ヴィンス・カーターことヴィンセント・ラマー・カーター(Vincent Lamar Carter、1977年1月26日 - )はアメリカ合衆国フロリダ州デイトナビーチ出身のバスケットボール選手。NBAのメンフィス・グリズリーズに所属している。ポジションは主にシューティングガード。リーグ屈指のスラムダンカーとして人気の高い選手である。初めてダンクをしたのは中学1年生の時で、身長は既に173cmに達していた。高校ではバスケットボールと共にバレーボールをプレイ。バスケットではフロリダ州のミスターバスケットボールに選ばれ、バレーボールではアメリカ代表候補に選ばれたが、カーターが選んだのはバスケットボールだった。カーターは、名門ノースカロライナ大学に進学。大学時代はアントワン・ジェイミソンらとプレイし、3年生の時にはオールACCファーストチーム、オールアメリカセカンドチームに選出された。ファイナルフォー敗退後、アーリーエントリーを宣言しNBA入りする。1998年のNBAドラフトでゴールデンステート・ウォリアーズが全体5位として指名するが、即座にジェイミソンと交換でトロント・ラプターズに移籍。この年から活躍し、新人王を獲得、NBAオールルーキーチームの1stチームに選出された。2000年のNBAオールスターゲームにファン投票で最多投票を獲得し先発選手として出場した。また、スラムダンクコンテストにも出場し、試技5回中3回で満点を記録。驚異的なパフォーマンスを披露し優勝。ルーキーイヤー以外のオールスターゲームに2001年~2007年まで7年連続出場(ルーキーイヤーはロックアウトによりオールスターゲーム自体が開催されなかった)。その内の5回はファン投票の獲得数で決まる先発選手として出場した。2000年・2001年・2002年・2004年には、最多得票で選出されている。2000年のシドニーオリンピックではトム・ググリオッタの代役で、アメリカ代表チームドリームチームの一員として出場、大活躍し金メダル獲得。2001-2002シーズン終盤、サンアントニオ・スパーズ戦でティム・ダンカンにファウルされた時に左膝を故障。すぐに回復するものと思われたが、想像以上に故障の度合いが酷く、長期の欠場。この間にチームは泥沼の16連敗を喫する。カーターは故障の癒えないまま連敗を止めるために一時復帰。なんとか連敗を止めるも故障の状態が思わしくないために内視鏡手術を決意。残りの全試合を欠場することとなった。しかし、カーターの欠場が決まった直後からチームは奇跡の14連勝を挙げプレーオフに出場。この一件をきっかけにファンやメディアの間でカーター不要説が囁かれ始めるようになった。2002-2003シーズンも故障は完全に癒えておらず43試合のみの出場とシーズンの大半を欠場。何とか平均得点は20点代を記録するも、故障前のカーターとは別人のようになってしまった。このころから、カーターの評価、存在感、チーム内での重要度が失われていった。2003-2004シーズンは復活を果たす。73試合に出場し、平均得点も22.5とリーグ8位の好成績を記録。しかし、プレーオフには出場できなかった。HCの交代でチーム全体のオフェンスが機能せず、シーズン中に主力を入れ替えるトレードを行った事が原因とされる。カーター自身もチームの改革を望んでいた所、カーターとラプターズ首脳陣との間で「チームの新しい首脳陣の人事は君にも相談する」との約束が交わされる。しかし実際には何の相談も無く人事は決定(カーターはジュリアス・アービングのフロント入りを希望していたが叶えられなかった)。これに腹を立てたカーターはトレードを要求。そのままシーズンが開幕するも明らかにモチベーションの低いプレーを連発した。ラプターズもカーターのモチベーション低下による散漫なプレイに仕方なくトレード要求を承認。2004年12月17日、ニュージャージー・ネッツにアーロン・ウィリアムス、エリック・ウィリアムス、アロンゾ・モーニング (モーニングはラプターズでのプレーを拒否し、バイアウトで解雇後、マイアミ・ヒートと契約) との交換で初の移籍を果たす。ちなみにこのトレードはラプターズにとって全く旨みの無いトレードで、NBA史上最低のトレードとも酷評された。移籍先のネッツは当時リーグ最高峰のポイントガードであったジェイソン・キッドが在籍していたチームであり、カーターとキッドのバックコートコンビは大いに注目を集めた一方で、カーターとプレイスタイルで被るリチャード・ジェファーソンとの共存については疑問視されていた。しかしジェファーソンはカーター移籍直後に故障。このシーズンで3人揃ってコートに立つことはなく問題は先送りになったが、新天地で心機一転したカーターは移籍後の平均得点ではリーグ2位に値する27.6を記録。(シーズン通算は24.3)故障者が多かったチームを滑り込みでプレーオフに導いた。翌2005-2006シーズンにはようやく主力3名が揃って開幕を迎え、カーターは得点面で活躍。ジェファーソンとの共存も問題なくクリアし、かつての豪快なダンクも復活した。チームはデビジョンを制し、プレーオフに進出したが、カンファレンスセミファイナルでマイアミ・ヒートに敗れた。2006-2007シーズンは主力選手であるネナド・クリスティッチとジェファーソンが相次いで故障しチームから離脱するなか、カーターは82試合に出場。キッドと共に低迷するチームを支えた。ネッツは本来キッドを中心とするアップテンポなゲーム展開を得意としていたが、このシーズンからはカーターを中心とするハーフコートオフェンスが目立つように。カーターはオールスター出場を逃すなど、やや物足りないシーズンとなったが、キャリア二回目のトリプルダブルを記録した。2007-2008シーズンは序盤から指と足に故障を抱えた状態でプレーをした事もあり、平均得点は前年よりもダウン。チーム不調の原因にもなった。しかし、故障を抱えた状態での成績としては一定の評価を得る。平均得点20点以上、平均アシスト5以上、平均リバウンド5以上の記録を残したのはカーターの他にコービー・ブライアント、レブロン・ジェームズ、トレイシー・マグレディの4人のみであった。チームはレブロン・ジェームズ獲得を視野に入れた改革に着手。チームの核であったキッド放出もあり、プレイオフ進出を逃す事となった。2008-2009シーズンは昨シーズンの故障も回復し平均得点20.8点、平均アシスト4.7、平均リバウンド5.1とオールラウンドな成績を残し序盤はチームも健闘したものの最終的にはプレイオフ進出を逃す。チーム首脳陣はカーター中心のチームからデビン・ハリスを初めとした低コストの選手で構成し、2010年のFA選手(レブロン)を狙う戦略をさらに進めた。シーズン終了後、カーターは故郷にあるオーランド・マジックに移籍した。2010年12月18日に、3球団(オーランド・マジックのほか、フェニックス・サンズ、ワシントン・ウィザーズ)が絡むトレードにより、ミカエル・ピートラス、マルチン・ゴルタット(+2011年ドラフト1巡目指名権、現金)とともに、ジェイソン・リチャードソン、ヒド・ターコルー、アール・クラークとの3対3のトレードにより、フェニックス・サンズへ移籍。2011年、FAでダラス・マーベリックスに移籍。2014年のプレイオフ、サンアントニオ・スパーズ戦の第3戦目では、劇的なブザービーターを決めた。2014年、FAでダラス・マーベリックスの慰留を受けたが、同カンファレンスのライバルチーム、メンフィス・グリズリーズに移籍した。プロ入り2年目の2000-01シーズン、2000年オールスターゲーム前日のNBAオールスター・スラムダンクコンテストでの優勝で全米を驚愕させたことでスラムダンカーの象徴となった。全5回の試技の内、3回で50点満点を、2回で49点という数字を叩き出した。1回目のダンクは逆回転360ウィンドミル。コート左側をウィークサイド寄りに切り込み、ゴール手前で踏み切ると360°体の向きを回転させて、腕を風車のようにグルリと回してリムに叩き込んだ。通常の場合は右利きであれば、進行方向と腕の振りから、反時計周りに回転するのが普通だが、カーターの場合は時計回りに回転するもので難易度も高く、美しい腕の振りがより強調され、いきなりの満点。2度目はボードの裏から助走無しで1度目のダンクと酷似したものを披露。49点であった。3度目は空中で受けたバウンドパスをそのまま空中で股の下を通しダンクするアリウープ・レッグスルー。こちらも満点で今、現在でも史上最高のスラムダンクとして記憶されている。4度目はダンクした腕をリムに肘まで入れてぶら下る、カーターオリジナルのエルボーダンクでまたも満点。最後の試技はボースハンドレーンアップで49点であった。すぐれた跳躍力だけでなく、オリジナリティ、空中でのボディバランス、芸術性など、ダンクコンテストの審査項目全てで、NBAの中でも歴史的なもので新世紀ダンク王の称号をその手中に収めた。
出典:wikipedia
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