本項では先史時代から近現代に至るギリシャの歴史(ギリシャのれきし)について述べる。現代のギリシャの版図は第二次世界大戦後形成されたものであるが、この範囲は古代ギリシャの版図とほぼ一致している。ただし、中核部分が過去と一致するといえども、ギリシャの歴史を記述するに当たり、ギリシャ文明による影響は、ギリシャから東はアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈、南はエジプトのクシュに及び、その範囲は大きい。ギリシャ人と言ってもこの範囲は幅広く存在する。古代ギリシャでは自らを『ヘレネス』と自称し、それ以外の異民族を『バルバロイ』と呼称した。また、ギリシャの時代区分として『ヘレニズム時代』が存在するが、この語源『ヘレニゼイン』には『ギリシャ語を話す』という意味があり、ギリシャ人の基本概念は一般的に『ギリシャ語を話す人々』を指しているが、母語がギリシャ語であるかどうか、母語がギリシャ語でも血統はどうか、また、母語としていても方言等の派生言語系統を含めてどこまでがギリシャ語であるか、という問題が存在する。ただし、古代ギリシャにおいてはギリシャ語はあくまでも認定要件のひとつに過ぎず、祭儀や慣習の共有が重視されていた。 この意識は前6世紀に至って形成が開始され、前5世紀のペルシア戦争の影響で確立されたという研究が近年出されている。また、ギリシャ語を母語とすることよりも重視された例として1923年のローザンヌ条約で決定された、ギリシャとトルコの間で行われた住民交換の例が存在しており、この際、ギリシャ人の基本概念とされたのは『宗教』であり、トルコのギリシャ正教徒がギリシャへ送られる事となった。また、ギリシャ国内にも中世以降、アルバニア人が流入、現在も固有の言語・生活を維持しながら暮らし、彼らはギリシャ語を話すこともできる上に外見では見分けがつかなくなってはいるが、民族系統としてはアルバニア人であり、なおかつギリシャ国民である。このように、ギリシャ人を定義付けるのはかなり困難であるが、彼らがギリシャ人であるという基本概念はミケーネ文明以来、その文化の中核を担ってきた人々がギリシャ人の子孫であるという意識を持っていたということが存在する。古代ギリシャの人々は各地に殖民を行い、他の人々(例としてフェニキア人)などと交流してきたが、この中でギリシャ人という意識が芽生えたことにより、ギリシャ人のアイデンティティが形成され、ローマ帝国やオスマン帝国占領下においても『我々はギリシャ人』という民族意識が保たれ、現在のギリシャ人へと繋がっている。ギリシャ史は現在でも枠組みが確定しておらず、古代ギリシャを中心として流動的である。以下は『ギリシアを知る事典』を元に区分化したものである。古代ギリシャにおいてはさらに細分化された区分が存在するがここでは扱わない。この項目では主に上記の表に従い、記述する。先史時代は歴史学上、史料が存在せず遺跡の発掘を基礎として研究されている時代のことである。この時代のギリシャにおいても他の例と違うことなく、旧石器時代、中石器時代、新石器時代、青銅器時代と大きく分けられており、ユーラシア大陸西部で確立された規範的年代区分とほぼ同様である。今から2万年前、世界は最終氷河期に当たっており、ギリシャもその例外ではなく、氷河期後期に海面が下がり(一部では20m下がったという)ギリシャも現在の山がちな地形とちがい、ステップ平原が広がっていた。現在のエーゲ海に浮かぶ島々も当時は山々であり、ローマ時代におおよそ現在の海岸線と化した。ただし、ギリシャにおいて最初の人類が登場するのはその氷河期の遥か前であり、ギリシャ北部のハルキディキ半島のペトラロナ洞窟においてギリシャ最古の化石人類であるペトラロナ人が発見されており、彼らはホモ・エレクトゥスとネアンデルタール人の形質的な特徴を持つ事からおよそ20万年から40万年前にはギリシャにおいて人類の活動が始まったと推測されているが、生活の痕跡が増加するのは約15万年前の中期旧石器時代である。この時代の地中海世界に見られるムスティエ文化のフリント製剥片石器がイピルス、テッサリア、クレタ島などで見られるが、これを使用した人類は3万年前までに新人が取って代わることとなった。しかし、この時代の遺跡は海岸線の上昇により、水没したと考えられているが、メテオラのセオペトラ洞窟やアルゴリス半島のフランクティなどに存在する。氷河期が終了したことにより海面が上昇、草原が森林と化していった頃、中石器時代が始まりを告げる。この時代には弓矢やカヌーなどが開発され、技術革新が進み生活基盤が広がった時代であった。この時代にギリシャの人々は海上へ進出しており、フランクティ洞窟では黒曜石とマグロの骨が発見されているが、黒曜石はミロス島でしか産出されず、またマグロは現在も地中海における代表的な魚であり、これらの遺物からギリシャの人々が海へ進出していたことの証明となる。また、スポラデス諸島のユウラ島にあるキクロパス洞窟でもこの時代に対応する箇所では数多くの魚骨、骨製の釣り針など漁業を営んだことがうかがえる。また、シリアやヨルダンなどでは1万年以上前から野生穀物の採取などが開始され、それが発展し定住型の穀物の栽培、家畜の飼育が行われていたが、ギリシャにおいても西アジアの影響を受け、農耕牧畜が導入されたと考えられている。ギリシャの新石器時代は初期(前7000年 – 前5800年)、中期(前5800年 – 前5300年)、後期(前5300年 – 前4500年)、末期(前4500年 - 前3200年)の4つに細かく分けられているが、これは過去には土器の文様などを基準にした相対編年で判断されていたものが、放射性炭素年代測定法による絶対年代が加えられたため、生じたものである。つまり初期新石器時代の土器は半球状の椀、中期新石器時代(プロト・セスクロ文化、セスクロ文化)には地域ごとに様々な形が現れるようになり、後期新石器時代(ディミニ文化)には文様が複雑化した彩文土器などそれぞれを分ける指標となっている。西アジアより農業が伝播したことにより、ギリシャでの定住型農耕生活を中心とした経済が確立された。この時代の遺遺跡はテッサリアやマケドニアの平野部を中心としたペロポネソス半島、ギリシャ中部、エーゲ海島嶼部などで広範囲に及んでいた。この時代、ギリシャ人は()やアインコルン小麦()、二条大麦()を栽培し、また家畜(山羊、羊、豚、牛、犬)も飼育していた。特に山羊と羊は中石器時代以前に野生種の存在が確認されていないため、この時代に栽培種の穀物類と共に西より伝播してきたことが確実視されている。初期においては北ギリシャやブルガリアなどでは農耕を伴う集落遺跡が見られるが、南部ではさほど見られず、キクラデス諸島では黒曜石が採取されているにもかかわらず、中期新石器時代まで集落数があまり見られない。これは農耕が豊かな水と肥沃な土壌がある地域において初期段階に導入されたと考えられ、テッサリアやマケドニアなどの水が豊富な地域の小高い丘(マグーラ)に集落跡が多く見られる。その後、キクラデスでは二条大麦よりも生産性の高い六条大麦()が栽培されるにいたり、新石器時代が伝播したと考えられている。また、豊穣を願うための女性型土偶なども作られており、農耕を中心に生活を営んでいたことが考えられるが、墓に副葬されることが無く、多くが住居跡で破損した状態で発見されていることから日常生活における祭儀に使用されたと想像されている。また、これらの像は大理石で制作されることもあった。この時代の後半に至ると村落の周りに柵や堀を構築することが行われており、ヴォロス近郊のセスクロ遺跡やディミニ遺跡では邸宅跡がある丘を中心に円状に家屋が配置されており、ここから階層化が進んでいることを示しているとされている。特にディミニでは後のミケーネ時代の独特の構造(メガロン形式)を先取りしている。また、柵や周壁、堀の存在は集落間で戦争が行われたことを示唆していると考えられている。金属については後期新石器時代から末期新石器時代にブルガリア方面から銅の冶金術が伝播したと考えられている。ただし、末期新石器時代から初期青銅器時代へ素直に移行したとは考えられておらず、平野部などにおける集落跡が一度、減少を見せ、再び洞窟を住居として使用することが現れている。ただし、これをもって断絶と判断するのではなく、この点に関しては現在も研究が続いている。青銅器次代については土器を基準として、ギリシャ本土、クレタ島、キクラデス諸島という地域ごとの三時期区分による編年が確立されている。この時代、新石器時代に銅が伝わっているにもかかわらず、初期の段階では青銅が一般的に使われた形跡はない。しかし、この時代に『ギリシャ』らしさが生まれた時代とされ、新石器時代までは西アジアやバルカン半島の他の文化と密接な関係をもっており、地形的な意味での違いでしかなかったが、この時代に至り独特な土器を特徴とする文化(初期ヘラディックII)が誕生、これまでにない大規模な建築物(レルナの瓦屋根の館)も生まれ、社会の階層化がかなり進んでいたと考えられている。この時代まで、文化の中心地は主にギリシャ北部であったが、このころからギリシャ南部へ移行する。この時代からマケドニア王国が隆盛を迎えるまでこの地域がギリシャ史の中核を成すのであるが、これは栽培物にオリーブ、ブドウが導入されたことが考えられている。また、オリーブから取れるオリーブ油、ブドウから取れるブドウ酒は交易品としても高い価値があり、ギリシャが広い範囲で交流を展開する手段と化した。この時代の集落は海岸に集中しており、これまでの『蓄える戦略』が『交易する戦略』へ移行したことが考えられる。シロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央の島々では、ケロス=シロス文化と呼ばれる文化が発達しており、大理石を用いた石偶も生まれているこの文化の成立にはそれぞれ異なる天然資源を持つエーゲ海の島々の間で交易が行われていたことが考えられている。また、この時代の後半にはアナトリア(現在のトルコ)と強い関係を持つカストリ・グループという文化集団も現れ、トロイアII市との共通する文化が見られる。過去にはこのカストリ・グループの人々がアナトリアから侵入してエーゲ海の初期青銅器文化を滅亡させたと考えられていたが、シロス島ハランドリアニ遺跡の墓域状況から敵対していたのではなく、交流していたことが想像されている。ギリシャ本土ではウアフィルニスと呼ばれる釉を使用した土器を指標として文化(初期ヘラデックII、もしくはコラクウ文化)が広がっており、特徴的な土器も存在する。また、集落跡も大規模なものが見られ、ギリシャにおける最初の都市化が行われた時代と考えられており、集落跡からは印章や封泥が出土、集落中心部の大規模な建物を中心に経済活動が行われたことが推測されている。また、ギリシャ本土とエーゲ海の島々では文化交流が行われていた跡が見られるが、クレタ島のみは独自の歩みを営んでいたとされ、この時代の後半(初期ヘラディックII末からIII末まで)にギリシャ本土やエーゲ海に存在した村落を襲った破壊をクレタ島は逃れていることからそう考えられている。上記の破壊活動は前2200年ごろに行われたと考えられ、焼失した建物も見られ、レルナの「瓦屋根の館」は焼け跡が見られ、その崩壊した地層の上では原ミニュアス土器や彩文土器を伴う新たな文化が確認されており、この時点で現代につながる『ギリシャ人』がギリシャに到達したという考えが現在、有力視されているが、一部地域では土器の出土後の焼失が確認されており、この考えの確定を困難にしている現状が存在する。ギリシャを襲った災厄の後、ギリシャ本土やエーゲ海では初期青銅器時代からの文化伝統が断ち切られており、災厄に襲われなかったクレタ島ではその継続が見られるなど、明暗がはっきりとしている。ギリシャ本土においては集落が激減、文化的後退を見せたと考えられており、大規模な建築物が見られなくなっている。また、この時代には灰色磨研土器「ミュニアス土器」や、中期青銅器時代の幕開けとなる「鈍彩土器」らがあるが、いずれも前後の時代と比べると創意が乏しい。このことから、古代ギリシャ語を話す民族がギリシャに至り、定住したと考えられる。一方、クレタ島では大規模な建築物としてクノッソス宮殿が生まれ、また「カマレス土器」のような鮮やかな彩色がされた土器や優れた工芸品が生まれており、クレタ島を除くエーゲ海の島々を文化圏に取り込んでいた。宮殿は中青銅器時代後期に起きた地震により、被害を受けたが規模を拡大して再建されている。クレタ島における初期段階(第一宮殿時代、もしくは古宮殿時代、旧宮殿時代とも)についてははっきりした部分も少ないが、発見されて以来、研究が進んでいるクノッソス宮殿を元とすれば、この宮殿は巨大な力を持った権力者によって建設されたと想像されてはいる。しかし、その開放性や前1780年ごろに発生した地震・天災より破壊されたがすぐに再建されていること、城壁が存在しないことから、住民らの合意で建設されたと想像されている。このミノア文明におけるクノッソス宮殿を中心とした他の宮殿において、巨大な貯蔵庫が構築されており、再分配システムの中心を成していたと考えられている。この再分配システムは通常、首長制の中で見られるものであり、定住型農耕社会と国家との間に現れるものであることから、ミノア文明では強力な王権が存在したのではなく、首長制社会の典型例として考えられている。ミノア文明における再分配システムでは物資の管理を行うために「線文字A」と呼ばれる文字体系が確立された。また、このシステムにより、各種の精巧な工芸品が生まれており、土器もこれまでのカマレス土器に変わって美しいものが生まれ始めた。前1700年から前1500年頃にミノア文明は頂点を迎え、ケア島やミロス島、サントリーニ島などまでその文化圏が及んでいたと考えられ、特に前1628年のサントリーニ島の爆発により埋没したアクロティリはこの時代の情報を多く伝える貴重な存在と化している。また、このアクロティリには多くのフレスコ画が見つかっており、華やかなミノア文明を現在に伝え、その中でもナイル川を描いたと思われるフレスコ画も発見されており、ミノア文明がエジプトと交流していたことも想像されている。その証拠にエジプトにおいてもクレタ島を起源とする土器が発見されており、新王国時代の墓ではファラオに朝貢するクレタ人(ケフティウ)の絵も存在する。さらにユーフラテス河畔でも確認されており、ミノア文明の活動範囲がかなり広がっていたと考えられている。さらに『フライパン』と呼ばれるなべ型の器や『キクラデスの偶像』と呼ばれる大理石の像があるが、これはオリエントにおける多産や豊穣を祈願したものでなく、白い大理石が磨き上げられたものでオリエント文明とは異質な独自の文化を持っていたことが考えられている。初期青銅器時代末に災厄を受け、文化的後退を見せたギリシャ本土においてはその痛手より立ち直るのにはかなりの時間を経たと考えられている。遺跡数の減少に伴い、副葬品も貧弱なことからギリシャ本土の文化が低迷したことが考えられるが、ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマンがミケーネにおいて豪華な副葬品を納めた墓を発見したことにより、紀元前1650年頃、ミケーネ文明が始まりを告げたと考えられている。この時期、ペロポネス半島やギリシャ中部にもミケーネの影響を受けた大規模な集落が生まれ始めており、これらを総計してミケーネ文明と呼ばれているが、これはギリシャ系のアカイア人、イオニア人らが定住したことにより始まり、ミノア文明の影響をうけつつも独自の道を歩み、さらに文化の中に武器など武力の要素が強く見られることでその違いを見せている。また、ミケーネ文明ではミノア文明とちがい、宮殿などよりも墓の造営に力が入れられており、前1500年ごろ、『トロス墓』と呼ばれる大規模な石造の墓の建設が開始されたと考えられている。ミノア文明でのこの大規模な『トロス墓』の建設は前17世紀から前15世紀までに行われていたと考えられており、王国が構築されたことにより初期国家が形成されたと考えられている。さらに、ミノア文明以来続いている地中海東部との交流はヒッタイトやエジプト新王国などと引き続き行われていたと考えられており、アメンホテプ3世の葬祭殿にはクノッソスやミケーネの地名が刻まれ、ミケーネではアメンホテプ3世のカルトゥーシュを刻んだ象牙が発見されている。ミケーネにおける宮殿はクレタ島の開放的なものとはちがい、「メガロン」と呼ばれる王の間を中心にしていることから、王への権力集中が進んでいたと考えられている。テッサリアのイオルコス、ギリシャ中部のやテーバイ、アテナイ、アルゴス平野のミケーネ、ティリンス、ミデアなどに小王国が存在していたと考えられ、その中でもペロポネス南西部のについては研究が進んでいる。特にこのピュロス王国ではアメリカ合衆国の学者カール・ブレーゲンが発掘した際に「線文字B」が描かれた粘土板を発見、後にイギリスのアーサー・エヴァンズがこれを解読することに成功することができた。この線文字Bの解読により、ミケーネ文明の人々がインド=ヨーロッパ語族に属し、さらに王国における日常業務が明らかにされることとなった。ピュロス王国には合計で16の行政区を持っており、それぞれに長が置かれ、それを王が統括したと考えられている。そして王の名称が「」(線文字B: - 、アナックスとも)と呼ばれていたが、これは神に近い存在というニュアンスが含まれており、これは西アジアからの影響と考えられている。さらに粘土板には公有地や私有地が存在しており、外国から連れてこられた女奴隷が働き、ポセイドンやポトニア神へ祭祀を行っていたことが記載されている。これらのことが全てに当てはまるとは言えないが、当時の社会を表していると考えられている。一方、それまで独自の発展を告げていたクレタ島は崩壊を遂げるが、これはミケーネ文明の人々による侵略が考えられている。このような侵略により、ミケーネ文明は後青銅器時代中ごろから後半までに(後期ヘラディックIIIA期)までにギリシャ本土、クレタ島、エーゲ海を覆い尽くし、さらにはシチリアや、キプロスにまで及び、ヒッタイトやエジプト新王国と肩を並べる存在であった。しかし前1200年のカタストロフとよばれる地中海東側全域で発生した気候変動によりミケーネ文明は崩壊したが、その文化要素は以後200年ほど続いた。この破局は過去にはドーリス人や「海の民」による侵略が考えられたが、現在ではこの説はあまり有力ではない。 前1200年のカタストロフの影響は地中海東部の全域においてヒッタイトの滅亡、エジプト新王国の衰退も見られることから、確実な原因を探るにはこれらの状況も視野にいれなければならない。ミケーネ文明の崩壊からポリスが形成されるまでの時代、ギリシャは謎に包まれており、文字史料も無く海外交流もあまり行われず、前後の時代と比較すると史料が乏しいため、「暗黒時代」と呼ばれている。これは新たにギリシャ人の一派、ドーリア人の侵入によりギリシャに混乱が生じたものであった。ただし、ミケーネ文明の要素が全て消えたわけではなく、紀元前900年頃には幾何学文様で描かれた高品質の土器が生まれるが、由縁はミケーネ文明の土器である。また、ミケーネの人々は混乱の続く土地を捨てて、各地へ移動したため、キプロスやパレスチナなどにその痕跡が見られる。しかし、前11世紀、ミケーネ文明はその痕跡を失い、まとまった資料もサラミス島やアテナイ周辺でしか発見されていないが、その少ない資料の中には中期青銅器時代に顕著であった特徴がみられ、これはミケーネ時代に追いやられていた人々による文化という意見と牧畜などを生業にしていた人々による文化という意見が対立を見せているが、この時代の人々は牧畜を中心とした移動生活を営んでいたと考えられている。過去にはこの時代には大規模な建築物が建設されなかったと考えられていたが、1980年にレフカンディで発見された「ヘローン」(英雄廟)により、エウボイア島では少なくとも大規模な建築物が構築されていたと考えられており、人類学では「ビッグマン」とよばれる在地権力者の館と考えられ、一代限りではあるが権力者の存在も確認されている。ただし、この権力者は前時代の王などの代を連ねるものではなく、上記ヘローンは権力者の埋葬とともに破壊されている。その他の地域ではレフカンディの「ヘローン」のような大規模な墓は存在しないが、紀元前700年までは乏しかった副葬品もそれ以降は増加し、また、東方から運ばれてきた品が含まれており、再び東方との交流が盛んになったと考えられ、これは土器を飾る幾何学文様の中に大型の櫂船が描かれていることにより想像される。また、この時代のエウボイア系の杯(スキュフォス)はイタリアやレヴァント方面でも数多く出土しており、このことを強く支持することとなっている。この時代に生まれた集落が後の時代に歴史的に重要な役割を果たすアテナイのような町が生まれている。この時代ポリスが生まれ始め、ミケーネ文明という垂直的な社会から市民を中心とした横の社会へと変化したものであったが、このミケーネ文明における社会形成の失敗がポリスを生んだと想像される。また、この時代、フェニキア人等、東方との交流が再開されたことにより「線文字B」より簡便な「アルファベット」が発明される。この時期にはギリシャ人たちの関心が過去へ向かい、ミケーネ時代の墓への供物など過去の遺物へ祭祀を行っていたと考えられる。特に考古学的調査により、アテナイ、アルゴスなどの集落では墓の数が増加しており、人口の増加か埋葬の変化かどちらかかの議論は続いているがまとまって墓を造成していることから地域における区域化が進んでいたと想像される。また、これを補強するものとして墓の副葬品が減少を見せているが、これは共同墓地に埋葬され、供物が聖域に奉納されることが上げられる。古典期は二つに分けられ、前古典期はギリシャの独自性が形成された時期であり、古典期はその独自性に磨きがかかった時期である。ただし、この境目については議論が存在しており、一概に決定されるものではない。以下は桜井万里子編『ギリシア史』に従った境界線を使用する点について注意されたい。紀元前700年代に生まれたポリスは初期においては貴族が中心となって政治を行ったことが詩人ヘシオドスの『仕事と日』の中に記述されているが、農地を所有していたヘシオドスは賄賂を受け取って不正な判決を下す貴族たちに反論しており、さほど身分に大きな違いがなかったと考えられる。また、一部ポリスでは王政も存在したようだが、結局は貴族政に移行したと考えられている。これら未成熟なポリス社会において、一部の有力市民が権力を握ることがある。これを『僭主制』と呼び、独裁者として君臨することも生じた。この時代の代表的な僭主はコリントスのキュプセロスやアテナイのソロン、ペイシストラトスなどである。ポリスでは市民の統合の象徴として大規模な建物を建築し始めるが、これまでの宮殿のような権力を誇示したものではなく、神殿のような市民らの加護を象徴するものであり、この時代以降、ポリスの中心に位置する神殿は都市国家の景観上での象徴となった。ただし、ポリスにおける市民とは男性に限られており、またその大半が農民であった。また、ポリス自体は1500近く形成されたと考えられているが、アテナイやスパルタのように市民が3万から4万に達したのは特別であり、通常は数千人規模であった。このポリスが統一されることは結局なく、その理由については現在も研究課題とされている。また、複数のポリスが統一というにはあまりにも緩やかな枠組みを形成した例もある。これは「エトノス」と呼ばれており、過去にエトノスがポリスへ発展したという説も存在したが、現在は否定されている。この時期にフェニキア文字を借用したギリシャ文字が発明され、これ以降、文字で残された史料が生まれる。また、これまで口伝で伝えられてきたホメロスの叙情詩やヘシオドスの詩などが文字化されたが、それ以上に文字は政治を行うために利用され、クレタ島で発掘された石に刻まれた現存する最古の成文法である「前七世紀の法」が制定されたことも明らかである。このギリシャ文字の成立により、ホメーロス(ホメロス)の二大叙情詩『イリアス』と『オデュッセイア』が生まれたが、これはフェニキア人との接触によりギリシャ人としてのアイデンティティが必要になり、500年間伝聞されて来た『イリアス』『オデュッセイア』が固定化されたとされる。また、ギリシャ文字の導入が『イリアス』『オデュッセイア』の文字で固定するために発明されたという説も存在している。この前七世紀の法には権力の集中が行われないようにするため、権力者が何度も同じ職に短期間で就くことを禁止しており、平民たちが政治に参加していたことがうかがえる。ギリシャ人はギリシャ外へ進出を始めており、地中海、黒海の至るところへ約200年にわたって入植、このことから「大殖民時代」とも呼ばれる。この殖民には領土を拡大するという目的だけでなく、ポリス社会において政争が発生した時に敗れ去った党派が殖民を行うといったように、ポリス内での争いを避ける役割も果たしていた。この殖民はシチリア、イタリア南部(マグナ・グラエキア)、リビア、フランス南部にまで至っており、ギリシャ人は地中海全体で活動していたと考えられる。しかし、これら広範囲にわたる殖民にもかかわらず、ギリシャ人たちは共通する文化を忘れることなく、ギリシャ人ら自身がもつ文化、民族意識の形成の契機となった。信仰についてはヘロドトスが述べるようにポリス固有の神(アテナイのアテーナー、サモスのヘーラー)を祭ったアクロポリスを中心にギリシャ全土で信仰される神(ゼウスなど)への信仰を共有しており、このギリシャ全土で信仰される神が祭られた箇所がオリュンピア、デルフォイ、ネメア、イストミアであった。なお、オリュンピアではゼウスが祭られており、紀元前776年ごろ、第1回オリュンピュアが開催され、紀元前7世紀ごろまでにはギリシャ世界の全てのポリスから参加者が集まるようになり、全ギリシャにおける聖域(パンヘレニック)の地位を確立させた。一方、デルフォイにはアポロンが祭られており、神託を伺うようになったのは前8世紀頃と推測されている。この神託はギリシャだけでなくリュディアやペルシアでも知られており、周辺に居住するアンフィクティオニア(隣保同盟)が管理していたことが紀元前5世紀の資料で明らかになっているが、このアンフィクティオニアにはテッサリア、フォキス、ロクリス、ボイオティアなどギリシャ北西部の人々やドーリス、イオニアの人々も参加、エトノスを形成していたとされる。ポリスではアテナイ、スパルタが突出した存在であるが、これ以外のポリスでは文字資料も少なく、発掘活動を中心にその内容の研究が続いている。以下で一部ポリスについて解説する。ギリシャ本土中央部ではエウボイア島において最初のポリスが形成されたが、これはカルキス、エレトリアであった。この両ポリスは周辺のポリスを巻き込んでレラントス戦争を行ったが、これがギリシャ最初の国際的な陸戦であったと推測されている。また、アテナイ近郊のメガラも早い頃に形成されており、メガラは紀元前727年にシチリアにメガラ・ヒュウライアを、紀元前685年に黒海入り口にカルケドン、紀元前668年ごろにビザンティオン(現在のイスタンブール)らの殖民市を形成しており、紀元前7世紀にはテアゲネス(前640? - 前620?)が僭主になり、アテナイの僭主を狙っていたキュロン(テアゲエスの娘婿)の支援を行っている。その後も、メガラはアテナイと抗争が続き、紀元前6世紀末、第一次神聖戦争(紀元前595年-紀元前585年)でアテナイが勝利するまで続けられた。その後、メガラは紀元前500年、スパルタの同盟国となった。また、アイギナ島のポリス、アイギナは商業ポリスとして繁栄しており、ギリシャにおいて初めて貨幣を発行したポリスであった。キクラデス諸島ではナクソスが力をつけており、デロス島のアポロン神殿へも奉納を行い、アテナイのペイシストラトスが介入するまではナクソスがデロス島を支えており、介入の終了後、再びナクソスがキクラデス諸島における唯一の有力ポリスとして君臨し続けた。ドデカネス諸島最大の島、ロドス島(ロードス島)には紀元前10世紀頃にドーリス人がリンドス、イアリュソス、カメイロスのポリスを構築、さらにシチリア、リュキアに殖民市を形成していた。特にキオス島ではエウボイアからの植民者によるポリスが形成されており、このポリスはスパルタを除く最大の奴隷使用国であった。このキオスはリュディア、ペルシアと協定を一時、結んでおり、一時期、親ペルシアの僭主が統治していたが、イオニアの反乱で指導的役割を果たしている。また、サモス島にも同名のポリスが存在したが、このポリスの僭主ポリュクラテス(在位前550年頃 - 前522年)の頃に繁栄を迎え、詩人、芸術家らが集ったことがヘロドトスの『歴史』にも記述されており、その中に書かれる大神殿などはこの時代と推測されている。メッセニアとスパルタ(ラケダイモーン)の間で第一次メッセニア戦争(紀元前743年-紀元前724年)、第二次メッセニア戦争(紀元前685年-紀元前668年)が起こった。この地ではスパルタが最有力であったが、その他にアルゴス、コリントスが有力なポリスとして存在していた。コリントスは肥沃な土地に恵まれ、また、工芸品に力を入れており、コリントスの陶器は紀元前6世紀にアッティカ製が出てくるまではギリシャ全土で使用された。また、ドーリス式、コリントス式の建築様式の発祥地でもある。アルゴスは一時期、スパルタに勝利しギリシャ第一の強国となったが、これは重装歩兵による密集戦術によるものと考えられている。この地ではテーバイが最有力であり、テーバイを中心として文化、方言、宗教などを同じくしたポリスでボイオティア連邦を形成していた。テッサリアでは気候や土地に恵まれ、豊かな農耕や牧畜なども行われており、マケドニア、トラキアでも同様な状態であった。テッサリアでは「テッサロイ」と自称する人々がギリシャ人と融合し、「テッサリア人」と化し、ゆるい連邦制であるエトノスを形成していた。マケドニアでは史料が少なく、研究が進んでいない。トラキアでは王国が成立していたと考えられている。エイペロスでは移動性の牧畜が行われており、マケドニアと似た歴史をたどっており『イリアス』におけるドドネ神域以外には文献が存在せず、古典期に至るまで後進地域であり、前5世紀に至ってエトノスが形成されるようになった。これまで独特の進化を続けていたクレタでは暗黒時代からの連続性が確認されており、前7世紀から前6世紀に至るまで神殿のような建築物が作られることが少なく、構造上も違いが多い。現在、クレタ島では前6世紀を通じて考古学的資料が少ないにも拘らず、碑文史料が減少しておらず、この点については現在の研究課題と化している。上記しているが、ギリシャ人たちは地中海世界の各地で活動していたが、この活動を通じてギリシャ人たちとしてのアイデンティティを確立していった。そしてオリンピュアやデルフォイのような聖地がその地位を確立していったのは、この時代であった。また、このアイデンティティ形成の中心となったのは『イリアス』、『オデュッセイア』であり、様々な詩人たちが登場している。美術、工芸の分野ではオリエントの強い影響を受けた後、ギリシャ独自の様式も確立しつつあり、彫刻では厳格様式が、陶器では黒絵陶器、赤絵式陶器などが生まれ始めた。この時代は前古典期に形成されたポリスやエトノスを中心に全体的な統合に至ることはなかったが、ギリシャ人としてのアイデンティティを明確にして活動していく。そして古代ギリシャは頂点を迎え、この時期に生まれたギリシャ文化は後のヨーロッパ社会の基礎となり、現在でもその影響は残っている。この中で最も活躍したのはアテナイであるが、この時点で僭主政以来に芽生えた民主制の意識の覚醒が紀元前508年のクレイステネスの改革を呼び起こすこととなり、民主政の基礎を築いていた。その後も紀元前462年のの改革で市民の行政参加が促進され、前5世紀中ごろまでには完全民主政(徹底民主政とも)が導入された。一方、中東ではアケメネス朝ペルシアが隆盛を迎え、紀元前550年キュロス2世がメディア王国を滅ぼすと、紀元前547年リュディアと新バビロニアを征服、エーゲ海東部のイオニア地方のポリスを従属させ、カンビュセス2世がエジプトを併合して古代オリエント世界を統一していた。しかし紀元前498年の「イオニアの反乱」により、ペルシア王ダレイオス1世はギリシャのポリスがイオニア地方のポリスを支援していたとして紀元前490年、ギリシャへの遠征を開始した(ペルシア戦争)。これはマラトンの戦いにより、ギリシャ側の勝利に終わったが、ペルシアの野望は挫けることなく、紀元前480年に再度、遠征を行った。この時、ギリシャのポリスはコリントスで会合を開き、ここで初めてギリシャのほとんどのポリスが参加するヘラス同盟(コリントス同盟)が結ばれ、盟主の座にペロポネソス同盟の盟主、スパルタが座ることとなった。ギリシャ侵攻を開始したペルシア軍はテルモピュライの戦いでスパルタ軍を殲滅したが、アテナイ海軍を中心としたヘラス同盟軍にサラミスの海戦で破れ、さらに翌年のプラタイアの戦いでもヘラス同盟軍に敗退した。特にこのプラタイアの戦いで勝利を記念して作られた青銅製の柱は現在もイスタンブールに現存している。その後、ペルシア軍との小競り合いが小アジアで繰り返されたが、紀元前449年、「カリアスの和約」がペルシア、アテナイ間で結ばれ、ペルシア戦争は終焉を迎えた。ペルシア戦争に勝利したデロス同盟の中で盟主スパルタよりもアテナイの活躍が目立ったため、デロス同盟の盟主となり、同盟国の多くから貢租を収めさせ、アテナイはやがてエーゲ海を制覇することとなる。また、この貢租を利用してアテナイは市民への分配を行い、アテナイでは民主制がさらに発展、この50年間を「」(、「50年」の意)とトゥキュディデスは呼んだ。こうしてギリシャ世界はアテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟の二つに分かれ、徐々にその対立を深めていくこととなった。紀元前461年、コリントスとアテナイの関係が悪化して以来、両陣営の間では散発的な戦い(第一次ペロポネソス戦争)が発生しており、これは紀元前448年の第二次神聖戦争 などが行われたが、紀元前446年にアテナイとペロポネソス同盟がを締結することによって終わりを告げた。デロス同盟への支配を強化したアテナイは徐々に巨大化していったが、スパルタ率いるペロポネソス同盟はこれを脅威と認め、紀元前431年にペロポネソス戦争(第二次ペロポネソス戦争とも)が勃発することとなった。戦いの前半戦はアテナイが有利に戦いを進め、紀元前421年に一度、「ニキアスの和約」が結ばれ戦いが終了した。しかし、アテナイがシチリアへ()を行なったことから紀元前415年、再び戦争が開始された。アテナイはデケレイアをスパルタ軍に押さえられたことにより、穀物の生産が不可能となり、また、港もスパルタ軍に押さえられたことにより紀元前404年、降伏し、ここにペロポネソス戦争は終わりを告げた。ペロポネソス戦争に勝利したスパルタはギリシャにおける最有力ポリスとなったが、スパルタはギリシャの覇権を得るために強引な政策を進め、これにコリントス、テーバイは反発していた。そして王が交代したペルシアはイオニア地方のポリスへの圧力を強めたため、スパルタはこれを打破するために遠征を開始したが、戦いは膠着状態に入り長引いていた。そのため、スパルタは再度、諸ポリスに遠征参加を呼びかけたが、コリントス、テーバイ、アテナイはこれに応じず、反対にペルシアから資金を受け取っていた。紀元前395年、コリントス、テーバイ、アテナイ、アルゴスはスパルタへの挙兵を開始、ここに「コリントス戦争」が開始された。結局、紀元前386年、ペルシア王の介入で休戦(アンタルキダスの和約)が結ばれたが、小アジアやキプロスのポリスはペルシアの支配するものとなった。その後、テーバイはアルカディア連邦を結成、スパルタへの攻撃を開始、スパルタはリュクルゴス体制が限界を迎えており、これ以降衰退を見せペロポネソス同盟も解散することとなった。紀元前378年、アテナイは(デロス同盟を一度と数える)を結成、ゆるやかな団結を行い、紀元前375年、でギリシャへの野望に燃えるペルシア軍を打ち破っていた。しかし、この勝利によりアテナイは再び支配強化に動き出したため、紀元前357年、「」が勃発、テーバイとアテナイは激戦を開始することとなった。しかしこの戦いの間に「」が勃発、ギリシャは混乱に見舞われることとなった。紀元前355年、第二次海上同盟の崩壊という形で同盟市戦争は終わりを告げたが、第三次神聖戦争は続いていた。この最中、紀元前356年アレクサンドロスが生まれた北のマケドニアがアンフィリポリスを占領、ギリシャへの侵食を開始した。この時期に生まれた文化遺産は現在でも親しまれ、今なお大きな影響力を持っており、枚挙に暇が無い。パルテノン神殿もこのころに建設されており、三大悲劇詩人と呼ばれるアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス、喜劇詩人のアリストファネスなど著名な作家による悲劇、喜劇が演じられた。また、ヘロドトスの『歴史』はペルシア戦争を詳しく記述し、歴史叙述という新たな分野を開拓、トゥキュディデスもペロポネソス戦争を描いた。哲学の分野でもソクラテス、プラトン、アリストテレスらがうまれ、弁論の世界にもリュシアスやデモステネスらが生まれ弁論学が発達した。ヘレニズム時代はアレクサンドロス3世の時代からローマによるプトレマイオス朝エジプト併合までを主に呼び、この呼称を初めて使用したには19世紀のドイツの歴史家、ドロイゼンであった。この時代を後に牛耳ることとなるマケドニアは当初は異民族のように思われていたが、現在の研究ではマケドニア人もギリシャ人の一派であると考えられている。前7世紀に王国として成立した後、ポリスとはまったく違う形で発展しており、王や貴族が存在していた。マケドニアがギリシャと関係を結ぶのは前5世紀以降であり、アルケラオス1世(在位:前413年 - 前399年)の時代に首都を移転し、ギリシャ文化の導入を開始した。その後、アルケラオス王が暗殺され、フィリッポス2世(在位:前359年 - 前336年)が即位するまでの間、マケドニアは停滞期に入るが、フィリッポス2世が即位直後に外的の侵入による存亡の危機に対処してからは王国は安定し、軍備の拡張を行った。こうして強力な軍隊の保持に成功したマケドニアは徐々にギリシャ北部へ侵食を開始していき、「第三次神聖戦争」への介入を開始した。この介入により、フィリッポスはアンフィクティオニアの主導権を獲得、ギリシャへの影響力を増し、紀元前341年にはトラキア占領に成功した。これに対し、アテナイ、テーバイは同盟を結び紀元前338年、マケドニア軍と戦ったが、フィリッポス2世はこれに勝利、ギリシャはマケドニア王国に屈することとなった。フィリッポス2世はギリシャ諸都市の代表をコリントスに招集して新たにコリントス同盟(ヘラス同盟)を結び、翌年の会議ではペルシアへの遠征が決定した。しかし、フィリッポスは紀元前336年、暗殺され、その計画は息子のアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)に受け継がれることとなった。アレクサンドロス3世はギリシャにおける反マケドニア勢力を殲滅した後、コリントス同盟の会議を開き、再度ペルシア遠征を決定した。アレクサンドロス3世はペルシア軍を撃破しながら、シリア、フェニキアを占領、そしてエジプトへ進軍し、アレクサンドリアを築いた。紀元前331年にはガウガメラの戦いにおいてダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破、ペルシアの崩壊は決定的となった。そしてアレクサンドロス3世はペルシア首都スサ、ペルセポリスを占領、エクバタナへ進んでペルシア軍の殲滅を確認した後、ペルシア軍討伐が終了したことを確認してコリントス同盟軍の解散を宣言した。しかし、アレクサンドロス3世はここでギリシャへは戻らず、さらに東へ向かい、バクトリア、ソグディアナを占領、インドへ向かった。インドでも勝利を収めたが、長期に渡る従軍で疲弊しきっていた兵士たちはこれを拒絶、アレクサンドロス3世は帰国の途についた。アレクサンドロス3世はスサに凱旋した後、綱紀粛正など様々な業務を行い、紀元前323年、バビロンに戻り、アラビア半島への遠征を計画したが、彼は熱病で死去することとなった。ギリシャではマケドニアの軍事力を背景とした平和が訪れており、一部スパルタが叛旗を翻したが、これも敢えなく撃破され、ギリシャにおける反マケドニア勢力は一掃された。しかし、これらの平和もアレクサンドロス3世がインドから帰国の途に着くと状況が変化を告げていた。そしてさらにアレクサンドロス3世が若くして死去するとアテナイを中心とした反マケドニア闘争、「」が勃発した。だがマケドニアはこれを殲滅、事実上、ギリシャにおけるポリスの独立は終焉を迎え、民主政も消滅することとなった。この時代は古典期と比べ、亜流の時代として低く見られることがあるが、この時代にアレクサンドロス大王が東征を行ったことにより、ギリシャ文化が東へ広がりを見せることとなった。しかし、ギリシャ本土では地域的な争いが生じたことで、政情は極めて不安定であった。アレクサンドロス3世急逝後、後継者による「ディアドコイ(後継者)戦争」が開始された。王位自体は息子のアレクサンドロス4世と異母兄弟のフィリッポス3世(アッリダイオス)が摂政となったペルディッカスと共に共同統治することとなったが、この流れの中でペルディッカスが権力を握ることとなった。そしてペルディッカスはエジプトに侵攻したが、死去する。ペツディッカスの死去後、会議が開かれ争いを行っていた将軍たちの間でアンティパトロスが摂政、アンティゴノスが軍最高司令官の地位に就き、一度は落ち着いた。しかし、アンティパトロスが死去すると風向きは変わり、アンティパトロスの息子カッサンドロスはリュシマコス、アンティノゴス、プトレマイオスと共同してアンティパトロスに後継者に任命されたポリュペルコンに対抗、紀元前318年から激しい争いと化した。その後、カッサンドロスはフィリッポス3世の妃エウリュディケと、ポリュペルコンはアレクサンドロス3世の母、オリュンピアスとそれぞれ協力してさらに抗争が過熱した。オリュンピアスは紀元前317年、フィリッポス3世とエウリュディケの殺害に成功したが、翌年にはカッサンドロスの攻撃を受けて処刑された。ポリュペルコンを撃退したカッサンドロスは今度はアンティゴノスと対立、各後継者たちは協力してアンティゴノスと対立したが、紀元前311年、カッサンドロス、アンティゴノス、プトレマイオス、リュシマコスの間は和平を結んだが、これが王国を4分割することを導くこととなった。翌年、アレクサンドロス4世は殺害され、最終的にはアレクサンドロス3世の一族は殺害され、根絶やしにされることとなった。王家が断絶したことにより、各ディアドコイたちは王を名乗り始めたが、この中で、アンティノゴスがイプソスの戦いで戦死、王国の分裂は決定的になり、プトレマイオスはエジプト、セレウコスはシリア及びシリア以東、リュシマコスがトラキア及び小アジア、カッサンドロスはマケドニアとそれぞれ王国と構築、ディアドコイ戦争は最終ステージへ向かうこととなった。イプソスの戦いの後、エジプトとシリアはそれぞれ支配が安定したが、マケドニアとギリシャにおいては落ち着かず、争いは続いた。結局、リュシマコスはセレウコスに攻め滅ぼされ、小アジア、トラキアはセレウコス朝シリアの領土に取り込まれた。リュシマコスの死と共に、防波堤を失ったギリシャ北部はガリア人の侵入を受け、マケドニア、トラキア、テッサリアを襲撃、ギリシャ中部においてアイトリア連邦がこれを撃退、小アジアはセレウコス朝シリアによって撃退されたが、ギリシャは多大な被害を負った。その混乱を利用して、一有力者であるアンティノゴノス・ゴナタスはマケドニアの王になることに成功し、アンティゴノス朝マケドニアが成立、ここにセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニアの三強時代を迎えることで、古代オリエント世界は落ち着くこととなった。前3世紀、イタリアを統一、さらに第一次ポエニ戦争(紀元前264年-紀元前241年)の勝利で勢いにのるローマは、紀元前229年に第一次イリュリア戦争に参加し、マケドニアと友好関係を結んでいたイリュリアを撃破、さらに紀元前219年の第二次イリュリア戦争にも勝利を収めたが、これにより直接的ではないが、以降、ローマがギリシャへ接触を持つこととなる。この時代はマケドニア王国の活躍のためにポリスの影が薄くなるが、基本的に古典期からローマ時代までポリスは維持されていた。しかし、ヘレニズム時代においてその限界は明らかになっており、ポリスをいう枠を超えて前3世紀頃、ギリシャ最後の勢力としてアエトリア同盟やアカイア同盟が形成され、アケドニア、シリア、ローマらと時には連携し、時には対立しながら重要なファクターと化していた。これらの連邦が形成された地域は主に古典期では後進地とみなされていたギリシャ北西部(アエトリア同盟)、ペロポネソス半島北部(アカイア同盟)である。紀元前261年、マケドニアはギリシャへ進出して「」に勝利した。アカイア同盟は過去に作られていた組織を更新して生き残っていたが、後にペロポネソス半島の大半を手中に収めた上で、反マケドニアの姿勢で臨んだ。マケドニアとアカイア同盟との戦いは続き、「」を続けることとなった。紀元前229年、マケドニア王デメトリオス2世が死去したことにより、マケドニア王国はギリシャへの影響力が弱まることとなったが、ヘラス同盟の結成に成功、さらに親マケドニアと化していたアカイア同盟と連合して対立していたスパルタの撃破に成功した。紀元前220年には「」を戦うこととなったが、優勢に事を進め、紀元前217年にナウパクトスで現状維持を旨とする「ナウパクトスの講和」(、)を結んだ。紀元前216年、第二次ポエニ戦争中にカルタゴ軍に撃破されたローマを見たマケドニア王フィリッポス5世は西への進出をたくらんだが、機先を制されローマに敗北、「」で和平を結んだ。この動きはローマにマケドニア進出の大義名分を与えることとなった。フィリッポス5世率いるマケドニア王国はカルタゴのハンニバル・バルカと同盟を結び、紀元前214年にローマ帝国とのに巻き込まれた。アエトリア同盟は、デルフォイのアンフィクティオニア(隣保同盟)の主導権を獲得してギリシャ中心部へ進出し、ローマが進出すると初期は友好関係を結んだ。前201年、苦難の末に第二次ポエニ戦争に勝利したローマは東への進出を開始、マケドニアがシリアと同盟を組んでプトレマイオス朝への攻撃を行うと、プトレマイオス朝はローマへ支援を要請、ローマはマケドニアへ軍を進めた。(前200年 – 前197年)で、アエトリア同盟はローマの勝利に貢献し、マケドニアは大敗北を喫し、ギリシャから撤退した。この時、ローマのギリシャ担当官フラミニヌスは『すべてのギリシャ人の自由』を宣言、ギリシャ人たちはこれを喜んで受け入れたが、これはローマにおける『自由』でしかなかった。この後、アエトリア同盟もローマと敵対していくことになった。アエトリア同盟などの反ローマ勢力は、シリアと結んで小アジアで「ローマ・シリア戦争」(紀元前191年– 紀元前188年)を開始した。紀元前188年にローマに撃破され「アパメイアの和約」を結んだ。シリアは小アジアを失い、事実上アエトリア同盟は消滅した。その後しばらく、平穏な時期が続いたが、フィリッポス5世の後を継いだマケドニア最後の王、ペルセウスは積極的に勢力拡大を謀ったため、ローマはこれを攻撃し、「第三次マケドニア戦争」(紀元前171年-紀元前168年)が勃発した。 紀元前168年、ピュドナの戦いでアンティゴノス朝マケドニアは滅亡した。この時代はアレクサンドロス大王死後、極めて混沌としており、プレマイオス朝エジプトやセレウコス朝シリアのようなアレクサンドロス大王の遺産を下にした国や古典期の自治を保とうとする都市国家も存在した。そしてアエトリア同盟やアカイア同盟のような種族を中心とした国家が活躍した時代でもあった。アカイア同盟は、ローマが進出してペロポネソス半島の統一に成功した。しかしローマの隆盛によって、マケドニア王国とアカイア同盟はローマに打ち負かされ、ローマの版図に組み込まれる。第四次マケドニア戦争(紀元前150年-紀元前148年)で、マケドニアはこれに敗北し、その2年後の紀元前146年にはマケドニア属州となった。アカイア同盟も、その中心地コリントスが徹底的に破壊され、その命運を閉じたのである。ヘレニズム時代は都市文明の時代と呼ばれることもあり、アレクサンドロス大王の後を継いだディアドコイたちは各王国においてギリシャ文化の保護奨励を行い、アレクサンドリアやペルガモンを代表とする各首都において文化活動が行われた。特にプトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアにおいては学術研究施設が築かれ、学問の都市としても栄え、幾何学、天文学、地理学、医学などの目覚しい発展を見せた 。古典時代にポリスを中心として発展していた哲学もストア派やエピクロス派など個人を重視したものへ変化を示したが、この中心地はアテナイであり、この後も学問の中心地として君臨し続けた 。これらヘレニズム時代に発展したギリシャ文化はローマへ伝播することとなり、ローマ人たちのギリシャ文化への愛着が生まれ、ローマを元とする西欧文化の原点と化すこととなる 。セレウコス朝シリアは当初、インドまでを領土とすることを睨んでいたが、バクトリア、パルティア、ユダヤ人の反乱により果たすことができず、勢力を弱めたため、ユーフラテス川より東でのギリシャ人による支配は終了を告げた。そのため、イスラムとヘレニズム文明との関係は断片的であり、現在も研究されている。中世のイスラム教にはギリシャ哲学が採用されており、キリスト教はその影響を受けているが、イスラム教におけるヘレニズム文明の位置は現在も不明瞭である。前146年にローマがマケドニアを属州としたのを皮切りに、ギリシャはローマの一部と化した。しかし、ローマの手が伸びるなか、ギリシャでは小アジアのポントス王国国王ミトリダテス6世は三次に渡るミトリダテス戦争でローマへの編入に抵抗を行い、また、その後も ポンペイウスやカエサルらの争い、オクタヴィアヌスやアントニウスらによる争いに巻き込まれることとなった。紀元前31年9月、アクティウムの海戦でプトレマイオス朝エジプトがローマに破れると地中海はローマの物と化し、ギリシャもその中に組み込まれることとなった。紀元前27年、ローマを手中に収めたオクタヴィアヌスは、エーゲ海、アイトリア、アカルナニア、エペイロスの一部とギリシャのほとんどを属州アカイア、クレタは属州キレナイカ、キプロスは小属州へとそれぞれ編成した 。そして、アウグストゥスの治世下、「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)により、ヘレニズム時代に力を失いつつあったギリシャは復興を開始した。特にアテナイは文化、商業の町として繁栄し、アウグストゥスはアテネに貨幣鋳造の許可を与え、その結果、作られたアッティカ式新型貨幣が地中海東部において最も使用された通貨のひとつとなった。さらにギリシャ人の中にはローマ市民権を与えられたものもみえ、ギリシャ諸都市においてグレコ・ローマンと呼ぶにふさわしい制度、言語、宗教においてギリシャとローマらそれぞれの文化が融合したものが現れた。皇帝ネロはギリシャ文化を愛し、四大祭典全ての協議に参加した。ギリシャ各地の調査により、ヘレニズム時代を通じて激減した人口がローマ時代には増加していたと考えられている。特に2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスはギリシャ、東方を愛好しており、アテナイなどの都市は表面的ながら輝きを取り戻していた。また、ギリシャ人の中には執政官に就任したものも存在する。ローマ皇帝の中でもハドリアヌスは「アカイア中興の祖」と呼ばれるほどギリシャへの愛好を示し、この時代に最大の神殿であるゼウス神殿、オリュンピエイオンも完成した。この時代に形成されたものは次世代のビザンツ帝国時代に続く文化要素が芽生えた時代であり、また、49年にはアクロポリス西のアレイオス・パゴスの丘においてパウロがキリスト教の伝道を初めて行った。しかし、伝統的な神を信じていたギリシャ人らには受け入れられることなく、2世紀の間に迫害や殉教が多数発生した。また、皇帝コンスタンティヌス1世は
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