バグラーン州()は、アフガニスタン北部の州である。面積は1万8255平方キロメートル(34州中12位)、総人口は約86万人(34州中12位)、人口密度は47人/平方キロ(34州中15位)である。州都はプレ・フムリー。バグラン県やバグラン州とも。バグラーン州は日本の四国とほぼ同じ大きさの州である。ヒンドゥークシュ山脈の北側にあたる。629年、玄奘三蔵がインドを目指して唐を出発し、途中でバグラーン州の近くを通過した。当時のバグラーンは縛伽浪国と呼ばれていた。バグラーン州は1950年頃はカタガン州の一部だったが、1958年から1964年頃に分割されてバグラーン州とプレ・フムリー州とクンドゥーズ州になった。1964年4月、バグラーン州とプレ・フムリー州が再び合併してバグラーン州になった。1978年にはアフガニスタン民主共和国が成立し、翌年ソビエト連邦軍が軍事介入してアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まった。1981年頃はムジャーヒディーンがパンジシール渓谷やバグラーン州などでゲリラ活動を行っていたが、強制的な課税によって戦費を賄ったので住民の間に不満が高まった。ハザーラ人で地元のイスマーイール派教団の指導者であるサイイド・マンスール・ナーディリーは武装信徒を率いて、パシュトゥーン人やタジク人のムジャーヒディーンと一線を画した。1988年、共産党政権はジョウズジャーン州のラシッド・ドスタムにウズベク人民兵隊を組織させて、幹線道路を守らせた。バグラーン州ではサイイド・マンスールを上院議員に任命して、武装信徒1万3000人を味方につけた。1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退してもカーブルの共産党政権はなんとか持ちこたえていたが、1991年にソビエト連邦が崩壊すると民兵の間に動揺が走った。1992年、サイイド・マンスールは共産党政権を裏切ってラシッド・ドスタムと共に自立し、カーブルの共産党政権を倒したがすぐに内戦が始まった。1994年3月、軍がカーブルとタジキスタンの間の輸送路を確保するためにバグラーン州に侵攻して、ヒンジャーン郡やドーシー郡を占領した。イスマーイール派教団は、1995年から1996年頃にバグラーンからプレ・フムリーに州都を移した。1998年8月、ターリバーンはラシッド・ドスタムの根拠地であるマザーリ・シャリーフを陥落させ、パンジシール渓谷を包囲するためにバグラーン州に侵攻して、州都プレ・フムリーを占領した。バグラーン州では2002年から2012年までの約10年間で、3回の中規模地震が発生している。2002年3月のアフガニスタン北部地震(Mw6.1)では、ナリーン郡の1500戸が全半壊して1000人以上が死亡し、数百人が負傷した。2004年10月、第一回の大統領選挙が実施され、バグラーン州ではユーヌス・カーヌーニー(約39%)が最多得票を得た。2007年11月、があり、下院議員など数十人の市民が死亡した。2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。バグラーン州ではアブドラ・アブドラ元外相が最多得票(約57%)を得た。2012年6月、州の北部で連続してが発生し地すべりにより多数の死傷者が出た。2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、バグラーン州ではアブドラ・アブドラ元外相が最多得票(約60%)を得た。1市14郡を擁する。バグラーン州ではプレ・フムリー市と周辺(約20万人)やバグラーン郡(約17万人)、ナリーン郡やドーシー郡(約7万人)などに多くの住民が居る。人口1万人以上の都市はプレ・フムリー市(約10万人)とバグラーン市(約7万人)である。バグラーン州は米(34州中1位)やアーモンド(34州中3位)、綿花(34州中5位)の生産が全国的に見ても盛んで、桃(34州中7位)もかなり生産されている。
出典:wikipedia
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