙で選ぶ。東京の流れを汲む中でも、名古屋の雷門一門のように、「仮に真打を名乗ったとしても一門外の落語家や客が認めてくれるかどうかわからない」という理由から真打制度を棚上げする意向を示している一門もある。大学の落語研究会に所属する学生などのほかにもアマチュアの落語家が昔から存在し、これらの人々は「天狗連」と呼ばれる。プロの落語家が使わない亭号・屋号を名乗ることが多い。その他にも、地方で落語をベースにした独自の活動を主体にしている、大分県の県南落語組合などのような社会人活動グループなどもある。上記五団体に属さないプロ落語家を以下に挙げる。いわゆる天狗連でなく、プロとしての修行を積んだ者、かつ生存者に限定する。ただし、既に名を成した芸能人などが副業、余興として落語もやる場合(最近では、風間杜夫、森末慎二(金メダル亭慎二)、山田隆夫(鈴々舎鈴丸)、にしゃんた、友近、テリー伊藤(林家テリ平)、高田文夫(立川藤志楼)、ミッキー・カーチス(ミッキー亭カーチス)、荻野アンナ、ダイアン吉日ら)は除く。いずれも大須演芸場(2014年閉場→2015年9月再開)を定席としている。物故者のなかで、無所属の落語家の筆頭格は柳家金語楼(吉本興業から離脱(昭和20年代)以降)・3代目三遊亭金馬などが挙げられる。上記を除く。落語家として現役の者のみ。また4代目三遊亭歌笑はすでに帰京。笑福亭笑子は一時大阪で活動していたものの再度シンガポールに移住(彼女はもともとシンガポールでアナウンサーをしていたところ笑福亭鶴笑の高座を見て感動し弟子入りする。鶴笑がロンドンに移住しても夫、子供を連れてロンドンへ移住。今回のシンガポール移住は夫の転勤に伴うもの)。窓里(師:6代目圓窓)、らん丈(師:圓丈)、前項の洋楽(師:5代目圓楽)は奇しくも6代目圓生の孫弟子であり、年代とキャリアも同世代。桂三発は町議会議員も務めたことがある(市町村合併に伴い失職)。国政では、立川談志は1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補し当選(1969年(昭和44年)にも衆議院選挙旧・東京都第8区に無所属で立候補し落選)。2011年(平成23年)現在では落語界唯一の国会議員経験者であり、のちに自由民主党へ入党し、1975年に三木内閣の沖縄開発政務次官を務めている(ただし、舌禍により在任36日で辞任)。月亭可朝は参議院選挙に2回出馬(談志と同じく1971年(昭和46年)第9回参議院議員通常選挙全国区に無所属で出馬と2001年(平成13年)第19回参議院議員選挙に自由連合公認で出馬)してすべて落選している。桂きん枝も2010年(平成22年)第22回参議院議員通常選挙比例代表区に民主党公認で出馬したが落選した。落語家から寄席の色物(漫才・漫談・物まね・コントなど)に転じたケースを除く。またアマチュア落語家として入門したケース、既に名を成した芸能人などが落語もやる場合も除く。(二世落語家)その他の落語家については落語家一覧、を参照。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。