明石家 さんま(あかしや さんま、1955年7月1日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー、元落語家、テレビ番組企画・構成作家(本名名義)。本名は杉本 高文(すぎもと たかふみ)。1970年代後半から活躍を続けている国民的お笑いスターの1人。タモリ(森田一義)、ビートたけし(北野武)と共に、日本のお笑い芸人BIG3の1人として称される。和歌山県東牟婁郡古座町(現・東牟婁郡串本町)生まれ、奈良県奈良市育ち。 吉本興業所属。奈良県立奈良商業高等学校卒業。元々は落語家を志して2代目笑福亭松之助の弟子となり、初代笑福亭さんま。となったが、師匠の推薦でお笑いタレントに転向後、明石家さんまとなり、現在も芸能界の第一線で活躍を続けている。出身小学校である奈良市立鼓阪小学校には、小学生当時捕まえたムササビが展示されている。また当時「ムササビを捕まえた少年」として話題になった。奈良県中学生相撲大会で2位になったことがある。1974年2月、高校3年の時に2代目笑福亭松之助に弟子入り。下積み時代は兵庫県西宮市今津久寿川町「第一久寿川荘」に在住。当初の芸名は前述の通り「笑福亭さんま」。入門の動機は、花月劇場で見た松之助の新作落語が面白かったからだという。初めて顔を合わせた際、松之助に入門の理由を問われたさんまは「センスがよろしいから」と、杉本青年としては素直な気持ちを伝えただけだったが、非常に失礼な発言に対し松之助は「そら、おおきに」と礼を言った。入門生活は、丸刈りにされること以外はあまり厳しくなく、放任主義だったという。入門して半年もしないうちに初舞台、場所は京都花月。古典落語で演目は「西の旅」(別名・播州めぐり) で10日間ほど出演した、本人は「初舞台では緊張で頭が真っ白になって、ネタをやり直した」とのこと15分ぐらいのところで頭が真っ白になり始めからやり直した、そしたら所要時間が45分にもなった、サゲではこの後二人は横山エンタツ・花菱アチャコとなり漫才を始めましたと言ってサゲた。当時若手タレントのマネジャー的存在だった佐敷愼次は、さんまに「ミラーボール」というあだ名をつけ、その才能に注目。松之助に「さんまを落語ではなくタレントとして立たせたい」と直訴した。1976年1月、『11PM』(日本テレビ系)でテレビデビューを果たす。「落語家の成人式」というテーマだったが、さんまは師匠・松之助の忠告により営業用の赤いブレザーを着用。また番組内で、女性漫才コンビ「海原千里・万里」の海原千里(現:上沼恵美子)から、「SEXの四十八手以外に知っている技がある人は?」という質問に対し、「逆さ十文字落としでぇーす」と答えて技を説明した。スタジオは爆笑だったが司会の藤本義一から「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言うてええことと悪いことがあんねや。それぐらい覚えて出て来い!」とCM中に叱責される。しかし、横山やすしには「気に入った!飲みに行こ!」と気に入られ、その後やすしと共に朝まで飲みやすしの家に招待されて朝の5時に船のモーター音のテストをさせられたという。また、この放送を見ていた松之助は、この件を大いに絶賛している。1976年に毎日放送(MBSテレビ)の人気番組『ヤングおー!おー!』に出演。形態模写の芸が司会の桂三枝(現・六代桂文枝)の目に留まり、レギュラー出演を果たす。「チャッピー」と名付けられ、三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわす。番組内ユニット「ザ・パンダ」(先代林家小染・月亭八方・桂きん枝・桂文珍)を改編してさんまをメインにした「さんまアンド大阪スペシャル」(SOS)を立ち上げ、諸先輩を差し置いて1コーナーを任されるまでになる(当時のキャッチフレーズ「おれは大阪のさんまや!」)。その後、プロ野球阪神タイガースの小林繁投手の投球フォームを形態模写して評判になり、関西を中心にアイドル的な人気を勝ち取る。そして、1980年より、10年余りにわたる同番組司会を卒業することとなった三枝からの指名によって後継司会者の座に付き、番組終了時まで2年9か月にわたり晩期の同番組の大黒柱として活躍した。1979年、関西テレビで午後7時から放送された番組『誰がカバやねんロックンロールショー』で初の司会役に抜擢。フジテレビ系の『裸の大将放浪記』で、和菓子屋ぎおん堂の番頭としてゲスト出演。1985年、第1回東京国際映画祭において、タモリとともに司会を務める。後日、その司会ぶりが「ふざけた司会者」「ソフィー・マルソーに知っとるケと言う始末」と新聞紙面上で非難される。当時のレギュラーだった金曜日・笑っていいとも!でトークのネタにする。タモリといっしょに「始末か!オレたちは!」と叫び、挙手をしながら「私がやりました!」と言った。1985年8月12日、大阪でMBSラジオ『ヤングタウン』レギュラー出演のため伊丹行きの日航機に搭乗予定だったが、直前の仕事である「ひょうきん族」の収録が早めに終わり、一便早い全日空の便に振り替えたため、日本航空123便墜落事故を逃れた。この当時1年3ヶ月「同棲」関係のあった「東京の愛人」とのツーショット写真が掲載されるも明るく陽気に笑い飛ばし、大きなスキャンダルになることもなかった。1987年、ナムコ(現在のバンダイナムコエンターテインメント)がファミリーコンピュータ用ソフト『さんまの名探偵』を発売する、しかし所属事務所が水面下で本人の許可を取らずにメーカーに制作・発売を許可した為、事実を知ったのは発売後であった。(さんまの名探偵の項目を参照)同年の7月18日~7月19日にかけて生放送された『第1回FNS27時間テレビ・FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』の総合司会をタモリと共に担当。1989年にも『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島'89』を総合司会にタモリと共に挑むも、2008年の『FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』まで総合司会には再登板しなかった。しかし、FNS27時間テレビ自体には唯一、皆勤出演している。1990年代前半には『オレたちひょうきん族』が放送終了し、またダウンタウンやウッチャンナンチャンなどの人気が急上昇、5年連続して1位だったNHKの『好きなタレント調査』でトップ陥落するなど一時的に人気に陰りが見えたこともあったが、1995年には6年ぶりに1位を記録、1998年以降は再び5年連続して1位になるなど返り咲いている。1995年、MBSヤングタウン土曜日1月14日放送分のエンディングにて、放送区域である関西地区の聴取者に向けて、地震の際の心構えと対処の方法を講義した。これは当時さんまが関東で頻繁に地震に遭遇していたことを受けてのものだったが、この3日後には阪神・淡路大震災が発生しており、先んじて注意を促す結果となった。1995年の夏、前年にバイク事故で怪我をしたビートたけしを助ける為に『第9回FNS27時間テレビ・FNSの日 1億2500万人の超夢列島 そのうちなんとか…23時間』に出演。ほぼ、たけしと共に総合司会の役割を果たしたが、本人はこれを総合司会を務めたとしていない。1995年9月29日、11年半レギュラーだったフジテレビ『笑っていいとも!』を卒業。1993年、1994年の同番組の年末特番である『笑っていいとも!特大号』に出演していなかったため、当時から週刊誌ではスタッフとの確執説が囁かれた。1996年、フジテレビの人気刑事ドラマ『古畑任三郎』シーズン2の初回スペシャルに犯人役でゲスト出演。古畑の部下である今泉巡査の知り合いでやり手の弁護士・小清水潔を演じる。当初は売れないロックシンガー役の予定だったが、プロットを聞いたさんまは脚本家の三谷幸喜に対して軽い気持ちで「弁護士と古畑が闘うってのはおもしろいんじゃない?」と提案。すると自らも法廷モノが好きな三谷は快諾し脚本を書くが、あまりにもセリフが多くなりそれを覚えられないさんまに対し、主演の田村正和が撮影中に「今度間違えたら自分が帰りますよ」と言ったという。しかし、その直後に田村自身が「古畑任三郎」の中では初めてとなるNGを出してしまい、さんまが「あんた、これ貸しな。これでおあいこや」と田村に発言した。スタッフ一同は凍りついたが無事に撮影は終了、さんまは今泉役の西村雅彦に別室に呼び出され、「さんまちゃん。あれはダメなの」と叱られたという。同年の7月に放送された『FNS27時間テレビ・FNSの日 十周年記念 1億2500万人の超夢リンピック』において実行副委員長として出演。ビートたけし、笑福亭鶴瓶、所ジョージ、田代まさし、そして番組パーソナリティーであったSMAPと共にFNS27時間テレビ最長の29時間30分の長丁場を乗り切った。事務所は吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)所属。節税と自身のマネージメントを目的とした個人事務所「オフィス事務所」も設けており、仕事やギャランティー管理はこちらで行っている。オフィス事務所には、ラサール石井や村上ショージ、松尾伴内らも所属している(さんまと同じく、皆それぞれに所属事務所は他に存在する)。吉本とは所属はしても契約はしていない。師匠は落語家の2代目笑福亭松之助。なお明石家の「明石」とは、松之助の本名から貰い受けている(後述)。松鶴一門である笑福亭仁鶴・笑福亭鶴光・笑福亭鶴瓶などは従兄弟弟子にあたる。若手の頃、兄弟子の五所の家小禄と漫才、コントのコンビを組んだり、花月の舞台ではB&B(島田洋七・洋八)、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんち(ぼんちおさむ・里見まさと)らと、「ビールス7」というコントユニットを組んでいた時期もあった。「アトムスリム」と言う漫才コンビを組んでいた時期もある。1980年代頃からは司会業が中心(トークのテンポを崩されると、すかさずツッコミやボケを入れ、それすら笑いに変える)。張り芸(声を張って笑いをとる芸)を得意としている。さんまのトークについて付き合いの長い島田紳助・中居正広・桑田佳祐・マツコ・デラックス・元妻の大竹しのぶ・娘のIMALUからは「話を盛る」「話していることの九割は嘘」「どうしてそんなに嘘がつけるの?」などと辛辣な発言をされることがある。デビュー当初は菅原文太、桜田淳子のものまねや、当時人気だったプロ野球・阪神タイガースの小林繁の形態模写や漫談が主であった。そうした経緯もあってか名前が売れるようになってからはこの2人の物真似を人前ですることはほとんどない。ピンで演じることもあったが、兄弟子の明石家小禄(後に五所の家小禄と改名)とのコンビで、コントスタイルで演じることもあった。ただし、最初は巨人の小林として形態模写をしており、江川卓とのトレードで阪神へ移籍した際にこの芸を封印したが、トレード直後の阪神での小林の活躍に伴い、関西地区で小林の形態模写を熱望されるようになり、渋々再開したところ、小林と相乗効果で人気を集めるようになった。笑福亭松之助に弟子入りした当初の芸名は「笑福亭さんま」であった。「さんま」という芸名は、さんまの実家が水産加工業を営んでいたことから命名された。19歳の時に師匠・松之助の助言により亭号を改め、「明石家さんま」を名乗る。「明石家」は松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもので、当時は松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていた(「明石屋さんま」は誤字)。松之助はのちに、長男に明石家のんき、次男にパーポ明石と芸名を付けている。松之助は、弟子の家業から名前を考案することが多く、さんまの兄弟弟子には、自転車店出身の明石家サドル、下着店出身の明石家パンツ、美容室出身の明石家パーマなどがいたという。命名時のエピソードとして、同期の島田紳助が師匠の島田洋之介・今喜多代(現:今日喜多代)に芸名を決められた時、さんまは「その名前やったら絶対売れへん」とからかい、紳助は落ち込んだが、そのすぐ後に「さんま」という芸名を貰った話を聞いて「こいつ(芸能人として)終わったな」と逆に大笑いされたというものがある。愛称は「さんちゃん」(所ジョージ、高見沢俊彦など同年代の親しい人物が使用)。紳助は愛称だけでなく「杉本」と本名で呼ぶことがあった。BIG3であるタモリ、ビートたけしからは「さんま」「さんちゃん」「さんまちゃん」「明石家さんま師匠」「出っ歯」「お前」「あんた」と呼ばれる。たけしは「明石家」と呼ぶこともある。またタモリは第三者とさんまのことについて話す際は、「あの男」と表現する。さんまは年上のタモリとたけしを基本的にはさん付けで呼ぶが、突っ込む時には、たけしを「ビート」、「たけ」、「たけし」、「おっさん」と呼び捨て、タモリを「タモリ」、「タモさん」、「森田」と呼び捨てにしたり、芸能界の1年後輩でもあることから「あんた」「お前」と呼ぶ場合もある。また、村上ショージやジミー大西など付き合いの古い後輩芸人からは親しみを込めて「若」と呼ばれている。多くの後輩芸人からは、衰えを知らない活躍ぶりに尊敬をこめて「お笑い怪獣」とも呼ばれ、恐れられている。笑福亭松之助(さんまの師匠)と6代目笑福亭松鶴(鶴瓶の師匠)の師匠(5代目笑福亭松鶴)が同じ縁で、笑福亭鶴瓶を「兄さん」と呼んでいる。弟子時代から鶴瓶と面識があり、大判焼きを半分おごってくれたこともある。「出っ歯」の代表的人物としても有名(自身では、関西らしく「出歯(デバ)」と発音する)。冠番組のロゴマークやマスコットで、この出っ歯があしらわれることも多い(「からくりTV」「お笑い向上委員会」など)。「ファーーッ!」という甲高い引き笑い(息を吸い込みながら笑うこと)も特徴的。デビュー当時から、60歳を超えた現在に至るまで痩躯である。ヘビースモーカーである反面、小食かつ下戸であるためも、いわゆる「中年太り」にもなっていない。スポーツ観戦も趣味としており、仕事で家を空ける時以外は、例え深夜であろうとBSやCSのスポーツ中継をリアルタイムで観戦している。サッカーのヨーロッパの各リーグおよびUEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグ・野球のMLB・アメリカンフットボールのNFL・バスケットボールのNBA・アイスホッケーのNHL・テニスの四大大会・ゴルフのメジャートーナメントなどジャンルは幅広い。オリンピックやサッカーFIFAワールドカップが開催される際にはテレビ中継は当然のこと、キャスターを務め現地で観戦することも多く、トヨタカップでは、中継のゲストとして毎年、現地で観戦しており、発展解消後の、FIFAクラブワールドカップでも、全試合ではないが、日本国内での試合は現地観戦、日本国外での試合は、スタジオで観戦している。かつて「スティング」という草野球チームを作っていた。解散していたが2014年10月19日放送の「明石家電視台」で復活した。またこのチーム名の元ネタは、さんまが大ファンのポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのコンビが主演のジョージ・ロイ・ヒル監督「スティング」から取られた。 プロ野球では、読売ジャイアンツのファンである。奈良商業高校ではサッカー部に所属しスター選手だと称していた。サッカーを始めたきっかけはマンチェスター・ユナイテッドだと述べている。芸能人として人気が出た1980年代には日本サッカーリーグのキャンペーンポスターのモデルに選ばれたほか、ビートたけしや望月三起也と共に芸能人サッカーチーム「ザ・ミイラ」の発起人となる。2002 FIFAワールドカップが開催される前にはフジテレビで『さんまの天国と地獄』というサッカー番組のメインパーソナリティを務めた。ワールドカップやクラブワールドカップなどの関連番組ではサッカー通タレントの筆頭格としてキャスターやコメンテーターを務めることも多く監督や選手に下世話なツッコミを入れて番組を盛り上げようとすることに定評がある。2011年12月18日に日本で開催されたサッカーのクラブ世界一を決めるFIFAクラブワールドカップ2011決勝では優勝しMVPに選ばれたFCバルセロナ(スペイン)のリオネル・メッシを特設スタジオに呼び出してインタビューを行い「サッカーの質問はみんな聞いてるやろうから、老後はどうしはるんですか」という質問をした。メッシは「引退はまだ先のことだから分からないよ」と冷静に回答したが特設スタジオに残らず早々に立ち去りチームメイトの輪に戻ってしまったため、インターネットでは「サッカーにくだらないお笑いは必要ない」「真剣に戦う選手に失礼」などの批判が殺到した。この模様は動画投稿サイトにアップされたほか、スペインやメッシの母国アルゼンチンのメディアでも報じられ、「バルサの10番は日本テレビの奇妙なインタビューの犠牲者になった」「シビアなインタビューに驚きをかくせない」「これまで経験したことのない奇妙なインタビュー」と述べた。さらにイギリスのサッカー専門メディアは「日本のコメディアン明石家さんまによるバルセロナのスターへの悲惨なインタビューはこの国のサッカー放送の下劣さを示した」と報じた。スウェーデンでは「独占インタビューに失敗」と報じた。こうした世界中のメディアからの批判について、さんまは2011年12月24日放送のMBSラジオ『ヤングタウン土曜日』の中で話題にし「メッシは出演の予定がないのに、日テレが無理に騙し討ちのような感じで連れてきた」とテレビ局の対応により、メッシ選手が終始不機嫌だったことを明かし「もう2度とメッシには会えない」と複雑な胸中を語った。メッシは2011年12月31日付のスポルト紙のインタビューで老後について「家族や友人のいるロサリオで生活するだろう」と語っている。またアルゼンチンのジャーナリスト、レオナルド・ファチオはメッシの評伝の結びに「無性にメッシの引退後を心配するときがある」と書いたうえで、さんまの質問とそれに対するメッシの返答に言及している。サッカーを始めたきっかけはマンチェスター・ユナイテッドだと述べている。2012年にマンチェスター・ユナイテッドに加入した香川真司に関して、「私は、本当は入団してほしくないんですよ。日本人の方にはね」と発言をしたため、インターネットでは再び批判が殺到した。2003年・2004年のJRAのイメージキャラクターを務めた。時々番組内で競馬について語り、フジテレビの競馬番組『うまッチ!』内に「さんま馬主プロジェクト」なる企画が登場。手始めに「マイネル」の冠号で知られるラフィアン・ターフマンクラブの岡田繁幸が、妻の岡田美佐子名義で所有する競走馬に名前を付けて欲しいとの依頼を受け、「シャチョマンユウキ」と命名。喜劇映画の名作『社長漫遊記』にちなんでいるが、JRAの規定により9文字以下でなければならないため「ウ」が抜けた。2004年の日本ダービーに岡田美佐子が所有するコスモバルクで勝負し惨敗。コスモバルクの枠が5枠(黄色)だったため、黄色のスーツに黄色のネクタイを着用。表彰式では勝利したキングカメハメハの手綱を取った安藤勝己に対して、トロフィー授与のプレゼンターを務めた。その際、馬券が外れた腹いせか片手でトロフィーを渡そうとしたり、レッドカーペットの上で土下座をしたりした。同郷の杉本清とも親交があり、桜花賞、天皇賞(春・秋)、日本ダービー、宝塚記念、菊花賞、エリザベス女王杯、ジャパンカップ、有馬記念の前日には『サタうま!』で予想トークをする。また年末に『夢競馬』として1年間のGI振り返りトークする番組がある(両番組いずれも関西テレビ制作である)。初めて競馬予想を始めた時期は、1984年春で『明石家さんまのラジオが来たゾ!東京めぐりブンブン大放送』(ニッポン放送)の中で競馬予想のコーナーが設けられ、素人なりの予想を始めている。クラシック路線ではスズマッハ(日本ダービーで人気薄も2着)を、古馬中距離路線ではダスゲニーを追いかけている。基本的には、ウケるために穴予想であった。以後、このラジオ番組で翌日日曜日の大レース(シーズンなら毎週日曜日の関東重賞)の予想を展開していくことになる。1985年日本ダービーの日、東京競馬場で日曜競馬ニッポン(ニッポン放送)に生出演するも、本命グリーンカップ(8番人気の穴馬)は最後方から多少追い込んだだけ(8着)で惨敗。グリーングラスの仔であるからという、とても真面目な予想であった。1986年に入ると予想熱は増していき、毎週末に翌日の重賞の予想を展開していく。2月末の目黒記念では「さんまは目黒に限る」の言葉通り、代用ながらも的中させる(1着馬ビンゴチムールと同じ7枠に応援するスズマッハが同居していた)。オークス(優駿牝馬)では、人気薄ユウミロク(2着)を本命に予想している。そして、日本ダービーでは、日曜競馬ニッポン→フジTV競馬中継→日曜競馬ニッポン、と東京競馬場内で堂々とハシゴし、穴馬グランパスドリーム(2着)を本命とする予想を展開するも、勝ち馬(ダイナガリバー=2番人気)を無視して馬券は敗退。また、その直前のNHK杯では、前年にNHK連続テレビ小説『澪つくし』に出演した関係もあり、「NHKのディレクターは歪んでいる」と発言し、4番人気ラグビーボールを本命として的中している。同期の島田紳助とは、若手時代には営業に一緒に出演する機会が多く、私生活でもお互いの家に出入りする仲である。紳助がスキャンダルで芸能界を引退した後も、番組内でしばしば紳助とのエピソードについて言及することがある。吉本の同期で唯一の落語家桂小枝と非常に仲が良い。他にもガダルカナル・タカ、桂雀々、笑福亭笑瓶、松尾伴内、中村勘三郎(2012年死去)、児嶋一哉(アンジャッシュ)らと交友関係がある。中でも中村勘三郎とは縁があり、さんまは勘三郎が少年時代にやっていた三木のり平とのラジオ番組を参考にあっぱれさんま大先生を作った。さらに、さんまは勘三郎に頼まれて長年出演していなかったNHKに大河ドラマ「元禄繚乱」において遊郭の主人役で出演した。また、勘三郎の父・17代目中村勘三郎がさんまのひょうきん族でのギャグ「帰ってよ!!」を舞台で使った事もある。その後、18代目勘三郎自身も「ダメダメ」や「意味ないじゃ~ん」をやった。これ以来、さんまにとっては中村屋の歴代当主に自分が今流行らせているギャグを舞台でやらせるのが夢だとしている。なお、18代目勘三郎の息子6代目中村勘九郎の妻は「さんま大先生」で生徒役だった前田愛である。フジテレビ『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』で共演する八木亜希子(元同局アナウンサー)とも親交が深い。八木がフジテレビ退社を考えていた時期に彼女から相談を持ちかけられたさんまは「自分に本当の実力があれば、道は開けてくる」とアドバイスをしたという。2016年1月にSMAP解散騒動が持ち上がった(後に同年内解散となる)が、さんまはその2ヶ月位前からこの事情を知っていたことを明かしている。2011年7月、『さんまのまんま』内で「60歳位でテレビは引退する」と公言。その後、他番組でも「60歳でテレビのレギュラー番組を辞めて、仲間たちと舞台をしたい」と主張していた。しかし、2014年4月にこれを撤回した。1980年代に『クイズ面白ゼミナール』や連続テレビ小説『澪つくし』などに出演したこともあるが、1990年代以降、出演はほとんどない。僅かに、1999年の大河ドラマ『元禄繚乱』への出演や2012年の『桂三枝のすべて~六代桂文枝襲名~』(同年7月29日、NHK-BSプレミアム)、2013年の『TV60 NHK×日テレ 60番勝負』(同年2月1日、総合テレビ。NHK・日本テレビ共同制作番組)など数番組に出演歴がある。『さんまのナンでもダービー』内で発生した自身とテレビ朝日の確執が原因による1995年9月の番組打ち切り後、テレビ朝日ではレギュラー番組を持っていない。以後、同局への出演は数える程であり、2009年に『アメトーーク』で初めて現本社に足を踏み入れたが、それ以後現在に至るまで同局番組へは出演していない。一方、系列局の朝日放送との関係性は悪くなく、レギュラー番組こそないが全国ネットの特別番組(現在は『コンプレッくすっ杯』)で年に数回司会を務めている。1978年、毎日放送が大阪で制作していた『妻そして女シリーズ』のドラマで『母の償い』(原作 関幸輔、脚本西沢裕子、岡田茉莉子+加茂さくら+吉沢京子主演 )の第一回に酒屋の店員役で出演したのが、ドラマ初出演であるが、『ヤングおー!おー!』ではすでにアイドル的な人気を獲得していた。1979年、堺正章主演ドラマ『天皇の料理番』でドラマ初レギュラーを獲得し、全国的な知名度を得る第一歩となり、当時担当していたラジオ番組MBSヤングタウンにて楽屋話を披露していた。さんま自身が毎年出演し番組の顔になっている『FNS27時間テレビ』の基になった、「チャリティー番組」『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』へは番組の顔的存在である徳光和夫と共演NGであるのと(徳光自身がさんまとの共演を拒否しているため)、番組側から出演依頼が来た際、さんまのノーギャラ出演の意向を制作者が拒否し出演辞退となったなどと報じられているが、真相の程は不明。かつて司会をした『サタデーナイトショー』が、さんまと淡路恵子とのトークが好評を博し24時台の放送にも関わらず最高視聴率は13%を超え、当時のテレビ東京全番組中で最高視聴率を獲得したが、「局の最高視聴率番組がお色気番組とは体裁が悪い」という上層部の判断で、人気番組であったが終了となった。本人は、『「ちょっと待てと。俺たちテレビタレントが頑張って面白い人気番組にして終わるって、俺ものすごいショックを受けて。俺もう意味がないと。頑張ってしゃべって人気番組にして、それで打ち切られたら」』という一方で、『「数字(視聴率)なんて取ってもあかんし、取らなかってもあかんから、どうでもええかと思えたのは良かった。その後のお笑い芸人としての人生でものすごく助かった」と、「打ち切り騒動」で得るものもあった』と語っている。その後2014年4月7日放送の『主治医が見つかる診療所』でのラサール石井の糖質抜きダイエットの密着VTR中に登場しこれが26年ぶりのテレビ東京の出演となった。独立局への番組出演は2例しかない。若手時代には、関西地区にある当時開局したばかりであったびわ湖放送に出演経験があるが、以後は独立局への出演がなかった。2015年3月には、前述の交友関係がある児嶋が出演する『白黒アンジャッシュ』(千葉テレビ放送)にマンスリーゲストとして出演するが、これは関東地方の独立局制作番組初出演である。趣味はゴルフ・テレビでスポーツ観戦・ギャンブル(パチンコや競馬、麻雀)・テニス。漫画もよく読み、『タッチ』の浅倉南や『うる星やつら』のラムを理想の女性像に挙げている。『ドラゴンボール』ファンであり、多数のグッズをコレクションしている。好きな食べ物はカレーライス、ぶり大根、魚の煮付けなど。自身も認める少食家である。超ヘビースモーカーである。湾岸戦争の際に、自らが支払った多額の税金が戦争当事国であるアメリカのために使われると聞き、国税局に乗りこんで抗議した、などのエピソードがある。映画も好きで役者では特にハンフリー・ボガードやポール・ニューマン、菅原文太、ジェームズ・ディーン、ヴィヴィアン・リーの大ファン。「さんまのまんま」ではボギーとジミーとヴィヴィアンの写真つき枕が飾ってある。2014年の正月特番の「ホンマでっかTV」で、自身もかなりの映画通であるゲストの斎藤工にボギーネタなどを振ったり、ニューマンの細かい芝居について語る。ニューマンでは他に「EXH~EXILE-HOUSE~」2009年5月3日放送や雑誌のインタビューによると特に『スティング』が大好きで若いころにスティングのメインテーマを家の着信音にしていた。またニューマンの「僕は賞をもらうために映画をやっているんじゃない」という名言を真似た「僕は賞を貰うためにお笑いをやっているんじゃない」を2014年05月17日のラジオ「ヤングタウン土曜日」やその他テレビなどでも語っている。文太関連では『仁義なき戦い』シリーズの大ファンで、特に第一作の土居組組長射殺シーンが好きで「冷たい雨の中、煙草を吹かし標的を待つシーンをよく真似た」と語り、若手時代に空港で菅原に会いサインを頼んだところ「俺が代わりに欲しいくらいだよ」と言われた話は、後年さんまが何度も披露している。ビートたけし曰く「その話は百回以上聞いた」。1997年12月放送の『たけし・さんまの有名人の集まる店』には菅原がゲスト出演。たけしとは公私共に仲が良いが北野映画のような重くて暗い作品が苦手で、前述した「スティング」のような軽妙洒脱な作品や「仁義なき戦い」のような娯楽作品を好み、北野映画はそんなに見ていない。(吉川圭三「ヒット番組に必要なことはすべて映画に学んだ (文春文庫)」)1988年9月、女優の大竹しのぶと結婚。大竹には死別した先夫とのあいだに息子が一人いたが、さんまは実の息子同様に扱った。喘息持ちだった息子がある夜、発作に見舞われた時に、さんまは息子の胸に手をあてて朝まで付き添った。するとその日から喘息の症状は治まった。離婚の話になった時、息子は「ボス(さんま)のほうに付いていく」と言ったほど、さんまに懐いていたという。1989年9月、大竹とのあいだに長女・いまるが誕生する。1992年9月に大竹と離婚。離婚直前に二人で見た映画が『ローズ家の戦争』であることをしばしばネタにしている。離婚後も大竹しのぶとの仲は良好で良き友人として接しており、番組で共演する事が見られる。後に長女・いまるは芸名「IMALU」として2009年に芸能界にデビューした。「IMALUが20歳を過ぎるまで再婚はできない」と言っていたが、2010年7月24日放送の第24回FNSの日『FNSの日26時間テレビ2010 超笑顔パレード 絆 爆笑!お台場合宿!!』内「さんま・中居の今夜も眠れない」において島田紳助から「いい加減、結婚しろ!孤独死は切ないで」と再婚を促されると「もう結婚はあきらめた!俺は結婚不適合者なんやとわかった」と再婚を断念する発言をしている。1981年にビートたけしや島田紳助などとともにフジテレビ系バラエティ番組『オレたちひょうきん族』にレギュラー出演。NHKが1975年から2003年にかけて毎年実施していた好きなタレント調査では、1985年に男性1位に選ばれてからは、2003年に調査終了するまでの19回のうち通算12回(1985年 - 1989年、1995年、1998年 - 2003年)で男性1位を獲得、それ以外は全て男性2位となっている。1999年に「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネスブック世界記録認定。JNNデータバンク調べによる好感度タレントの支持率調査では、1987年10月に支持率41.3%、1999年5月に支持率43.1%を記録。これは同調査において1980年代・1990年代共に第1位の記録。また、1999年5月の支持率43.1%は、1971年〜1999年においても第1位の記録である。『日経エンタテインメント!』の「好きな芸人」ランキングでは、初回の2002年から2011年まで10年連続で1位を獲得している。3年ぶりに復活した2014年のランキングでも1位、2015年も2年連続で1位となり、同ランキング12連覇と圧倒的な人気を得ている。TBS系列『クイズタレント名鑑』の5000人アンケート「本当に面白いと思う芸人」、「好きな司会者」、「好きな芸能人」の全ての項目で1位を獲得した。ビートたけしが著書『コマネチ!』ISBN 9784101225500(頁未確認)の中で「こいつには負けた、と思った数少ない中の1人」とさんまのことを評した。岡村隆史などの後輩芸人達は「この人を越えるのは誰にも不可能。死を待つしかない。」と語っている。お笑い評論家・西条昇を始め、戦前から戦後にかけてお笑い界トップスターとして活躍した柳家金語楼と、現在のさんまの共通点を指摘する論者は少なくない。 「芸能界で最も対応のいいタレント」と評されることが多く、二十代のころは、ファンに追いかけ回され、隠れたりすることも多かったが、IMALUの誕生を機に人に接する気持ちが大きく変わり、マスコミ・ファンをはじめとした一般人および芸能人などへの注文もなるべく受け入れるようになった。さんまの対応はネット上でも評価されている。1986 - 1988年に発売した曲が多いが、これらの多くはさんまが主演の単発ギャグドラマ『心はロンリー気持ちは「…」』の主題歌として作られた曲。
出典:wikipedia
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