平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義から逸脱した神秘学的なものに変貌していった。篤胤の学説は水戸学同様幕末の尊皇攘夷の支柱となった。篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していた。西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。彼の学問体系は知識の広範さゆえに複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられる。篤胤の復古神道は平田神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村は小説『夜明け前』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。1776年(安永5年)8月24日に出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の四男として久保田城下の下谷地町(現在の秋田市)に生まれる。故郷を捨て江戸に出奔する20歳のときまでの事跡ははっきりしないが、現存する史料から不幸な幼年期を送ったと見られる。のちに自著で「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」と苦言を述べている。一説によると両親に育てられなかったともいうがはっきりしない。父親からは、頭が悪く落ちこぼれと見なされて、出仕することを許されず、雑用をさせられていたという。20歳になったばかりの1795年(寛政7年)1月8日に出奔し、遺書して国許を去った。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という諺にちなんだという。篤胤はこの郷土出奔の経緯については晩年になっても詳らかに語ってはいない。当時の秋田藩は財政危機にあって、藩士の給料から強制借上げが恒常的に行なわれていた上、継嗣争いでお家騒動なども起きており、非常に不安定な情勢にあった。無一文同然で頼る処とてなく江戸に出た篤胤は、苦学し生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊き、三助などもしている。1800年(寛政12年)25歳の折に勤め先の旅籠で備中松山藩藩士代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり養子となる。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明である。翌年の1801年(享和元年)篤胤26歳の時、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚する。本居宣長については、没後2年経った1803年(享和3年)に初めて知ったようである。没後の門人として加わるために本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。また、のちの伝記によると、1801年(享和元年)に本居宣長のことを知り、その門下に加わろうとするが、同年に宣長は没し、没後の門人としてその名を鈴屋塾に置いたとされる。篤胤が宣長のことをその存命中に知ったとしたのは、平田篤胤の学派を国学の正統として位置付けるための後世の改竄ともいわれる。購入した宣長の著作『直日霊』や『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』及び附録として傳の中に紹介されている服部中庸(箕田水月)の『三大考』の宇宙観には特に魅せられ、後に宣長の後継者となった鈴屋の本居大平に会い師弟となり、中庸に会う。中庸は、古道の本義を伝えるよう篤胤に依頼している。宣長の事を知った1803年(享和3年)に処女作『呵妄書』を著し、以後、膨大な量の著作を次々に発表していく。篤胤の執筆する様子は、何日間も寝ずに不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら、机にむかったまま寝て、十分に寝ると再び起き、また書きつづけるというものだった。篤胤30代前半の著作や先学の伝記及び文献資料などから類推すると、1805年(文化2年)から06年(3年)にかけて当時すでに『鬼神新論』『本教外編』などの論考を著述し幽冥の存在や有神論を肯定している。1806年(文化3年)より私塾・真菅乃屋を開き、門人を取っている。のち1816年(文化13年)に気吹舎に改称する。1812年(文化9年)、37歳のとき、中庸の思想を基盤とし、後に篤胤の唱える平田八家の学の中核に位置するとされる『霊能真柱』を書き上げる。すでにこの頃には平田学の思想の根幹が確立されており、『古道大意』『漢学大意』『医道大意』『俗神道大意』『仏道大意』『歌道大意』などの講本を多く執筆した。『霊能真柱』は篤胤にとって、分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居学派の門人達は、この著作の幽冥観(死後の行方)についての論考が亡き宣長を冒涜しているとして憤慨し激しく非難し、篤胤を山師と罵るなどした。そのため、篤胤は伊勢松坂の鈴屋から疎遠になっていく。しかし、篤胤の論考は出雲神道として取り入れられ、その後の神道のあり方に強く影響を与えた。なお、篤胤は、『霊能真柱』を書き上げた年に愛妻織瀬を亡くしている。妻に対する憐憫の思いはことのほか強く、「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」と神への憤りや遣る瀬無さを歌に托し詠歌している。1811年(文化8年)大いに奮発する事があって師走には駿河国府中の門人柴崎直古の寓居に籠もり、後に平田学の中核的中心教義となる、『古史成文』『古史徴』『古史伝』など古代研究の本を一気に数多書き上げる。1815年(文化12年)、40歳のとき、この年大いに著述を急ぎ草稿数巻成れりとある。翌年の四月には鹿島神宮・香取神宮及び息栖神社に詣で、序に銚子辺りを廻り諸社巡拝して、天之石笛という霊石を得たことにちなんで、家号を伊吹乃屋と改め、大角とも名乗るようになる。1817年(文化14年)(42歳)には、この旅行の顛末をしるした『天石笛之記』が書かれている。文政3年秋の末で、45歳のころ、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となる。この噂の発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから異界・幽冥の世界に傾倒していたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ、文政12年まで足掛け9年間世話をしている。篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版している。少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判されたが、篤胤本人は真剣で、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。『仙境異聞』に続いて『勝五郎再生記聞』『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。49歳から54歳までの数年間、支那や印度の古記文献や、異国に於ける仙人や神の存在について研究する。この時期『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝傳記』『赤縣太古傳』『三神山餘考』『天柱五嶽餘論』他数多の道学的な本を物し道蔵などの経典を読んでいる。1818年(文政元年)には門人山崎篤利の養女と再婚する。妻は織瀬の名前を継いだ。この間、現在の埼玉県越谷市の久伊豆神社境内に仮の庵をむすぶ。同境内には篤胤お手植えの藤があるほか、篤胤を偲ぶ石碑もある。1823年(文政6年)に、著作を朝廷に献上する、若山(現和歌山)の本居大平(鈴屋一門の後継者)・松阪の本居春庭(宣長の子)を訪れる、宣長の墓参をするなどの目的で上京し、関西を周遊している。7月22日に江戸をたった際に「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と詠んだことから、上京にかける意気込みが知られる。8月3日に熱田神宮に参詣し、8月6日に京都に到着した。富小路貞直を通して光格上皇に、また門人六人部節香・是香を通して仁孝天皇に、それぞれ著作を献上した。一方、篤胤の鈴屋訪問の報は鈴屋の門人たちに騒動を巻き起こし、斬新的な著作により既に異端の門人とされていた篤胤をどう迎えるかで意見が分かれた。親・篤胤派の代表であり、篤胤に大きな影響を与えた『三大考』の著者である服部中庸は篤胤を高く評価し、篤胤こそ宣長の後継者に相応しく、どの門人も篤胤には及ばないとまでいった。一方、反・篤胤派の代表としては、京都の城戸千楯や大坂の村田春門が挙げられ、篤胤はさまざまな書物を恣意的に解釈して、強引に理屈をつけていると批判した。篤胤は京都の鈴屋の支店のようなところを訪れ、服部中庸と交流している。京都で篤胤と接触した門人たちは、篤胤に関する批評の手紙を大平に送っている。大平が整理していたそれらの篤胤の批評は、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田鐵胤が論評と補遺を加えて『毀誉相半書』という名で出版している。本居大平は、『三大考』をめぐる論争で篤胤に厳しく批判されていたが、門人の一人として篤胤をもてなすことにした。訪問に先立って篤胤が送った「武蔵野に漏れ落ちてあれど今更に より来し子をも哀とは見よ」という歌に対して、大平は「人のつらかむばかりものいひし人 けふあひみればにくゝしもあらず」と返した。両者の会談は友好的な雰囲気で行われ、篤胤は宣長の霊碑の1つを大平より与えられた。宣長の霊碑は、宣長自身によって3つ用意されていて、1つは実子である春庭のもとに、残る2つは後継者である大平のもとにあった。その大平が持っていた1つを篤胤に託したのである。その後、伊勢神宮を参詣し、ついで松阪を訪れ、11月4日に念願の宣長の墓参を果たすが、その際に墓前に献じた「をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」という歌には、自分こそが正統な後継者であることの確信が表れている。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談するなどして、11月19日に帰宅した。壮年期以後の篤胤は1831年(天保2年)56歳頃から暦日や易学に傾倒。『春秋命暦序考』『三暦由来記』『弘仁暦運記考』『太皞古易傳』他以後古史本辞経(五十音義訣)や神代文字などの言語や文字の起源も研究している。1841年(天保12年)1月1日に江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に故郷の秋田に帰るように命じられ、以後の著述を禁止された。秋田に帰った篤胤は2年後の1843年(天保14年)9月11日に68歳で病没する。この時点での門人は553人であり、1330人が没後の門人となった。辞世の句は「思ふこと一つも神につとめ終えず今日やまかるかあたらこの世を」である。墓所は秋田県秋田市手形字大沢21-1にあり、国の史跡に指定されている。生家は千葉氏の一族で戦国期に佐竹氏に仕えた大和田家胤を祖とする大和田家であり、養子先は平家の武将・平家継の末裔を称する平田家で、どちらも桓武平氏の流れを汲んでいる。子供は、先妻織瀬との間に2男1女いたが、男子は二人とも夭折した。1802年(享和2年)に長男常太郎が生まれ、1805年(文化2年)に長女千枝(千枝子とも)が生まれ、1808年(文化5年)に次男半兵衛(のちに又五郎と改名)が生まれた。常太郎は生まれた翌年に、半兵衛は1816年(文化13年)に没した。1824年(文政7年)1月15日、唯一無事に成長した千枝が、伊予国新谷藩の碧川篤真と結婚した。碧川篤真は碧川好尚の実兄で、平田家の養嗣子となり平田鐵胤を名乗る。千枝はのちにおてう(お長)に改名し、また晩年には母の名である織瀬を受け継いでいる(1888年(明治21年)3月没)。鐵胤は内蔵介のち大角とも名乗り、1868年(明治元年)には神祇官判事に任じられ、明治天皇の侍講となり、ついで大学大博士に進み、のち大教正となった。篤胤の死後は家学を継承し平田学を普及させ、又先代の負債を清算した。著書に『祝詞正訓』がある。1880年(明治13年)10月15日鐵胤没す。享年82。なお、その後の平田家は、延胤、盛胤(婿養子)、宗胤と続くが、宗胤には、子がおらず、1973年11月7日に死去、絶家となる。ただし、宗胤は、死去の前年絶家を認識しながら代々木に平田神社を創立しており、その2代神主、米田勝安が、事実上平田家の名跡を継いでいるといえる。篤胤は、学問をするにはまず自らの死後の魂の行方を最優先で知らなければならないと断言した。そうして心の安定を得て、初めて学問に向き合えるとした。本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉に行くと考えたともされる。黄泉の国は良くない国であり、そのことは逃れのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた。本居宣長の門人で、平田篤胤にも大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶ月のことであり、その世界は須佐之男命(月読命と同神だという)が治めていると考えた。一方、篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった。黄泉の国の存在は認めたが、死者の国ではないとした。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂は、死者の世界に行くが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとした。そして、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだと考えた。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした。これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。篤胤によれば幽界は、大国主命が司る世界だという。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしているが、死者が受けるその懲罰について、篤胤は詳細を述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性の解決・救済にあり、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を説くものではなかったことを示している。この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となり、近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった1881年(明治14年)の祭神論争の出雲派の敗北で、公的には否定されるが、現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。幽冥界の全体の主宰神は大国主であるが、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとした。この発想は六人部是香に受け継がれ、発展させられている。「鬼神新論」「本教外篇」「古今妖魅考」「勝五郎再生記聞」「霧島山幽境真語」「稲生物怪録」「幽顕弁」などの一連の異界探究の論考の中に『仙境異聞』全五巻も含まれている。上の巻は三巻で下の巻が二巻そして此の中に「仙童寅吉物語」「神童憑談畧記」「七生舞の記」についての考察がなされている。当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧を許されないといわれていた。内容を概略すると「此は吾が同門に、石井篤任と云者あり。初名を高山寅吉と云へるが、七歳の時より幽界に伴はれて、十四歳まで七箇年の間信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)に仕はれたるが、この間に親しく見聞せる事どもを、師の自ずから聞き糺して筆記せられたる物なるが、我古道の学問に考徴すべきこと少なからず、然れど此は容易く神の道を知らざる凡学の徒に示すべきものには非らず」と記載されている。以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得する事により、幽冥で寅吉の見えた師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として斎祭った。寅吉が幽界に帰る際には、この師の住まわれると言う信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤自ら認めた手紙と自著「霊能真柱」を添え、又神代文字への質疑文を、寅吉に托し委ねて山神に献上手渡したという。これ等の経緯やその折に山神や寅吉に手向けた歌などを詠じた文や和歌を、仙境異聞の中に記述する。山神の図は現在東京代々木の平田神社宗家に大切に保管され、滋賀県大津の近江神宮では山神祭として定例の日に祭られている。2006年8月22日放送の開運!なんでも鑑定団にて、篤胤のものとされる書簡を鑑定した結果、鐵胤の書簡であることが明らかになった。鐵胤は書簡のなかで、幕末の混沌とした政情の中王政復古が間近に迫っていることに言及している。2015年11月24日の放送でも書簡が鑑定され本物であることが明らかになった。
出典:wikipedia
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