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東武鬼怒川線

鬼怒川線(きぬがわせん)は、栃木県日光市の下今市駅と同市の新藤原駅を結ぶ、東武鉄道の鉄道路線である。2006年3月20日の市町村合併により、全線が日光市内となった。駅ナンバリングの路線記号はTN 。特急と線内各駅に停車する快速・区間快速列車が中心で、いずれも1時間に1本程度運行されている。特急・快速・区間快速が運転されない時間帯には普通列車が運行されている。沿線が観光地であるのみならず東京方面から南会津方面への経路でもあることから中距離輸送の需要が高く、他線への直通運転が主体となっており、最大で4社線の直通運転が行われている。本路線は発電所工事用に敷設された軌道(軽便鉄道)を改軌した路線ということもあり(「歴史」の節を参照)、線形は急曲線が連続し、運転速度は低く、曲率の大きいカーブ(急曲線)通過時に内外輪の速度差が大きくなるため大きなきしみ音が発生する。日光線を経由して伊勢崎線浅草駅発着の特急「きぬ」、東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本線(宇都宮線)と東武日光線を経由して新宿駅発着特急「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」が運転されている。乗車券のほかに特急券が必要で、全車指定席である。線内の停車駅は下今市駅・新高徳駅・鬼怒川温泉駅・鬼怒川公園駅・新藤原駅である。ただし新宿発着の列車は新高徳駅に停車しない。大半は鬼怒川温泉駅始発・終着であり、一部に鬼怒川公園駅発着と新藤原発の列車がある。一部列車は後述の「AIZUマウントエクスプレス」に接続し、東京方面 - 南会津方面の需要を充たしている。なお、夏期・冬期の特定日に運行される「尾瀬夜行」・「スノーパル」は当路線内で旅客の乗降を取り扱わない。浅草駅発着の快速・区間快速が運転されており、一部を除き野岩鉄道会津鬼怒川線会津高原尾瀬口駅・会津鉄道会津線会津田島駅まで直通する。これは東京方面 - 南会津方面を直通運転する唯一の列車である。快速・区間快速とも鬼怒川線内は各駅に停車する。2006年3月18日のダイヤ改正で昼間時以降の快速が廃止され、新設の区間快速がこの時間帯に運行されるようになった。浅草駅 - 新藤原駅間は下り快速で2時間30分程度、上り快速で2時間45分程度なのに対し、区間快速は3時間程度かかっていた。2013年3月16日のダイヤ改正により、区間快速の停車駅が新大平下駅 - 新藤原駅間で各駅停車に変更されたため、所要時間が平均18分短縮され、最速で2時間45分程度になった。2時間に1本の運行に減便となったものの、代替として栃木駅・新栃木駅 - 新藤原駅・会津田島駅間の普通列車を設定することで、1時間あたり1本の本数を確保している。日光線新栃木駅・下今市駅発着の普通が朝・昼・夕夜間に11.5往復、電車で運転されている。一部除き、野岩鉄道会津鬼怒川線直通で会津高原尾瀬口駅発着となっており、さらに会津鉄道会津線直通列車もある。2013年3月15日までは、新藤原駅から下今市駅で方向転換して日光線東武日光駅まで直通する列車が後述の「AIZUマウントエクスプレス」とは別に1日1往復運行されていた。2013年3月16日ダイヤ改正では、区間快速の減便の代替で昼間にも栃木駅・新栃木駅 - 新藤原駅・会津田島駅間の普通列車が設定された。会津鉄道からはJR東日本只見線会津若松駅・磐越西線喜多方駅発着の「AIZUマウントエクスプレス」2往復が鬼怒川温泉駅 - 新藤原駅間、1往復が当線全線を経由して日光線東武日光駅まで乗り入れており、各駅に停車する。2013年3月15日までは「AIZU尾瀬エクスプレス」1往復が鬼怒川温泉駅 - 新藤原駅間に乗り入れていた。「AIZUマウントエクスプレス」および2013年3月15日まで運行されていた「AIZU尾瀬エクスプレス」は気動車で運行されるが、東武鉄道に気動車運転士がいないため、本路線内も会津鉄道の運転士が乗務する。電車は東武・野岩・会津の3社共通運用なのに対し、気動車は会津鉄道所有である(「使用車両」の節を参照)。2015年8月10日、東武鉄道は北海道旅客鉄道(JR北海道)が保有する蒸気機関車 (SL) のC11 207を借り受けて、2017年度をめどに当線で運行する予定であることを発表した。具体的には、下今市駅 - 鬼怒川温泉駅間を「SL+車掌車+客車+ディーゼル機関車 (DL) 」の編成で土休日を中心に年間最大140日程度(1日3往復程度)運行する計画で、車掌車はヨ8000形2両を日本貨物鉄道(JR貨物)と西日本旅客鉄道(JR西日本)から1両ずつ、客車は14系普通車4両と12系グリーン車2両を四国旅客鉄道(JR四国)から、DLはDE10形1両を東日本旅客鉄道(JR東日本)から、それぞれ譲渡を受ける。また、下今市駅にJR西日本長門市駅から、鬼怒川温泉駅にJR西日本三次駅からそれぞれ転車台の譲渡を受けて整備し、下今市駅の駅舎を改修してSL見学エリアを整備する予定であるという。車種は特記なければ電車。当線の歴史は、1913年(大正2年)1月に運転を開始した当時日本最大級の最大3万1,200キロワットの電力を発生する鬼怒川水力電気下滝発電所(現・東京電力鬼怒川発電所)建設のための資材運搬軌道が前身となっており、後に下野軌道、その後下野電気鉄道となり、現在の東武鬼怒川線に受け継がれている。東武鉄道に買収される前は下野電気鉄道株式会社、さらにその前は下野軌道株式会社が経営していた。1915年(大正4年)に藤原軌道株式会社として栃木県上都賀郡今市町(現・日光市)から塩谷郡藤原村(同)に至る2フィート6インチ (762mm) 軌間の蒸気軌道の特許を受けることから出発し、同年10月30日に創立総会を開き、会社名を下野軌道株式会社と改め、高野留吉が初代社長に就任、本社を今市町(同)に置き、資本金10万円で設立された。1917年(大正6年)1月2日に大谷川北岸(大谷向今市) - 鬼怒川南岸(中岩)までの3マイル6分 (4.9km) が開通した。鉄道運輸事業は鬼怒川水力電気下滝発電所建設のための資材輸送を始めとする貨物輸送が主力で、開業当初の動力は蒸気機関車を利用して貨車と客車との混合編成で1日6往復し、旅客は約90人、貨物は55tを輸送した。1917年(大正6年)5月には沿線鉱山の急激な発展に対応するため設備と資本金を50万円に増資し、同年11月に中岩 - 大原まで2.5マイル (4km) が開通し事業も上向きかけていたが、第一次世界大戦の影響で石炭と油脂類の物価が急騰したことから営業費が増大し、加えて1918年(大正7年)6月には貨物輸送の大半を占めていた西沢・木戸ヶ沢両精錬所が事業を中止するに至り、1日の貨物量が100tから40tまで激減して売上減少の大打撃を被った。しかし、1919年(大正8年)3月に大原 - 下滝間、同年10月に大谷向今市 - 新今市間が開通し、大谷川を渡って省線今市駅前から接続することになり、1920年(大正9年)1月1日には下滝 - 藤原間が開通し、開業から3年で新今市 - 藤原間10マイル9分 (16.2km) が開通した。1918年(大正7年)9月には、高徳より分岐して東北本線矢板駅に至る軌道特許を得ていたが、1919年(大正8年)に地方鉄道法が施行されて、地方鉄道敷設免許を得て軌道敷設特許を返上した。1920年(大正9年)5月に藤原線(現・鬼怒川線)を軌道線から電気鉄道線に改良し、地方鉄道敷設申請を提出して免許を受け、改良工事の名目で資本金100万円に増資、1921年(大正10年)6月6日に会社名を下野電気鉄道と改めた。1922年(大正11年)3月9日に新今市 - 藤原間全線電化を行い、電車線は600Vの電気鉄道として歩み出した。副業として電灯・電力の供給事業に進出した。電化当初は電車は運転されず、電気機関車の牽引で旅客運輸営業に就いた。1923年(大正12年)5月31日に不況の長期化、とりわけ鉱山の影響が大きく旅客・貨物とも運輸営業の収支が悪化し、資本金を80万円に減資した。1924年(大正13年)3月1日後に東武矢板線となる高徳 - 矢板間の一部(高徳 - 天頂間)6マイル4分 (9.7km) が開通したが、営業収支が上がらず、依然として不振に喘いでいた。1925年(大正14年)には、新事業として乗用自動車事業に進出した。同年12月には免許がおりた。1926年(大正15年)3月11日に乗用自動車事業が営業開始、電動客車1両を導入し、電機牽引列車と併用したが沿線の自動車路線との競争が激しくなり収益が上がらず、高野留吉が取締役を退き代わって植竹竜三郎が取締役社長に就き、同年12月に宇都宮政市が植竹竜三郎に代わって就任した。1927年(昭和2年)4月には資本金を160万円に増資し、本社を東京市本所区(現・東京都墨田区)の東武本社内に移した。徐々に東武鉄道の傍系鉄道会社として経営陣も刷新していったようである。1929年(昭和4年)、東武の日光線が下今市まで延伸されたの機に下野電気鉄道線との連絡を図り、小倉町臨時停留所を設置、さらに10月には東武日光線下今市駅構内に乗り入れ、同駅に起点を改めて下今市 - 新今市間を廃止した。下野電気鉄道と東武鉄道との乗り入れを考慮するため東武鉄道と同じ軌間に変更することになり、先立って下今市 - 天頂間を改軌し、天頂 - 矢板間を3フィート6インチ (1067mm) で建設した。同年10月22日に下今市 - 矢板間の直通運転を、12月20日には鉄道省線との旅客貨物の連絡運輸を、それぞれ開始した。改軌当初は充当させる車両が少なく直通先の東武鉄道から蒸気機関車や客車を借り入れた。電車もともに充当させる車両が少なく日光電気軌道から車両を借り入れた。非電化区間の旅客輸送には汽車会社製のガソリン気動車2両を購入し充当した。1931年(昭和6年)、電車線が600Vでは将来直通の弊害となるため1500Vに昇圧し、電車も川崎車両(現・川崎重工業車両カンパニー)から購入し就役させた。鬼怒川・川治温泉が世間から認知を受けていくうちに乗合自動車業者との競争が激化し、1932年(昭和7年)5月には下野電気鉄道線の減収が激しくなったようである。かくして同社は創業以来営業収益が芳しくなく加えて1920年(大正9年)頃からの昭和恐慌よって沿線の鉱山も深刻な経営不振に陥り、ようやく鬼怒川・川治温泉が賑わう頃となっても自動車路線との競争の激化で収支が見込めないためほとんど株主に利益配当ができず、大正年間以来大半が政府補助金の交付を受けていた。創業以来困難な経営状況が続いていた下野電気鉄道は、陸上交通事業調整法による交通統合により1943年(昭和18年)5月1日東武鉄道に買収され解散に至った。即日東武鬼怒川線として運営されている。2007年3月18日にICカード「PASMO」を導入。自動改札機を設置していない駅については簡易ICカード改札機を設置して対応している。終点新藤原駅は東武鉄道のみならずPASMOエリア北端の駅である(日本の大手私鉄最北端の駅でもある)。

出典:wikipedia

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