


川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、タレント。鳥取市の吉岡温泉で旅館と食堂を経営していた家庭の、男ばかり三兄弟の末子として生まれる。兄たちの影響もあって早くから野球を始め、湖南小学校4年生で少年野球チームに入った。当初は一塁手だったが6年生で投手になり、湖南中学校では市大会で優勝する原動力となった。味方がエラーをしても怒らずに慰めるなど、冷静な投手だったという。速球派投手として注目され県内の各高校野球部から誘いを受けたが、鳥取城北高校に進学。1年生秋の鳥取県大会で3位に入って明治神宮野球大会に出場し、1回戦で関東代表の作新学院に1対3で敗れた。これをきっかけに県外遠征も増え、2年生となったの春季中国大会では黒田真二を擁して同年の選抜大会で優勝した崇徳高校を8回まで1失点に抑える好投を見せ、敗れはしたもののプロのスカウトから注目を集めるようになった。同年の夏の県大会では優勝候補と見られていたが四球を連発して2回戦で敗れ、大きなショックを受けて野球に対する考え方が厳しくなったという。3年生になると松本正志や田辺繁文とともに、高校左腕三羽ガラスという高い評価を受けていた。NPBの10球団から獲得を打診され、1977年のドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受けた。プロ志望だったため入団を周囲から勧められたが「まだ自信がない」として断り、高校野球部の監督と同じ鳥取西高のOBが監督と部長を務める社会人野球のデュプロに進んだ。なお、ロッテからは契約金3,500万円を提示されていたという。しかし当時のデュプロは自社のグラウンドがないなど環境は厳しく、平日は朝から夕方まで自動車を運転して営業の業務を行ない、野球の練習は夜の2時間半だけだった。入社2年目のには初先発の対松下電器戦でバスターの構えから本塁打を打たれて自信をなくし、高校時代に膝を痛めていたのに走り込みを強要されそうになったこともあり、一時は退部を真剣に検討した。しかし翌年までプロ入りできないため、もう1年続けることを決めたという。地区大会などで好投して注目を集めたが、広島入りを希望しているという噂を聞いて視察したスカウトの木庭教から高い評価を受け、「ドラフトで指名するので、注目を避けるため故障という事にして1年間投げないでほしい」と頼まれた。大洋の監督の別当薫が来た時も痛みをアピールし、これによって故障を信じる関係者が増えたという。1980年のドラフトで、原辰徳を抽選で外した広島から1位指名を受け、契約金と年俸それぞれ3,300万円、360万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ。現役時代はセ・リーグで一貫してプレー。日本プロ野球に於いて、外国人選手でも珍しい左投げのスイッチヒッターであった。実際、度々左打席のみならず右打席にも立って左右共に安打も打っている。プロ1年目のはオープン戦から落ち着いたマウンドさばきを監督の古葉竹識に評価されていた。すぐに一軍に登録され自信を持っていたが、初登板となった4月10日の対中日戦で左打者相手に起用されながら二塁打を打たれ、二軍で調整したいと志願した。これは却下されたが、6月頃にはキャッチボールを見ていた山本浩二に投球フォームのクセから全ての球種をあっという間に看破され、恐怖を感じたという。同月の対阪神戦で投手の山本和行に満塁本塁打を打たれて二軍落ちし、大下剛史や大石清によって徹底的に走らされた。一方で厳しい練習を乗り越えた事で自信がつき、入団2年目のは7月8日に一軍に昇格して7月15日にはギックリ腰の福士敬章に代わって先発を任され、この試合でプロ初勝利を挙げた。9月2日の対中日戦では4安打完封で初完投勝利を達成するなど、同年は15試合に登板して4勝を挙げ防御率は1.94となっている。同年オフは前年に続きアメリカの教育リーグに参加した。3年目の春、臨時コーチで招かれた長谷川良平から、コントロールを意識したノーワインドアップ投法ではなく、入団時のワインドアップ投法に戻すように指示されたことが転機となり、同年から先発ローテーション投手として一軍に定着。この時長谷川からは、「ノーワインドアップだと上体に頼り過ぎ、肩・肘を痛める。制球難は気にせず荒れ球は味方にすればよい」と助言されたという。6月には初の月間MVPを受賞している。オールスターゲームに初出場を果たし、登板した第2戦では門田博光から三振を奪ったものの落合博満に本塁打を打たれている。ペナントレース終盤まで巨人を追うチームにあって9月3日の直接対決では188球を投げて完投勝利を挙げ、中3日の登板となった9月21日の対大洋戦でも完投勝利を挙げた。はそれまでの速球とカーブだけのコンビネーションが通用しなくなり、前半戦で1勝しかできなかった。このため、江夏豊の助言もあってアウトコースの速球のコントロールを磨く必要を感じ、6月から1か月半にわたって二軍で調整を続けた。後半戦は7勝を挙げるなど復調し、チームはセ・リーグ優勝を果たした。日本シリーズでは第3戦に登板し、初回を3者凡退で切り抜けるとペースをつかみ、シリーズ初登板で完投勝利を挙げている。しかし第6戦では福原峰夫に満塁本塁打を打たれるなど、3回途中7失点で敗戦投手になった。チームが日本一となったため、前年のワールド・チャンピオンとして訪日したボルチモア・オリオールズと日米野球で対戦し、第1戦に先発してカル・リプケンやエディ・マレーらを6被安打10奪三振に抑えて完封勝利を収めている。最終戦でも再び先発したが、敗戦投手になった。また、同年に結婚している。は、右打者のアウトコースをさらに有効に使うためスクリューを習得し、2年ぶりに規定投球回数に達して9勝を挙げた。は前年優勝した阪神からの5勝を含め、3年ぶりの二桁勝利となる12勝を記録している。オールスターゲームにも3年ぶりに出場し、広島市民球場で開催された第3戦で先発した。なお、腰痛のため日本シリーズには出場できなかった。オフには800万円増の年俸2,400万円(推定)で契約を更改した。は6月6日まで無敗で7連勝を挙げるなど好調なスタートを切り、シーズンでは初のリーグ最多奪三振を記録している。はオールスターゲーム第3戦で2番手として登板し、3回を1安打無失点、3奪三振に抑えた9月に登板した4試合すべてで完投勝利を挙げ、特に9月15日の対巨人戦では1安打完封の好投を見せ、2度目の月間MVPを受賞した。日米野球では第3戦に先発したが、2回4失点で敗戦投手となっている。も4月に月間MVPに選ばれ、オフを挟んで2か月連続の受賞となった。シーズンでは2年ぶりにリーグ最多奪三振を記録した。しかし、翌は勤続疲労のような状態で体が重く本来の投球ができずに苦しみ、11勝13敗と負け越している。速球とカーブの比率からカーブを見逃されるケースが増えたため、スライダーを覚え、はシーズン通算230奪三振を記録して同年タイトルとして制定された最多奪三振を獲得するなど、チームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは前日に佐々岡真司がノックアウトされてターニングポイントとなった第2戦に先発し、オレステス・デストラーデに2ランホームランを打たれたものの8回まで被安打3、2失点の内容で勝利投手となっている。監督の山本浩二はシリーズの流れを引き寄せるため、シーズン中は一度もなかった中3日の間隔で川口を第5戦の先発として起用した。川口もこれを意気に感じて104球を投げて8回無失点の好投を見せ、シリーズMVPの最有力候補とも言われた。特に、8回二死満塁の場面で秋山幸二から見逃し三振を奪った速球は二宮清純らから絶賛された。しかしリリーフとして登板した第6戦では同点の6回二死満塁から鈴木康友に2点適時打、第7戦では5回一死三塁から平野謙と田辺徳雄に決勝適時打を打たれている。先発での好投が評価され、シリーズ敢闘賞を受賞した。契約更改では1,750万円増の年俸7,550万円(推定)となっている。は6月まで2勝8敗と成績が低迷し、速球を打たれることが多くシーズンでも6年連続で達成していた二桁勝利が途切れ、オフの契約更改では自身初のダウンとなる350万円減の年俸7,200万円(推定)となっている。また、同年は日米野球に出場して第3戦でデーブ・ホリンズとシェーン・マックに本塁打を打たれて敗戦投手となった。は6月に急性左ひじ関節炎で一軍登録を抹消され、シーズン終盤には左手人差し指が血行障害となっている。なお同年にFA権を取得したが、行使せずに年俸8,000万円(推定)で契約を更改した。は開幕から勝ち星を挙げられず7連敗して一時は先発ローテーションを外れるなど成績が低迷したが、7月以降は7勝3敗と調子を取り戻した。一方で、前年に難治性のガンで倒れた日野市に住む妻の父の容態が9月に悪化し、東京に移住して看病したいと妻が強く訴えた。川口自身は第二の故郷となった広島に愛着があり、師匠のような存在の大野豊をはじめとする同僚と離れることに抵抗があったという。しかし毎晩のように話し合いを重ね、遠征が続く生活を長年送ってさらに離れて生活したくないと考えたこともあり、悩んだ末に手続きの期限である11月8日の夜になって球団へFA権の行使を連絡した。これは広島の球団史上初のFA権行使となったが、11月10日に川口と会談した広島の球団常務は「気持よく送り出したい」と話し、慰留はしなかった。また、この時点ですでに巨人や阪神が獲得の意志を広島側に伝えている。プレースタイルなどが知られていないパ・リーグでプレーするメリットなども考えて西武へ入団するつもりだったが、監督の長嶋茂雄から直接誘われたこともあって巨人に入団した。巨人側にとっては宮本和知しかいなかった左の先発投手を補強できる点や、前年に巨人から4勝を挙げていた苦手投手との対戦がなくなる点などを評価されていた。なお、広沢克己に続いてFAによる巨人への入団が決まったことで、同じくFA宣言をして去就を取り沙汰された工藤公康の巨人入りの可能性がなくなった事が報じられている。移籍にともない、年俸は2,000万円増の1億円(推定)となった。一方で、週刊誌などでは「一桁勝利が3年続いており、FA移籍による高年俸の獲得を狙った」と皮肉的な論調の記事が書かれていた。妻の父は移籍を喜んだ後、1995年の3月に逝去している。しかし左の先発の柱として期待されたは4勝に終わり、も4月から不振で5月に先発ローテーションから外され、6月上旬まで二軍で調整を行なっていた。この間に引退も考えたが、二軍投手コーチの宮田征典に誘われてリリーフに転向した。先発は8月10日の対中日戦が最後となったものの、7月から8月にかけて負け試合の救援登板で安定した投球を見せ、リードしている場面での起用が増えていった。リリーフでは防御率1点台前半の好成績を残し、9月24日にはプロ16年目にして初のセーブを記録している。メークドラマに向かって調子を上げたチームにあって同じ左投げの河野博文とともにリリーフの軸となった。10月6日の対中日戦では9回裏2死で立浪和義から奪三振を記録し、自身初の胴上げ投手となった。日本シリーズでは第1戦、第2戦、第5戦の3試合に登板し、計4回2/3を無失点で終えている。からは古傷である腰や左足の痛み肩の違和感などから二軍での調整が増え、趙成珉や小野仁ら若手選手に投球や心構えについての助言を送っていた。シーズン限りで現役引退。引退試合となった10月3日の対戦相手は古巣の広島で、挨拶の際にセレモニーに参加した広島の選手に対して礼を述べた。2016年時点、FAで巨人に移籍し、巨人で引退した投手は川口だけである(野手では2015年に引退した金城龍彦がいる)。引退直後の1998年からTBSのおはようクジラにコメンテーターとしてレギュラー出演し、同局との契約はまで続き、からはCS・ラジオに出演している。また、1998年秋にはNHK教育の趣味悠々に出演し、番組内でイタリア料理を学んだ。には7月31日の広島市民球場における公式戦で始球式を行なった。中国放送で野球解説者を務める傍ら、プロ野球マスターズリーグでは札幌アンビシャスに所属した。またタレントとしてテレビやラジオ、俳優としてドラマ、映画にも出演し、趣味である競艇の解説も行ったりするなど様々な方面で活動している。には故郷の鳥取県で加藤伸一らとともに社会人野球クラブチームの設立に携わり、12月8日に鳥取キタロウズが誕生すると総監督に就任した。1年間務めた後、解説者などの仕事との両立が難しく十分に指導する時間が取れないとして辞任を申し出た。球団からは慰留されたが2007年1月に了承され、関係者からはチームを盛り上げたことを感謝されている。、には巨人の宮崎春季キャンプにて臨時投手コーチを務め、シーズンより投手総合コーチに就任した。10月19日にコーチの退任と非常勤でのフロント(編成部)入りが発表された。2015年からは巨人編成部に在職の立場でTBSラジオ・TBSテレビ(主に衛星波のBS-TBS・TBSチャンネル向けの放送)の解説者に復帰した。一番得意な球種は速球で、そこに同じフォームで投げるカーブやスライダーを加えるという投球スタイルが基本だった。プロ入り直後に安仁屋宗八から助言を受け、右打者はインコースのクロスファイヤーへの対応を第一に考えてくるので、そこに力のある速球を投げられれば抑える、と考えるようになった。体から近くバットの芯に当たりにくいインハイを突くためにグリップのやや下を狙って投げ、打者が手を出す範囲で最も厳しいコースを突こうとしていた。インハイでファウルを打たせられれば、アウトローの緩い変化球で三振を楽にとれたという。一方、左打者の場合はアウトコースに目標物がなくて細かい制球が難しいため、インコースへの制球により気を使った。制球を改善するとともに球種を見破られないようにするため、リリースポイントを一定に保つ事を重視していた。腕の振りが速球とカーブやスライダーで全く変わらないため、打者が打ちにくいだけでなく捕手もキャッチングが難しかったという。このため巨人ではノーサインで川口の投球を捕れる達川光男のような捕手がおらず、空振りを取ってもパスボールになることも数回に上った。その達川とはバッテリーを組み始めた頃は全く息が合わず、気分が乗らず試合開始直後にサインに3回連続で首を振って達川を怒らせた事もあったが、投手が塁に出ても牽制球を投げたりする川口の独特のリズムを尊重し、打者の弱点を攻めるよりも投げやすさを重視するようになって相性が良くなったという。このようにムラッ気があり、なんでもないような打者に簡単に四球を出す事がある一方で、強打者に対しては非常に気持の入った投球をして抑えていたという。コントロールが良くないこともあり、2ストライクまでは捕手に大きく構えてもらい、追い込んでからはコースに体ごと構えさせて集中力を高めて勝負に行っていた。速球については140km/h台の球速やコースよりも、思い切り握ってスピンを利かせて手元で伸びるようにする事を心がけたという。速球にキレがあるため、狙った場面で確実に三振を取る力があり、、、の3回にわたってセ・リーグ最多奪三振を記録している。下半身を粘らせ球持ちを長くして顔の前でリリースするようなイメージで投げ、打者からはノビがあって球速以上に速く見えるといわれた。このために腰を中心に体を縦に回転させ、体の前で速く腕を振って肘を前に出しながら投げた。現役だった1980年代から1990年代は後年と違い、速球のキレと球威があれば変化球に多少難があっても打者を打ち取れた、と語っている。右打者に対しては、カウントを稼ぎたい時に手を出しやすくするために、あえて肘を下げて上下の角度をなくして球の出どころを見やすくして投げることもあった。また、左打者に対してはリリースの際に中指だけにボールを乗せるような投げ方で微妙なシュート回転をかけ、内角に食い込ませることも多かった。少年時代に目標としていた新浦壽夫の影響でまずカーブを覚え、続いてスライダー、プロ入り後に縦の変化球としてフォークボールやスクリューなど、研究熱心で2、3年ごとに新しい球種を習得していた。なお、実戦で投げることが変化球の上達には最も重要で、例えばフォークボールは対ヤクルト戦の大杉勝男の打席で初めて投げたという。カーブは手の平とボールを離す特徴的な握り方で、リリースの際に中指でボールを潰すような感覚で投げるとスピンのかかりが良かったという。軸足でタメを作る事が重要で、現役晩年はカーブの曲がりが悪化していた。リリースポイントの位置を変えることで、速いカーブと遅いカーブの2種類を投げ分けていた。左打者に対しては、内角に投げると頭の上で消えるような軌道だったという。スライダーはカーブと同じ握りで手の平をボールに付け、離す瞬間に手首を斜めに向ける以外は速球と同じフォームだった。打者からは、速球と同じ軌道から曲がって消えるように見えていたという。試合で初めて試した時は達川に酷評されたが、徐々に改善することができた。この球種を習得したことで1991年はリーグトップの230奪三振を記録したが、その後は変化量が落ちていった。左打者には主にアウトコースに投げて三振を取りに行ったが、野村謙二郎との対戦をきっかけに意表を突くためインコースにも投げるようになった。スクリューボールはフォークボールをベースにしており、リリースの際にボールが曲げた人差し指に引っかって外に逃げながら落ちていた。また、中指は縫い目にかけなかったという。右打者に対しては有効だったが左打者には通用しなかったため、シュートを習得した。速球から少しだけ変えた握りで投げて変化量はわずかだったが、左打者に対しては狭い角度で入ってくるため内角に投げると打球が詰まらせる効果があり、カーブとの組合せが効果的だった。コントロールが悪かったため、上半身をブレさせないよう下半身でリズムを取ることを意識していた。シーズン最多暴投を記録したほか、には通算暴投数のセ・リーグ記録(従来は権藤正利の69)を更新している。一方、四球を含めて球数が多いもののリズムが良いため試合時間は短く、守備についている野手の集中力が切れなかったという。落合博満からは、10四球を出して150球以上投げても完投勝利を挙げるようなタイプと評されている。四球を続けて満塁になって次の打者にも3ボール0ストライクとなるような事も少なくなかったが、そこからは粘り強く点を簡単に与えないなど、普通の打者とは四球の意味が違うと達川光男は語っている。また、一般的に投手が不利とされる3ボール2ストライクや3ボール1ストライクのボールカウントを非常にうまく使うと評されていた。打者が高確率で打ってくるこれらのカウントでも腕をしっかり振って投げるため、ボール球でもスイングさせたり、甘いコースでも力が入って打ち損じとなる事があったという。1年間を通じて先発ローテーションを守るため、体力をつけるとともに二軍での調整も視野に入れて不調の時期をなるべく短くすることを心がけていた。毎年二桁勝利を挙げることを先発のノルマとして捉え、ペナントレースが6か月のため毎月2勝という目標をクリアするために月の初めの登板で勝つことに全力を注いだ。ここで勝つと残りの試合は非常に気が楽になったという。先発では完投を常に念頭に置き、5回までは全力で投げて以降は毎回先頭打者を出さないよう注意し、8、9回は1人ずつ抑えていく事を重視していたという。打者1巡目は速球を軸にカウントを整えて2巡目はカーブに切り替え、持ち球の中で比重を変えながら配球を組み立てていた。また、先頭打者については試合を通じて出塁を防ぐことを意識していた。立ち上がりを苦手として3回までに何度もピンチとなったが、そこを乗り越えるとスムーズに勝利に向かうことが多かったという。巨人移籍後に先発を外れた時は現役を辞めようとも思い、リリーフ転向後も1球ずつ全力で投げるなどのリズムをつかむのに1か月かかった。「警戒する打者にはボール球で入って、四球になれば次の打者と勝負」という先発での投球スタイルが通じないため、苦手な打者でも大胆に勝負する事を心がけたという。また、宮田征典の指導で歩幅を短くして軸を作るフォームにしたところ制球が良くなり、打者の狙うコースの近くを狙って球数を減らすような投球スタイルに変化した。負け試合を整えていくことは難しかったが、中継ぎや抑えを経験したことは長期的にプラスになったという。落合博満との対戦成績は118打数32安打で、打率.271、6本塁打、15打点と特別に良くはなかったが、落合からは「プロで唯一の精神的な天敵」というほどの苦手意識を持たれていた。ボールを呼び込む打撃スタイルが左投手と相性が悪かったことに加え、速球のキレとコントロールの水準が一試合を通じて高く、投球パターンを研究しても投球の途中で球種を変えられてしまい、深く考えず本能的に立ち向かうしかなかったという。また川口が全盛期にイチローと対戦していれば、シーズンを通じて抑えられる可能性が最も高い投手だっただろう、と語っている。一方、川口自身も落合との対戦は一試合を通じた駆け引きなどが非常に面白かったと述べている。普通に勝負すると打たれるため、一球一球を大事にして伏線を使いながら抑えようとし、勝負の過程を互いに堪能していた。広島時代は巨人キラーとしても活躍、対巨人戦33勝31敗を記録している。対巨人戦で30勝以上している投手のうち勝ち越しを記録している選手は星野仙一、平松政次、川口の3人だけである。同時に阪神キラーでもあり、1983年には阪神戦3試合連続完封勝利を記録、1987年は5勝0敗、1988年は5勝1敗の好成績を挙げるなど、広島時代だけで巨人戦を上回る通算34勝(21敗)を記録した。また巨人移籍後に阪神から2勝を挙げており、対阪神戦の生涯成績は36勝21敗となる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。