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東洋活性白土

東洋活性白土(とうようかっせいはくど)は、新潟県糸魚川市で活性白土と酸性白土を製造販売していた企業である。本社と工場は同所にあった。1982年(昭和57年)10月に経営上の問題により会社は解散し、工場は閉鎖された。東洋活性白土は製品(活性白土)と重油の輸送に専用鉄道を使用し、蒸気機関車(2号機)が牽引する貨物列車を運行していたが、2号機は日本で最後の実用蒸気機関車である。(本節は『工鉱業関係会社報告書』を参考文献とする)各年度ごとの推移(各年度:10月20日時点)会社解散時点での定年制についは不明であるが、糸魚川市の広報誌『広報いといがわ』(1989年1月10日号)には、1962年(昭和37年)に70歳で退職した元社員の聞書が掲載されている。東洋活性白土が製造販売していた活性白土と酸性白土は石油や潤滑油などの各種油脂類の精製と脱色に使用され、活性白土は重質油の分解やアセチレンなどの重合反応の触媒としても使用される。姫川下流左岸の今井・須沢地区は白土の鉱石が豊富であり、それを利用するため1925年(大正14年)、新潟県今井村(現糸魚川市)中協に水神白土合資会社が設立された。当時は磨き粉や医薬などに使用された。その後、石油類の脱色に使われ始めてから需要が増え、1936年(昭和11年)に横町に移転して東洋活性白土株式会社に改名し、酸性白土、活性白土を生産した。第二次世界大戦期には軍用の石油精製のため、陸軍管理工場、海軍監督工場となり、航空機ガソリンの精製なども行った。戦争により日本の製油所が壊滅したため需要が激減したが、1950年頃から太平洋沿岸で製油所が復興したために需要が回復した。1950年頃に北陸本線からの引込線として運搬用の軽便鉄道が敷設された。一時は従業員は300人にまでなった。1960年代になって公害防止が叫ばれるようになると廃白土が出る活性白土の需要は減少し、1983年(昭和58年)に工場は閉鎖された。ミニSLは糸魚川小学校と成田ゆめ牧場に寄贈された。製品等の輸送方法には東洋活性白土の専用鉄道(軌間610mm)による鉄道輸送と地中に埋設したパイプライン輸送があり、どちらも国鉄糸魚川駅からの引き込み線(軌間1067mm)の積み換えホームと工場間の輸送で、製品(活性白土)と重油は鉄道輸送、硫酸はパイプライン輸送であった。製品輸送のための列車本数は1日約3往復であった。重油の輸送頻度は1ヶ月に3回程度であったが、その日の重油の輸送量が多い場合は1日3往復を超える運転が行われた。鉄道輸送に使用する動力車は蒸気機関車であった。製品の活性白土の主原料となる鉱物は工場付近の山から採掘して、トラックで工場へ輸送し、工場敷地内の指定場所に野積みした。原料の一つである硫酸はパイプライン輸送であった。以前は硫酸専用タンク貨車を使用して専用鉄道で輸送していた。製造した製品(活性白土)は袋詰めして工場敷地内の倉庫に貯蔵し、東洋活性白土の専用鉄道による蒸気機関車牽引の貨物列車で国鉄と接続する積み換えホームまで輸送し、国鉄引き込み線の有蓋貨車へ積み換えて製品の発注元へ輸送した。工場敷地内にはいくつか倉庫があり、袋詰めした製品の倉庫から専用鉄道の無蓋貨車への積み込みは作業員による手渡しで行った。工場敷地内の専用鉄道のカーブには蒸気機関車が曲れないほどの急カーブがあり、その場合は作業員による手押しで無蓋貨車を動かした。積み換えホームでの製品の積み替えにはベルトコンベヤーを使用した。国鉄による製品の輸送は1日1本の列車で行った。工場の炉の燃料用重油の輸送には専用鉄道を使用した。積み換えホームで国鉄により輸送されて来たタンク貨車から専用鉄道のタンク貨車へポンプを使用して積み換えた。専用鉄道のタンク貨車は5トン積みなので、国鉄側に30トン積みタンク貨車が到着した場合は6往復する必要があった。重油輸送の頻度は1ヶ月に3回程度であった。硫酸はパイプライン輸送に切り換えたが、重油は粘度が高いためにパイプライン輸送が簡単には行えないことが鉄道輸送をする理由であった。東洋活性白土の専用鉄道は一般に「東洋活性白土専用線」と呼ばれていた。専用鉄道は工場から国鉄糸魚川駅からの引き込み線の積み換えホームまで敷設されており、その路線長は約700mである。この専用鉄道は1982年に工場が閉鎖されたために、同年10月で廃線となった。同月10日には羅須地人鉄道協会が『お別れ運転会』を行った。◇註

出典:wikipedia

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