ハレー彗星(ハレーすいせい、1P/Halley、ハリー彗星とも)は、約76年周期で地球に接近する短周期彗星である。公転周期は75.3年。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、古来多くの文献に記録されている。前回は1986年に回帰し、次回は2061年夏に出現すると考えられている。ハレー彗星の核は約8km×8km×16kmの大きさでジャガイモのような不定形をしている。核の密度は 0.1 - 0.25g/cm と推定されている。核の表面は非常に暗い色をしており、アルベドは約0.04と非常に小さい。探査機ジオットによる調査では、彗星核表面には炭素が多く存在することが明らかになっている。核から放出された物質の組成(体積比)は、水(氷)が80%、一酸化炭素が10%、メタンとアンモニアの混合物が2.5%などとなっており、他に炭化水素や鉄、ナトリウムなどが微量に含まれる。またシアンガスもわずかに含まれている。ハレー彗星から放出された物質は、5月のみずがめ座η流星群および10月のオリオン座流星群の流星物質となっていると考えられている。ハレー彗星は周期約76年の楕円軌道を持ち、遠日点は海王星軌道の外側に達する。また軌道傾斜角が約162度で、逆行軌道となっている。ハレー彗星は周期彗星であることが初めて明らかになった彗星である。というのは、ハレー彗星ほど大きく明るい彗星で、人間の寿命とほぼ同程度の短さの回転周期を持つ彗星は他にないからである。この事実を発見したのはイギリスの天文学者エドモンド・ハレーである。彼は24個の彗星の軌道を計算した結果、1682年に出現した彗星の観測的性質が、1531年にドイツのペトルス・アピアヌスが観測した彗星および、1607年にプラハのヨハネス・ケプラーが観測した彗星とほとんど同じだと気づいた。このことから彼は、これら3つの彗星は実際には同一の天体が76年ごとに回帰したのだと結論づけた(実際の出現周期は惑星の摂動によって彗星の軌道が絶えず変化するため、数年の幅で変動する)。ハレーはこの彗星が惑星から受ける摂動を概算して次は1757年に再び出現すると予言し、この研究を1705年に発表した。その後1758年12月25日に、ドイツのアマチュア天文家ヨハン・ゲオルク・パリッチュがこの彗星を発見し、ハレーの予言が証明された。実際の彗星の近日点通過は1759年3月13日にずれこんだが、これは木星と土星の摂動によって彗星の回帰が約618日遅れたためで、このことは出現の前に、フランスの3人の数学者、アレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコル=レーヌ・ルポートらが計算していた。ハレー自身はこの回帰を見ることなく1742年に没していたが、ハレーの功績を記念して、この彗星にハレーの名が付けられた。ハレーの軌道計算法によって、ハレー彗星の過去の出現を歴史上の記録の中に見つけることが可能となった。軌道計算による過去と未来のハレー彗星の近日点通過日は以下の通りである。通常、近日点通過の前後数ヶ月間は肉眼で彗星を見ることができる。また、古文書などから判明しているハレー彗星の出現記録も付記した。1835年11月16日のハレー彗星は、初めて大々的に近代的な観測が行われた。検出は8月5日ローマ大学天文台のダモアシェルにより行なわれた。オットー・ローゼンベルガーによる計算の近日点の誤差は+5日であった。まだ写真が発明されておらず全ての観測は肉眼によった。エストニアのタルトゥ天文台のウィルヘルム・シュトルーベが22.5cm屈折望遠鏡で、ウィーンのリトロウが15cm屈折望遠鏡で観測した。南アフリカにいたジョン・ハーシェルも長期のスケッチ記録を残し、「1835年10月2日(その日は尾が初めて見えた日だった)核は暗く小さかったが、突然その明るさを増し、その前方、つまり太陽の方向へジェット(光のすじ)を投げだした」と書いている。同じ頃スケッチしていたドイツのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルやハインリッヒ・シュワーベのスケッチにも同様の模様が記録されている。1836年5月まで追跡された。日本では『新修彗星法』に、中国や朝鮮でも記録がある。1910年4月20日のハレー彗星は、比較的地球に接近したものだった。初めて写真撮影がされたが、当時は写真撮影は未だ一般的なものでなく、アマチュアは肉眼によるスケッチを行なった。1909年9月11日、マックス・ヴォルフがケーニヒスツール天文台の72cmF3.9望遠鏡にて写真撮影で検出し、1909年9月15日にヤーキス天文台で実視観測された。コーエルとアンドリュー・クロンメリンが出した予報の近日点通過誤差は+3.03日であった。発見当時の光度は約16等だったがその後明るくなり、翌1910年2月に8等級、3月に7等級となり、4月に2等級となり、8度ほどの尾を見せた。5月11日には最も明るく、0.6等となり、尾はさらに長くなり、5月14日に58度、16日に70度、19日に105度、21日には120度となった。夜明けごろに観測されていたのが、21日以後は夕方西方に現れ、光度、尾の長さともに次第に減じ、7月に7等、尾の長さ2度となり、翌年1月に13等級、4月に15等級となり、1911年7月11日の写真に現れたのを最後に見えなくなった。この時、太陽からの距離は約8億3000万km。当時麻布飯倉町にあった東京天文台(現国立天文台)では平山信と戸田光潤が20cmf=1203mm、8.7cmf=254mm、3.2cmf=78mmの3台のカメラを使用し、4月20日から6月7日までに44枚を撮影した。また満州日々新聞の協力を得て、春に晴天が続く満州大連市(現中華人民共和国遼寧省)郊外に観測小屋を建て、早乙女清房と帆足通直が遠征、15cm屈折赤道儀に10cmf=882mm、7.8cmf=245mm、3.9cmf=144mmの3台のカメラを同架して5月6日から6月11日までに90枚を撮影した。日本のアマチュアは観測方法が分からず光度観測などはほとんど行われなかったが、井上四郎が10cm屈折望遠鏡で素晴らしいスケッチを残している。今回の接近では軌道の関係上、ハレー彗星の核は地球と太陽の間に入り、地球上から太陽面通過を観測できる状態となっていた。しかし、世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあたったにもかかわらず、結局、確実に見たとの報告はなかった。現在の八戸市に住む、一人の天文愛好家、前原寅吉(1872年 - 1950年)がハレー彗星の太陽面通過を鮮明に観測したとして、大きくクローズアップされている。前原寅吉は、自作の「黒色ガラス」をつけた3台の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測、発表した。「5月19日、午後11時20分に至り西より東に向き太陽面上段青色に変じたり。これ全く核(ガス状になった彗星の本体)の経過せしものにて午後12時17分まで見えたるも西方より白色状の状態に復したり」とあり、彗星の通過によって、そのガスがフィルターとなり、太陽面が変色する様子をはっきり捉えている。寅吉の快挙について、満州日日新聞の記事は「列国の天文台が観測に失敗し居れるに独り個人たる氏が此の大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄たりと言うべし」と絶賛している。太陽面を通過した際、ハレー彗星の尾の中を地球が通過することも天文学者により予言されていた。彗星の尾には有毒のシアン化合物が含まれていることが知られていた。特にフランスの科学者カミーユ・フラマリオン(1842年 - 1925年、日本のメディアでの表記はフレンマリオン)の説がもととなり、尾に含まれる猛毒成分により、地球上の生物は全て窒息死するという噂が広まった。日本でのその日時は、5月19日11時22分とされた。またシアン毒説の他に、地球上の空気が5分間ほどなくなるという噂が一部で広まった。自転車のチューブを買い占め、チューブ内の空気を吸って一時的な酸素枯渇に備える裕福な者、水を張った桶で息を止める訓練をする者、全財産を遊びにつぎ込む者、世界滅亡を憂えて自殺する者などが現れたという。この顛末は、1949年(昭和24年)、日本映画社製作の『空気のなくなる日』という映画に描かれている。『ドラえもん』33巻「ハリーのしっぽ」でも、ハレー彗星が接近した時、スネ夫の先祖がチューブを買い占める話や、のび太の曽祖父・のび吉が桶の水で息を止める訓練をする話が出ている。しかし、当時の新聞記事を見るかぎり、大規模な騒乱などが起きたわけではない。海外でも、ローマ法王庁が「贖罪券」を発行したところ、希望者が殺到し、手に入れることができなかった人が悲嘆に暮れるあまり、自殺するという事件も起きている。中には酸素ボンベを持ち出し地下に逃げ込んだ人もいる。「彗星が持ち込むシアンの毒はこれで大丈夫」と、小麦粉を丸めただけのニセの薬を売って金もうけしようとした詐欺師がアメリカで摘発されたこともあった。またメキシコでは、「処女を生贄にすれば助かる」と信じ込んだ暴徒が、女性を襲撃する事件も起きている。実際のハレー彗星は5月19日に太陽面を通過したが、彗星のガスは非常に薄いため、地球が尾の中を通過してもハレー彗星のガスは地球の厚い大気に阻まれて地表に到達することはなく、地球及び生命体には何の影響も与えなかった。太古より、ハレー彗星は不吉の前兆などと考えられてきたが、この時ほどの大きな騒ぎの記録はなく、結果的に、科学とメディアの発達がかえって迷信によるパニックを煽ることとなった。また、1910年のハレー彗星を見たと言う者の中には、実際には、ハレー彗星とは別の、1910年1月の彗星 (C/1910 A1 = 1910 I (Great January comet)、"the Great Daylight Comet of 1910") の記憶と混同している例も少なくない。この彗星はハレー彗星の接近の約4ヶ月前に現れ、最も明るい時にはハレー彗星より明るく、白昼でも見えた。太陽面を横切る様子が数多くの人々に目撃され、日本でも新聞に「白昼横行 光芒千里」との漫画が掲載されている。1986年2月9日の接近は、有史以降のハレー彗星の出現の中で、観測に最も不向きだった。1982年10月16日、ジェウィットら8名によりパロマー天文台508cmF3.3ヘール望遠鏡にてCCDで検出された。ヨーマンズが出した予報の近日点通過の誤差は-0.36日であった。アマチュア天文家による最初の確実な観測は1985年8月12日で、14-15等級の暗く淡いイメージであった。9月にかけ少しずつ明るくなり、10月には増光も移動もそのスピードを増し、12月にはタイプIの尾が撮影できるようになり、1986年1月には夕方西空に長く細い尾を眼視で確認できるようになった。近日点通過前の最終観測は1月28日になされた。近日点通過後は2月16日から再観測され、3月にはこの回帰中もっとも美しい姿になった。しかし過去の出現時のような光度に達せず、また都市化によって光害が広がっていたこと、最も地球に近づくことからさかんに報道された4月には南に低く北半球からほとんど見られなくなった時期であったことから、多くの一般の人々は彗星を全く見ることができなかった。アマチュア天文家は彗星を見ようと南半球へ移動し、社会現象までになった。5月には未だ長い尾を見せつつも少しずつ暗くなり、6月にはコマだけになり、日本では7月初めの観測がアマチュアが観望できた最後になった。地球からの観測には不向きな接近だったものの、この76年間の人類の宇宙開発の進展により、地表を離れて、さらには惑星間空間にまで進出しての観測技術が投入された初の接近となった。ハレー彗星のために、複数の国家(および国際)宇宙機関が次々と探査機を送り出し、非公式にハレー艦隊 (Halley Armada) と呼ばれる活躍を見せた。中でも最も華々しく成功したのは、ヨーロッパ宇宙機関 (ESA) のジオットで、ハレー彗星のコマに突入して核へ近接遭遇した。この探査により、ハレー彗星の核が推定されていた通りの汚れた雪玉状の組成を持ち、また核の形がひょうたん型であることも分かった。他に、ソ連・フランス合同のベガ1号・ベガ2号や、日本のさきがけ・すいせいが打ち上げられた(この2機は日本初の地球圏を離れた宇宙機でもある)。アメリカは、太陽周回軌道にあった ICE (International Cometary Explorer)とパイオニア7号でハレー彗星を観測した。ICEは、元々は ISEE-3 (International Sun-Earth Explorer 3) といい、太陽-地球 L ラグランジュ点で太陽風を観測していたが、予定のミッションを完了した後で改名され、軌道を変更し、ジャコビニ・ツィンナー彗星とハレー彗星を観測した。パイオニア7号は元々パイオニア6号~9号で4機編隊を組み、太陽周回軌道を網羅して惑星間環境を観測する探査機であったが、7号の軌道は運良くハレー彗星に1230万キロまで接近するものであり、彗星尾部の観測を行なった。さらにSTS-51-LおよびSTS-61-Eの2回のスペースシャトルミッションで、低軌道からハレー彗星を観測する計画があった。61-Eミッションでは1986年3月にスペースシャトル・コロンビアを打ち上げ、 観測装置ASTRO-1でハレー彗星を観測する予定だった。しかし1986年1月28日にスペースシャトル・チャレンジャーが51-Lミッションの打ち上げで爆発事故を起こしたため、全ての計画は中止になった。ASTRO-1は1990年12月のSTS-35ミッションでようやく打ち上げられ、ハレー彗星には間に合わなかった。ソ連の宇宙ステーション・サリュート7号は、1986年のハレー彗星接近時には無人だった。サリュートの後継となるミールは、この接近期間中の1986年2月に打ち上げられたが、まだ乗組員は滞在していなかった。今後の出現予定(及び接近の日)は以下の通りである。ハレー彗星の回帰・接近にともなって起きた社会現象について、ここでは日本において現れた商品などについてまとめる。1986年の地球接近後もハレー彗星の観測は続けられた。1991年2月にはハレー彗星が突然光度を増したことが観測されている。この増光の原因は不明であるが、以下のようないくつかの説が考えられた。その後、ヨーロッパ南天天文台 (ESO) が1994年と2003年3月にハレー彗星の姿を観測しているため、核本体が失われるような衝突や崩壊は起こっていないと推定されている。
出典:wikipedia
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