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水野氏

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び最盛期には24万石と称される勢力となった。宗家のほか、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。宗家は徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。柳営秘鑑では、岡崎譜代とされる。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続け、享保の改革や天保の改革に関与するなど、国政を握った。幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。水野氏の出自は『寛政重脩諸家家譜』では清和源氏満政流と称している。経基王の子で源満仲の弟、鎮守府将軍源満政を祖とし、満政の7世孫の浦野重房の代に至って尾張知多郡阿久比郷小河に住して小河氏(小川氏)と称して、その子重清は春日井郡水野郷に一時期住して、水野とも称するようになったという。苗字の地とされる同春日井郡水野郷(瀬戸市水野)には古代から続く桓武平氏長田氏流水野氏があり、源姓小河氏流水野氏と婚姻関係が生じていた可能性がある。さらに、水野氏のもう一つの苗字の故地として京都嵯峨水野の里があるとする説が『寛政譜』には記されている。すなわち、右大臣藤原道経の子経村は山城国西嵯峨野(葛野郡)水野邑に住して水野経村を称していたが、これが水野清房(勧修寺清房?)の養子となったことに因むという。この伝承は水野氏が時に藤原氏(藤原北家)と称する根拠の一つなったと考えられる。その後水野経村の子、雅経は阿久比郷小河の地頭職に任じられ主として小河を称するようになった。以後は正房の代まで知多郡小河にて地頭職を務めたという。南北朝時代に小河正房は土岐直氏の攻撃をうけ、子の信業と共に戦死し(小河合戦)、孫の信安は先祖の故地春日井郡水野郷へ移り再び水野を称した。その後、曾孫水野忠義は知多郡小河に戻り潜在し勢力を蓄え土岐氏に備えた。水野忠義は貞守の父である。戦国期において水野氏が勢力を伸ばすのは、15世紀中頃水野貞守が尾張国小河(現在の知多郡東浦町緒川)に緒川城と狭い入り江挟んで隣接する三河国碧海郡に刈谷城の二つの拠点を置いたのに始まる。その後、水野氏は佐治氏、戸田氏と争いながら勢力を広げ、大高城、常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城などを有した。水野宗家は水野忠政の時には貞守以来の緒川城と刈谷城を領有したうえ知多半島を南下、佐治氏、戸田氏を圧迫し、三河においては西尾城の吉良氏を圧迫した。水野氏は当初、今川氏やその傘下にあり近郷に割拠する松平氏との関係が深く、特に松平氏とは頻繁に通婚していた。この時期において水野氏は松平氏と同等の勢力であり、徳川家康の母伝通院(水野忠政の娘)の入輿もこの流れによるものであった。忠政死後は水野信元(忠政次男)が継いだが、彼はそれまでの親今川路線を変更し、織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだ。このため松平宗家の松平広忠(徳川家康の父)に嫁いでいた信元の妹於大の方は離縁となり刈谷に帰り、久松家に嫁ぐまでの数年を刈谷城近くの椎の木屋敷で過ごした。水野信元の弟水野信近(忠政3男)は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて城代として刈谷城を守ったが戦いの直後に今川家臣・岡部元信に城を攻められ戦死した。水野信元は永禄5年(1562年)には徳川家康を支援し信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介し、その後も水野惣領家として三方ヶ原の戦いや、長島一向一揆との戦いに参陣した。しかし天正3年(1575年)水野信元は突如、信長に武田勝頼への内通を疑われ(佐久間信盛の讒言によるとされる)、徳川氏を頼り逃亡をはかるが、織田信長の命を受けた徳川家康により殺害された(これには織田・徳川両氏の陰謀による水野氏排斥であったとする見方もある)。この時、跡継ぎであった水野信政(信近の子)も殺害され、ここに水野氏は断絶となる。天正8年(1580年)難を逃れた一族は信長に再興を許され、水野忠政・四男水野忠守は尾張国小河(緒川)の、水野忠政・九男水野忠重は刈谷の旧領に復した。この時、水野忠重が信元の家督を継いだ宗家の継承者とされたことは石高からみても明らかである。緒川城を継いだ水野忠守(水野忠政・四男)は、天正13年頃に秀吉に背き緒川城を退去したが、その嫡男、水野忠元は徳川秀忠の側近となり下総山川藩主となった。子孫からは享保の改革を補佐した水野忠之や天保の改革を主導した水野忠邦等、著名な老中を輩出した。刈谷城を継いで宗家となった水野忠重は信元存命の頃から徳川家康に仕えていたが、水野家再興後は織田信雄に仕え、信雄が羽柴秀吉と講和してからは秀吉の家臣となった。秀吉の命令で一時伊勢国神戸に転封されるも、ほどなく刈谷に復し、秀吉の死後は徳川家康に従うが、関ヶ原の戦い直前に石田三成方の加賀井重望に殺害された。忠重の跡を継いだ長男水野勝成は、若い頃は乱暴者であったが知勇に秀で、特に大坂夏の陣では抜群の軍功をあげ備後福山藩10万石を有する大名となった。忠重の次男水野忠胤と四男水野忠清も共に家康に仕え、忠胤は三河国内1万石を有する大名に、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となった。若い頃から信長の直臣であった水野忠分(水野忠政・八男)は、天正6年(1578年)有岡城の戦いで戦死したが、その子水野分長は、蒲生氏郷と徳川家康に仕え、緒川城主を経て、上野安中藩水野家の祖となった。また分長の弟水野重央も徳川家康に重用され、紀伊徳川家の御附家老なった。水野家は戦国期の尾張三河に於いて織田氏、松平氏と並ぶほどの大豪族であったわりに資料が少ないが、これは上記の佐久間信盛の讒言による水野信元誅殺による一族離散のおりに多くの資料が散逸してしまったためであると考えられる。また「刈谷市誌」が主張する刈谷水野家なる家の存在は、①於大が松平家を離縁となったあとで緒川ではなく刈谷に住したこと、②緊迫した桶狭間の戦いの中で水野信近が刈谷城に率いた軍勢があまりにも少なく一家の主としてはありえない状況で、伝承される通り城代であったと考えられる、などからその主張に無理がありすぎると言わざるを得ない。「寛政譜」では以下のごとくである。 1.貞守 九郎次郎 十郎左衛門 蔵人 長享元(1487年)5月18日卒、法名・玄室全通 年51 「寛永系図」も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。但し「清忠」の没年の記載がない。「士林泝洄」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。「寛永系図・水野-坤」で忠政の兄弟とされた「藤助」(水野成政)は「寛政譜」に現れず、代わりに「清忠が長男」として左近大夫「清重」という人物が登場する。「清信」の子「水野正重」は「寛永系図」に「清久」として現れる。通称、太郎作もしくは左近。「寛政譜」によれば天文14・1545年生まれ、桶狭間の戦いの後家康に仕えて軍功を示し、慶長7・1602年に1000石を与えられて旗本になるという。実際は信元に仕え、その死後、家康の御家人となったようである。「松平記」にその名をみせる他、この人物の覚書(水野左近覚書。「水野記」巻十五)の内容が「武徳編年集成」や「寛政譜」の記事として用いられている。宗家は嗣子なく絶家となるが分家に紀州藩に仕えた子孫がいる。また「元定」子孫は、その経緯は不明としながらも水野を名乗って江戸旗本となっている(「水野重定」に始まって「水野穠喜」「水野穠久」「水野穠延」等の名前がみえる)。元教の妻は水野信元の娘で、信元殺害後、元教は知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768年)徳川家治の時代に旗本となっている。忠政の兄とされる「水野成政」の系譜。「寛政譜」(6巻116項)と「新編 東浦町誌 資料編3」所収の乾坤院所蔵水野系図「水野氏嫡流略系図」および「石見守水野氏御系図」による。「水野氏嫡流略系図」ではこの家を嫡流とする。しかし結城水野家とのあいだに、嫡庶についての争いがあったという(「寛政譜」6巻35頁および116頁)。長勝は、父「生害」の時2歳。母と共に刈谷へ逃れるが、母が松平家広に再婚するにあたり形原へ同行、家広の養育を受けるという。のち信長に仕えて「石ヶ瀬の戦い」に参加。信長の死後は北条氏政に仕え、小田原征伐では鉢形城主北条氏邦の配下となっていた。北条氏滅亡後、天正19年に家康に仕えて武蔵国男衾郡に800石を与えられる。慶長7年伏見城番、同9年従五位下石見守となる。慶長14年伏見にて死去。78歳。長勝の子水野忠貞が近畿8国の奉行職を務め5,000石、その子水野忠顯は大番頭で6,000石を与えられて、従五位下に叙任された。なお忠顯は水野忠清の4男で、次代・水野忠富、次々代・水野忠英はいずれも松本水野家3代水野忠直の子である。それゆえ水野忠重の直系となっている。 1.政祖(まさもと) 半左衛門 河内守 貞守の次男居城は常滑城(愛知県常滑市山方町)で、忠綱およびその子の墓所は同市山方町5-106の天沢院である。「政祖」の名がみえるのは「寛政譜」のみ。「寛永系図」の「水野-坤」では「某・山城守・法名花鴎」-「守次・監物」とするが、忠政との関係は明らかではない。また「士林泝洄」巻36は「大和守・常滑城主」-「大和守」-「守隆・監物」とし「大和守・常滑城主」を忠政の兄弟とする。但しこれが「寛政譜」にいう監物「忠綱」のことなのか明らかではない。子孫は、河内守「守信」が「半左衛門」を名乗って大目付、後に大身旗本となった。また戦死した「新七」の後には「信元」の孫八郎衛門(あるいは新七郎)が養子に入って「水野保雅」を名乗り、尾張藩士となっている。守信の墓所は父「守隆」と同じ京都・天龍寺の永明院(同町60)、養子にはいった「保雅」のそれは常滑市社辺64の総心寺である。 1.為善 大膳 養月斎    貞守の弟居城は大高城(名古屋市緑区大高町城山)。しかしこの「大高城」については、愛知県武豊町東大高周辺を城邑域とする富貴城とみなす異説もある(『刈谷市史』)。大高城は、忠守の頃に今川方の山口教継の調略によって落城し、桶狭間の戦いが起こった。その後、大高城主に復帰したかどうかは定かではない。忠守は忠政の娘を妻としたが、『刈谷市史』ではこれを否定する。「寛永系図・水野-坤」では忠政との姻戚関係を記述していない。「寛政譜」では「正勝」の生母の記述はない。大膳亮忠守とその室(忠政の娘)は共に生没年不明であるが、忠守の子・正勝の生年を寛政譜の記述から逆算すると1505年となり、忠守室の兄・忠政の生年が1493年であるから、正勝が忠政の娘の実子でないことは確かである。江戸時代は吉守と正勝の子孫がそれぞれ旗本となった。河和城(愛知県美浜町河和字西谷)主戸田守光と水野信元の娘、妙(総心尼とは姉妹となる)との子光康を祖とする。天正18年(1590年)、父守光は秀吉旗下として参加した小田原征伐で討死。夫の死後、剃髪した母妙源尼と共に、江戸で伝通院の庇護を受ける。慶長2年(1597年)母方の姓を名乗って水野光康となり、家康より700石の知行を与えられる。慶長6年(1601年)河和郷に復して1,460石を与えられ、後に尾張藩士となる。同じく子孫は尾張藩に仕え、幕末に至るまで旧河和城下に屋敷(河和屋敷と呼ばれていたらしい)を持っていたという。和泉守忠重の子日向守勝成を祖とする家で、水野一族の宗家筋に当たる。領地は、三河刈谷より大和郡山、備後福山といずれも枢要の地を任された。第5代・勝岑が2歳で夭折すると跡目を失い断絶となるが、名門の家柄が惜しまれ勝成の孫である勝長が跡目を継ぎ家名の存続が許された。以後、小禄ながら幕末まで存続するが、明治維新には隠居した勝進と当主である勝知が勤王と佐幕に別れ対立し、居城の結城城を奪い合うことになった。歴代当主は以下の通り。なお、個別ページのある当主にはリンクを付した。水野勝成の弟・水野忠胤を祖とする家。関ヶ原の戦いの論功行賞により三河国内に1万石を与えられ成立する。しかし、慶長14年(1609年)の遠江浜松藩主・松平忠頼を招いた茶会において忠胤家臣と忠頼家臣が口論を起こし仲裁に入った忠頼を忠胤家臣が殺害してしまい、忠胤は切腹を命じられ廃藩となった。勝成の弟隼人正忠清を祖とする家。代々出羽守を名乗り帝鑑間に詰めた。領地は上野小幡より勝成移封後の三河刈谷に入りその後同国吉田、信濃松本と移る。しかし、松本藩主時代の享保10年(1725年)に第6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため改易となる。その後、叔父出羽守忠穀に家名存続のみが許されたが、その子出羽守忠友が家治の側近として活躍したため明和5年(1768年)三河大浜にて大名に復帰する。さらに安永6年(1777年)には駿河沼津城を与えられ城持ち大名となる。大名復帰後は、当主が側用人や老中といった幕府要職に就任する機会が多くなった。明治元年(1868年)徳川家達の駿河府中入封に伴い、所領5万石の内2万3,700石を上総菊間に移される。歴代当主は以下の通り。忠清の子周防守忠増を祖とする家。無城の新規取立大名として菊間縁側に詰めた。正徳1年(1711年)に第2代肥前守忠位が大坂定番に就任した際に加増されて大名に列した。その後しばらく領地に居所を作らなかったが、享保10年(1725年)に安房北条の陣屋を居所とし、文政10年(1827年)に上総鶴牧に移転した。当主は、大番頭や若年寄といった役職に就任する機会が多かった。水野勝成の子・成貞は、旗本となったが、その子・成之(十郎左衛門)知行3,000石が幡随院長兵衛と乱闘し殺害したことは不問に処されたが、その後行跡怠慢により母の実家の蜂須賀家にお預かりとなり、評定の為に召喚された時、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日切腹となり断絶した。その後、弟の水野忠丘が旗本として召し出された。水野弾正忠分長を祖とする家。新規取立の城主として雁間に詰め、大番頭や奏者番といった役職に就く機会が多かった。領地は、水野氏の故地である尾張小河より、三河新城、上野安中と変遷した。寛文7年(1667年)第3代信濃守元知が乱心して妻女である出羽山形藩水野氏水野監物忠善(当時は岡崎藩主)の娘を殺害したため改易となる。その後子孫は旗本として存続した。出雲守重央を祖とする家。重央は徳川頼宣の附家老となり、頼宣の領地移動に伴いその領内の遠江浜松城、紀伊新宮城を与えられた。その後子孫は新宮城主、紀州徳川家家老として続く。江戸詰め家老の役にあり、基本的に江戸で政務を取った。明治維新政府により新宮藩として独立が認められ、後に男爵となった。忠幹の長男の水野忠宜は陸軍に入隊したが、八甲田雪中行軍遭難事件で遭難死した。監物忠元を祖とする家。代々監物を名乗り帝鑑間に詰めた。領地は、下総山川より駿河田中、三河吉田、同岡崎、肥前唐津、遠江浜松と要地を転々としている。長崎警護の役目がある唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かった。享保の改革で徳川吉宗を補佐した和泉守忠之や天保の改革を主導した越前守忠邦等、著名な老中も輩出している。忠邦以降、改革失敗の責任をとらされて出羽山形に転封となる。なお、初代忠元が大名となったことを記念して、領地ではないが許可を得て、11代忠邦までの墓所が山川(茨城県結城市)につくられている。水野豊信(藤右衛門。慶長3・1598年卒)とその子孫についての記述が「寛政譜」新訂6巻118項以下にある。それによると「豊信」は、家康に仕え、関東移封に付き従い、武蔵国豊嶋郡に知行210石を与えられたという。子孫は江戸旗本となっている。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺。「織田信雄分限帳」のなかに「水野藤右衛門」の名があり、知多郡吉川郷(愛知県大府市)に200貫文と記されているが、これを同一人物と考えてよいのか判断に苦しむ。「寛政譜」によればその享年を、はじめ87、のちに81につくるとしており、生年は1512年もしくは1518年ということになる。実線は実子、点線は養子。数字は歴代緒川城主、「数字」は歴代刈谷城主

出典:wikipedia

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