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ホクトベガ

ホクトベガは日本の競走馬。1993年エリザベス女王杯勝ち馬。1996年JRA賞最優秀ダートホース、NARグランプリ特別表彰馬。※馬齢は旧表記を用いる。1990年3月26日、ホクトベガは父・ナグルスキーと母・タケノファルコンの間に生まれ、1992年に中央競馬美浦トレーニングセンターの中野隆良厩舎へ入厩する。当初は加藤和宏が主戦騎手を務め、1993年1月5日の新馬戦(中山競馬場)に出走すると、2番人気で逃げ切り勝ちを収める。次戦となった同年1月16日の「朱竹賞(中山競馬場、4歳500万円以下)」では2着に敗れるが、3戦目の「カトレア賞(東京競馬場、4歳500万円以下)」で2勝目を挙げる。新馬戦から3戦目まではいずれもダート戦である。ホクトベガが初めて芝コースを走ったのは、4戦目で初の重賞挑戦となった「フラワーカップ(GIII)」である。デビューからダートコースしか走ってこなかったにも関わらず2番人気に推され、見事勝利する。その後は牝馬クラシックの桜花賞・優駿牝馬に出走するも、いずれもベガの前に5着、6着に敗れた。同年秋のエリザベス女王杯では、牝馬三冠がかかるベガに対して、ホクトベガはトライアル競走(クイーンステークス、ローズステークス)においてユキノビジン、スターバレリーナに負けており、9番人気の評価であった。ここで調教師の中野はある賭けに出る。「」という中野のレースプランは、4コーナーまでは中段からやや後ろの馬群の内側で足を溜めて我慢し、内側が空いた瞬間に一気にラストスパートを掛ける。これはかつて中野が管理していたグリーングラスが同じ京都競馬場で行われた菊花賞を優勝した際の作戦をほぼそのまま踏襲したものだったが、これが見事に決まり、ホクトベガは4コーナーで最内から先頭勢を強襲、そのまま伸びてエリザベス女王杯を制した。実況を担当した関西テレビ放送の馬場鉄志が発した「東(美浦)の一等星、北斗のベガ!ベガはベガでもホクトベガ!!」というフレーズは現在でも語り草となっている。また、ホクトベガを生産した酒井公平は、「。晴れてGI馬の仲間入りを果たしたホクトベガは、同年12月18日のターコイズステークス(中山競馬場)に出走して3着に敗れ、同年の出走を終える。1994年(5歳時)は札幌日経オープン(札幌競馬場)、札幌記念(札幌競馬場)と連勝するが、他のレースでは苦戦が続いた。この状態に陣営では、平地GI優勝馬でありながら障害競走への転向も検討され、実際に障害飛越の練習も行われたほどだった。ホクトベガは後にダートコースで圧倒的な強さを見せるが、この時に行われた障害飛越の練習による足腰の強化が活躍に繋がったのではないかと考える者もいたという。さらに、2年前にメジロパーマーが史上初の「障害帰りのGI馬」となったこともあり、程度の差こそあるものの調教において障害飛越の練習を採用する厩舎が急増するきっかけにもなった。現在では、平地競走で調子を落とした馬がリズムを取り戻させるために行う手段の一つとも考えられている。ホクトベガの障害転向は結局、1995年のアメリカジョッキークラブカップ(中山競馬場)でサクラチトセオーの2着に入ったことで立ち消えになったが、ホクトベガにはその後も歯がゆいレースが続いた。転機が訪れたのは、1995年6月13日の川崎競馬場である。同年から中央と地方競馬の交流が盛んに行われるようになったのと、川崎競馬場伝統の牝馬限定重賞「エンプレス杯」が当時としては唯一となる牝馬限定の中央・地方全国交流競走として実施されることとなったため、ホクトベガが出走することとなった。水溜りが出来て田んぼのような不良馬場で行われたレースでは、出走したレースでは一頭だけ別次元のレースを繰り広げ、同年のダイオライト記念優勝馬である南関東最強牝馬・アクアライデン、当時の南関東最強牝馬だったケーエフネプチュンなどを全て子供扱いにする3.6秒(18馬身)差(公式には「大差」)という圧倒的な力を見せつけ、地方競馬関係者に大きな衝撃を与える。あまりの大差勝ちに鞍上の横山典弘は、ゴール手前100mから勝利のガッツポーズをしたほどである。ホクトベガの「砂の女王」としての伝説は、ここに幕を開けた。このエンプレス杯では、川崎競馬の関係者は3度驚いたという。エンプレス杯を圧勝したホクトベガはその後函館記念(函館競馬場)、毎日王冠(東京競馬場)、天皇賞(秋)(東京競馬場)と芝コースへ出走したものの、いずれも大敗している。この状態に陣営では、翌年から本格的にダートコースへの参戦を決め、さらにエンプレス杯の再現を期待して、条件が同じの川崎記念(1996年1月24日)に出走させた。下馬評では「第1回ドバイワールドカップ」に出走予定の日本が誇るダート最強馬「ライブリマウント」の壮行レースと考えられており、他の出走馬も「打倒ライブリマウント」を掲げてトーヨーリファール、アマゾンオペラを筆頭に当時の中央・地方の全国ダート戦線の錚々たる精鋭たちが顔を揃えていた。それでもレースになってみれば、3コーナーで先頭に立ったホクトベガに他馬は太刀打ちできず、2着・ライフアサヒに1秒(5馬身)差をつける圧勝だった。この圧勝劇に、ドバイ遠征のステップレースとして臨んだライブリマウントの陣営はさすがにショックを受け、壮行レースとして考えていた周囲も動揺が広がっていたという。エンプレス杯のような大差勝ちでは無かったものの、エンプレス杯の再現が出来たと考えていた陣営は、ダートの重賞に照準を定める。フェブラリーステークス(東京競馬場)、ダイオライト記念、群馬記念に出走しては次々に勝利を重ね、帝王賞では実況を担当した及川暁が「この実況をお聞きの、大井の、そして地方競馬ファンの皆さん、私は何度でも言いましょう。…ホクトベガ、やはりお前は強かった!」と、その強さに脱帽したと言わんばかりの実況を行った。ホクトベガの勢いは止まることを知らず、次走のエンプレス杯で連覇を達成すると、秋の初戦となったマイルチャンピオンシップ南部杯では場内実況を務めた井上学も「女王様とお呼び!」と実況した程の圧勝劇で、ホクトベガ自身は7連勝を達成した。この活躍ぶりに陣営では、もしダート戦で敗れたら潔く引退させる方向だったが、蓋を開けてみれば3・4コーナーでの一捲りだけで圧勝するため、敗れる要素は何も見つからなかった。3年ぶりの参戦となった同年11月10日のエリザベス女王杯(4着)を挟み、浦和記念でも勝利。2着・キョウトシチーとは3/4馬身差だったが、内容では完勝だった。続いて出走したのは芝レースの有馬記念(9着)だったが、年明け最初のレースとして川崎記念に出走して連覇を達成し、ダート交流競走では10連勝・通算16勝目を挙げ、グレート制導入以降の中競馬所属馬の最多勝利記録を更新した。同日の川崎競馬場には、当時スタンド改築工事中だったことで実質3万人程度の収容能力だったが、約5万9000人が来場した。このように、ホクトベガが出走する日の競馬場では入場者数もレコードを記録し、さらに勝ち続けたことでファンの期待も裏切らなかった。特に帝王賞当日の大井競馬場では許容入場者数をはるかに上回る7万7818人に達し、これは昼夜合わせての最高記録で、2016年現在でも破られていない。ダートグレード制の導入以前で、数字上では重賞4勝・GI競走1勝とされているが、競走実績や人気を鑑みれば、ホクトベガは1990年代におけるスターホースの一頭である。ホクトベガは、1997年に実施された「第2回ドバイワールドカップ」に招待されて出走する。このレースがホクトベガの引退レースとなり、レース終了後はそのまま渡欧させてヨーロッパの一流種牡馬との交配が計画されていた。しかし、当初の開催予定日(3月29日)はドバイでは数十年に一度という猛烈なスコールとなり、レースは4月3日に順延となった。レース本番を迎えたホクトベガは、最終コーナーで「馬場の僅かな窪みに左前脚を取られて(主催者発表より)」転倒し、さらに後続のビジューダンド(Bijou d'Inde)が巻き込まれる形で追突。ホクトベガは左前腕節部複雑骨折となり、予後不良と診断されて間もなく安楽死処置を受けた。これによって繁殖牝馬としてのデビューも白紙に戻され、鞍上の横山典弘は、のちに自らの強引な騎乗がアクシデントを引き起こしたと悔いた。だが、この原因がいずれにあるかは別にしても、かなり不運な要素が重なった事故だったとも言われている。それでも日本国内ではしばらくの間、競馬趣味雑誌や競馬予想紙、競馬予想関係のコラムなどにおいてレース映像程度の資料を根拠として、横山に対する批判記事を書き連ねる光景が繰り広げられた。一時期、横山がJRAの機関紙「優駿」以外の競馬雑誌への登場をほとんど行わなくなったのも、。安楽死処分となったホクトベガの遺体は、輸送(検疫)の関係上、日本に帰ることができず、故郷の酒井牧場に建立された墓にはホクトベガの鬣が遺髪として納められた。ダートコースで圧倒的強さを誇ったホクトベガの功績を称え、かつて18馬身差という圧勝劇を見せた川崎競馬場では、1998年から現在までスパーキングレディーカップに「ホクトベガメモリアル」の冠を付けている。このスパーキングレディーカップも、かつてホクトベガが活躍した牝馬限定の中央・地方競馬交流重賞である。また、最期の地となったドバイにおいても、ホクトベガの名を冠した競走が施行された。ホクトベガを管理した中野は、ホクトベガの強さについて「彼女はモナ・リザ、その強さは永遠の秘密です」と語っている。生涯獲得賞金は8億8812万6000円。これは2009年にウオッカが更新するまでの牝馬獲得賞金最高記録であった。※1 南関東競馬主催の重賞競走の格付けは、全て南関東グレードである。※2 タイム欄のはレコード勝ちを示す。ホクトベガは牝馬ながら500キログラム近い雄大な馬体の持ち主であった。また、逞しく力強いが同時に牝馬らしい丸さに欠けるという見方も多かった。事実、その馬体は牡馬が周回するパドックに入った所で何ら見劣りするものではなく、むしろ他の牡馬たちを凌駕さえする見栄えの良さであった。蹄と球節は、カナダ産馬である父ナグルスキーの特徴をそのまま受け継いだ様に全体的に深い形をしていた。特に蹄は他の馬より倍近く深く、丁度お碗を逆さにした様な形で、藤井厩務員曰く「他の馬と違って、産まれ付きスパイクを穿いている感じだった」と語っている。調教師の中野はホクトベガの馬体を見て「牝馬には繁殖に向いた馬と競走に向いた馬があるが、ホクトベガの馬体は明らかに競走型である」として、ベガやユキノビジンなど同世代のクラシック路線を競った牝馬たちが次々に引退し、繁殖生活に入るのを横目に競走生活を続行させ、果たして5、6歳になってからダート路線で大活躍した。同じ中野厩舎所属の1世代後輩ヒシアマゾン(ともに誕生日も同じ3月26日生まれ)と合わせて語られることも多く、「ホクトベガとヒシアマゾン、2頭がレースしたらどちらが勝ったと思いますか」という質問に対して中野、藤井は異口同音にこう語っている。「芝でレースをしたら、(ホクト)ベガはアマゾンに100回挑戦しても勝てないでしょう。でもダートですとアマゾンが100回挑戦しても(ホクト)ベガには勝てなかったでしょう」。実際にこの2頭は1996年のエリザベス女王杯と有馬記念(どちらも芝のレース)で対戦しており、ヒシアマゾンが2度とも先に入線している。ただしエリザベス女王杯においてヒシアマゾンは2位入線から降着となっており、確定後の着順としてはホクトベガが上位となる。

出典:wikipedia

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