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宮本武蔵

宮本 武蔵(みやもと むさし、天正12年(1584年)? - 正保2年5月19日(1645年6月13日))は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。また、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。本姓は藤原、名字は宮本、または新免、通称は武蔵、諱は玄信(はるのぶ)である。幼名は辨助(べんのすけ)、号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。武蔵の自筆とされる有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状には「宮本武蔵玄信」と記し、長岡佐渡守宛書状には「二天」の号も書いている。熊本市弓削の墓碑は「新免武蔵居士」、養子伊織が武蔵の死後9年目に建てた『新免武蔵玄信二天居士碑』 には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とある。武蔵死後71年目の『本朝武芸小伝』(1716年)で「政名」なる名が紹介された。これを引用した系図や伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説や紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料にこの「政名」は用いられていない。逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられている。京都の兵法家吉岡一門との戦いや巌流島 での試合が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。著書である『五輪書』は日本以外にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。著書『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる。著書『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や「泊神社棟札」等の記載による播磨生誕説と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国宮本村で生まれたという記載による美作生誕説もあり、美作生誕説は、吉川英治の小説『宮本武蔵』などに採用されたため広く知られ、岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図(弘化3年(1846年)以前に養子伊織の子孫作成)並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)壬午の生まれ、正保2年(1645年)享年64と記されている。武蔵の養子伊織が父の死後9年目の承応3年(1654年)に記した『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)によると、武蔵の実父は別所家の家臣、田原家貞としている。江戸中期の『当理流免許』によると、同時代に活躍した当理流の宮本無二助藤原一真と同一人物とされる。武蔵の養子伊織による『泊神社棟札』にある記述 から、天正年間に秋月城で亡くなった新免某を無二とすれば、武蔵は無二の養子となるが、新免無二は明らかに天正年間以後も生存している。また、江戸後期にまとめられた小倉宮本家系図に、新免無二之助の養子となる旨の記述がある。美作国の名家であった新免姓は無二の代から用いていたと伝えられる。『小倉宮本系図』には伊織の祖父田原家貞の次男とされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や小倉碑文にはそのことは記されていない。また、武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない(『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説があるが武蔵の誕生(天正8年(1580年))以前に死んでいる。また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている)。『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書 が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い(如水の息子の長政に従い関ヶ原の本戦場で黒田勢の一員として戦っていたとする説もある)。『五輪書』には21歳の頃に、京都で天下の兵法者 と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述 がある。天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。この内容は吉川英治「宮本武蔵」をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領 の舟島 で、岩流なる兵法者 と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重 付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。その後、姫路城主・本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石 で試合を行ったことが伝えられている。元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路城主・本多忠刻に出仕させる。寛永元年(1624年)尾張藩に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。寛永3年(1626年)播磨の地侍田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主・小笠原忠真に出仕させる。寛永期、吉原遊廓 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、島原の乱出陣の際の物語 が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門・山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津城主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡城主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。寛永17年(1640年)熊本城主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水 の直話として、こぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。 この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。『五輪書』には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。「天下の兵法者」は、『新免武蔵玄信二天居士碑』(以降、『小倉碑文』)に記された「扶桑第一之兵術吉岡」すなわち吉岡家と考えられる。武蔵の養子伊織が承応3年(1654年)に記した『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通り。宮本伊織が残した『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。また、兵仗弓箭 で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作の可能性がある。福住道祐 が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』に武蔵と吉岡の対決の異説が記されている。この文書には吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重という二人の吉岡側の人物と、松平忠直の家臣で無敵流を号し二刀の名手北陸奥羽で有名であるとの肩書きの宮本武蔵が登場する。洛外下松のくだりは記されていない。また試合内容が碑文と全く異なるため、直綱が清十郎で直重が伝七郎であると単純に対応づけすることはできない。要約すると以下の通り。「源左衛門直綱との試合の結果、武蔵が額から大出血し、直綱勝利と引分けの2つの意見が出た。直綱は再試合を望んだが武蔵はこれを拒否し、又市直重戦を希望した。しかし直重戦では武蔵が逃亡し直重の不戦勝となった。」これは宮本武蔵と吉岡家が試合をし引き分けたという内容の最初の史料である。ただし、『吉岡伝』は朝山三徳・鹿島林斎という原史料不明の武芸者と同列に宮本武蔵が語られ、前述のようにその肩書きは二刀を使うことを除き現実から乖離しており、創作の可能性がある。この史料は昭和になり司馬遼太郎が小説『真説宮本武蔵』の題材にしたことから、武蔵側の記録に対する吉岡側の記録として紹介される機会が多い。巷間に武蔵吉岡戦を引き分けとする逸話が伝承されている。日夏繁高が享保元年(1716年)に著した『本朝武芸小伝』には、巷間に伝わる武芸者の逸話が収録されているが、ここに武蔵と吉岡が引き分けた二つの話が記されている。柏崎永以が1740年代に編纂した『古老茶話』も巷間の伝承を記録したものであるが、宮本武蔵と吉岡兼房の対戦が記されており、結果はやはり引き分けと記されている。黒田藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』にも、吉岡家との伝承が記されている。これを要約すると以下の通り。この文書には『小倉碑文』の全文が転記されており、碑文の内容を基に伝承を追記し、内容を発展させたものであると考えられる。細川家筆頭家老・松井氏の家臣で二天一流師範、豊田正脩が宝暦5年(1755年)に完成させた『武公伝』には、正脩の父・豊田正剛が集めた武蔵の弟子達が語った生前の武蔵に関する伝聞が記載されている。これには、道家角左衛門が生前の武蔵から度々聞いた話として、洛外下松での詳しい戦いの模様が記されている。これによると、この説話は、武蔵が度々語ったものとして当時の細川藩の二天一流の門弟間に伝えられていた伝聞を記録したものである。また『武公伝』に角左衛門の説話として、御謡初の夜の席での雑談で、志水伯耆から武蔵が先に清十郎から打たれたという話があるが本当か、と武蔵が訊ねられ武蔵が否定する話が記述されている。『武公伝』の話に従えば、晩年の武蔵は弟子等に盛んに吉岡に勝利したことを語っていたが、武蔵の生前に巷間に「吉岡が勝利した」という異説があったと考えることができる。『武公伝』の内容は正脩の子・豊田景英によって『二天記』に再編集され、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』通称『顕彰会本』で『二天記』が原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』(1935年-1939年)で『顕彰会本』の内容を用いたことから現代にも広く知られるようになった。『小倉碑文』や『兵法大祖武州玄信公伝来』『武公伝』には武蔵との戦いで吉岡家が絶えたとあるが、吉岡家がその後も存続したことは『駿河故事録』等、いくつかの史料からも推測できる。それらの史料によると、慶長19年(1614年)に禁裏での一般にも開放された猿楽興行で、吉岡清次郎重賢(建法)なる者が警護の者と諍いをおこし切り殺されるという事件がおこり、これにより兵術吉岡家は滅んだとあり、武蔵戦以降も吉岡家は存続している。前述の『本朝武芸小伝』にも猿楽興行の異説があり、事件を起こしたのは吉岡又三郎兼房であり、所司代板倉勝重が吉岡一族を不問にしたとある。この説を取るならば武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。『吉岡伝』にも同様の記録があり、吉岡清次郎重堅が事件を起こし、徳川家康の命により兵術指南は禁止されたが吉岡一族の断絶は免れたとある。更に翌年の大坂の役で吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重の兄弟が豊臣側につき大坂城に篭城、落城とともに京都の西洞院へ戻り染物を家業 とする事になったとあり、この説でも武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。各文書の比較を下に示す。武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に当時豊前小倉藩領であった舟島で、岩流 なる兵法者と戦ったとされるものである。試合の行われた時期については諸説あり、定かではない。享保12年(1727年)に丹治峯均によって記された、黒田藩の二天一流に伝わる伝記『丹治峯均筆記』では「辨之助十九歳」と記述しており、ここから計算すると慶長7年(1602年)となる。天明2年(1782年)に丹羽信英によって記された、同じく二天一流に伝わる伝記『兵法先師伝記』では「慶長六年、先師十八歳」と記述しており、慶長6年となる。これら三説では武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。一方、熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、武公伝 では試合は慶長17年(1612年) とされる。同様に熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、二天記 では慶長17年(1612年)4月 とされる。これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。また二天記内に試合前日に記された武蔵の書状とされる文章に4月12日と記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日説となったが、他説に比して信頼性が高いという根拠はない。この試合を記した最も古い史料は、武蔵の養子伊織による承応3年(1654年)の『新免武蔵玄信二天居士碑』(『小倉碑文』)である。「岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。」『小倉碑文』の次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元(寛永元年(1624年)没)の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』 がある。内容を現代語で要約すると以下の通り。「豊後」がどこであったのかには以下の説が挙げられる。様々な武芸者の逸話を収集した『本朝武芸小伝』(1716年)にも巖流島決闘の伝説が記されており、松平忠栄の家臣中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巖流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。同じ1716年の書『武将感状記』(熊沢淡庵著)では、武蔵は細川忠利に仕え京から小倉へ赴く途中、佐々木岸流から挑戦を受けたので、舟島での試合を約し、武蔵は櫂を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀で、岸流は三尺余りの太刀で戦って武蔵が勝ったとしている。江戸時代の地理学者古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代の1783年に『西遊雑記』という九州の紀行文を記した。ここに当時の下関で聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承が記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。内容を現代語訳すると以下の通りである。岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が岩龍を止めた。「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください。」しかし岩龍はこう言って強引に舟島に渡った。「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。豊田正脩が宝暦5年(1755年)にまとめた『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。これによるとこの話は、武蔵の養子伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの梢人であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで梢人だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされているのである。仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』通称『顕彰会本』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』(1935年-1939年)で『顕彰会本』の内容を用いたことから広く知られるようになった。また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巖流島決闘伝説をベースとした藤川文三郎作の歌舞伎「敵討巖流島」が大阪で上演されて以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巖流に復讐するという筋立てがつけられている。史料を比較すると記述に以下のような差異が認められる。武蔵にゆかりのある土地、武道の場などで語られる事があるが、明確な根拠や史実を記したとされる史料に基づくものではない。武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。『武公伝』(松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記・宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。水墨画については二天の号を用いたものが多い。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。主要な画として、「鵜図」「正面達磨図」「面壁達磨図」「捫腹布袋図」「芦雁図」(以上永青文庫蔵)「芦葉達磨図」「野馬図」(以上松井文庫蔵)「枯木鳴鵙図」(和泉市久保惣記念美術館蔵)「周茂叔図」「遊鴨図」「布袋図」(以上岡山県立美術館蔵)「布袋観闘鶏図」(福岡市美術館蔵)などがある。書としては、「長岡興長宛書状」(八代市立博物館蔵)「有馬直純宛書状」(吉川英治記念館蔵)「独行道」(熊本県立美術館蔵)「戦気」(松井文庫蔵)が真作と認められている。伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒漆塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。二天一流稽古用の大小一組の「木刀」が松井家に残されている。また、武蔵作とされる海鼠透鐔が島田美術館等にいくつか残されているが、武蔵の佩刀伯耆安綱に付けられていたとされる、寺尾家に伝来していた素銅製の「海鼠透鐔」(個人蔵)が熊本県文化財に指定されている。巌流島の戦いなど、武蔵に関わる物語は江戸時代から脚色されて歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材にされ、吉川英治が1930年代に朝日新聞に連載した小説『宮本武蔵』によって最強の青年剣士武蔵のイメージが一般に広く定着した。松井家の二天一流師範である豊田景英が著した武蔵の伝記『二天記』には、大和国・奈良の宝蔵院流槍術の使い手奥蔵院日栄、伊賀国の鎖鎌の使い手宍戸某、江戸の柳生新陰流の大瀬戸隼人と辻風左馬助等との試合を記しているが、『二天記』の原史料である『武公伝』に記載が無く、また、他にそれを裏付ける史料が無いことから史的事実ではないと考えられている。丹治峯均 が著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、身長は六尺 程であったと記されている。また、細川家家老で後に八代城主になった松井寄之の依頼により巌流島の試合で使用した木刀を模したと伝えられる武蔵自作の木刀が現在も残っている。ちなみに熊本県は『宮本武蔵』(1984年 NHK新大型時代劇)の放送を記念し、前記の木刀の複製を販売した。渡辺幸庵 の対話集『渡辺幸庵対話』の宝永6年9月10日の対話によると、「竹村武藏 といふ者あり。自己に劔術を練磨して名人也。但馬にくらへ候てハ、碁にて云ハ井目も武藏強し。」「然るに第一の疵あり。洗足行水を嫌ひて、一生沐浴する事なし。外へはたしにて出、よこれ候へは是を拭せ置也。夫故衣類よこれ申故、其色目を隠す爲に天鵡織兩面の衣服を着、夫故歴々に疎して不近付。」とありここから、宮本武蔵が一生風呂に入らなかったといわれる。ただし『渡辺幸庵対話』の内容には当時の世相に反する記述も多いため、実際に幸庵が語ったものかを疑問視する意見もある。(詳細は「渡辺幸庵」を参照)

出典:wikipedia

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