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外木場義郎

外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )は、鹿児島県出水市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。2リーグ制以降のプロ野球で、3回のノーヒットノーラン(うち完全試合1試合)を達成した唯一の投手である。出水高校では1963年に夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、鹿児島高のエース・竹之下五十三(西鉄)と投げ合い0-1で惜敗、甲子園出場を逸する。卒業後は電電九州に進み、1964年の都市対抗に出場。1回戦でリリーフとして登板するが、北海道拓殖銀行に敗退。村山実の大ファンで阪神タイガースのスカウトが来ていたら必ず入団していたとされるが、阪神からの誘いは無かった。しかし、広島カープ、大洋ホエールズ、近鉄バファローズ、東映フライヤーズの4球団からプロ入りの打診を受ける。結局、セ・リーグ希望であったことと、九州地方出身者が多かった理由で1965年に広島カープへ入団。同年10月2日にプロ2度目の先発となる阪神戦で、憧れの村山と投げ合って僅か1四球を与えただけのノーヒットノーランでプロ初勝利を飾る。新人選手のノーヒットノーランは過去3人目であったが、初勝利と同時の記録は史上初めてであった。この年は閉幕までにもう1勝を挙げるが、以後2年間は0勝、2勝と伸び悩む。1968年になると、根本陸夫監督から、安仁屋宗八と共に先発の柱を任せられる。シーズン2度目の先発となった4月14日の大洋戦で完封勝利を収めるとそのまま波に乗り、21勝、防御率1.94の好成績を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得。23勝を挙げた安仁屋とともに広島の史上初のAクラス入りに大きく貢献した。また同年の9月14日の大洋戦では、2回目のノーヒットノーランを完全試合で達成。またこの試合では当時のリーグ記録となる16奪三振も記録している。その後も先発投手の軸として活躍、1976年までの9シーズンで8度の二桁勝利を記録する。また、1972年4月29日の巨人戦で、史上2人目となる3回目のノーヒットノーランを達成する。プロ野球史上、3度のノーヒットノーランを達成したのは沢村栄治と外木場の二人のみであり、2リーグ制以降の投手としては唯一の達成者である。1974年は18勝、防御率2.82(リーグ7位)の好成績を挙げる。翌1975年には投手陣の柱として20勝を挙げ、チーム初優勝に大きく貢献するとともに、最多勝、最多奪三振、沢村賞のタイトルを獲得した。1976年に右肩を故障。以降はピッチングに精彩を欠き、1979年にチーム初の日本一を機に現役を引退。引退後は広島(1980年 - 1990年・1996年 - 1999年二軍投手コーチ)、オリックス(1991年 - 1993年二軍投手コーチ)、カープアカデミー(1994年 - 1995年コーチ)でコーチを歴任。2000年から2005年までは中国放送解説者を務め、2006年からは広島市のプロ育成野球専門学院で後進の指導に当たっていた。この際、アマチュア野球を統括する日本野球連盟の規定により、引退から25年経った2004年に自由契約の手続きを取ったために話題となった。2013年にエキスパート部門表彰で野球殿堂入りした。2015年よりNHKラジオ第一「おはよう中国」(中国地方ローカル月曜~金曜 7:40~7:58)のプロ野球情報(不定期)のコーナー担当(電話出演)を務める。豪速球と縦に鋭く割れるカーブを武器とした。外木場の投げるカーブは堀内恒夫などに見られるタイミングを外すカーブとは異なり、メジャーリーグにおいて "power curve" と呼ばれる、曲がりの鋭さで打者を翻弄するものであった。完全試合を達成した日の試合は、のちに広島で捕手として入団する達川光男が観戦していた。気性の強い選手であった。ノーヒットノーランを初めて達成した時のインタビューで「なんならもう一度やりましょうか」と答え、後に2度も達成することになったのは、。今の耳つきヘルメットを生み出すきっかけを作ったのは外木場である。1970年8月26日の対阪神戦で、当時2年目だった田淵幸一の左こめかみに死球を与えてしまう。田淵は耳から流血して、救急車で病院に搬送された。これを受け、以降は耳つきヘルメットを使用することになった。

出典:wikipedia

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