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伊東祐親

伊東 祐親(いとう すけちか)は、平安時代末期の武将であり、伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)の豪族。工藤氏の6代目であり、伊東氏の祖でもある工藤祐隆(伊東家次)の孫であり、河津氏の祖。河津祐親(かわず すけちか)とも。伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父・伊東祐家が早世すると、祖父・祐隆(法名・寂心)は後妻の連れ子である伊東祐継を嫡子として本領の伊東荘を与え、嫡孫の祐親を次男として河津荘を与えた。総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・祐経から伊東荘を奪った。これを恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、祐親の嫡男・河津祐泰を狩りの場で射殺し、これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて伊豆に配流された源頼朝の監視を任される。しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。祐親はこれを知って激怒し、安元元年(1175年)9月、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家している。治承4年(1180年)8月に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。次男の祐清はその後も平家方として戦い、篠原の戦いで討ち死にしている。頼朝挙兵の13年後、建久4年(1193年)5月、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した富士の巻狩りの場で、父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は曾我兄弟の仇討ちとして後世に知られる事になる。近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の安元2年(1176年)3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。保立は大姫の誕生を安元2年3月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。保立は伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している(祐親から見れば、客人である筈の頼朝が伊東氏一族に深く食い込むことで祐親との力関係が逆転して伊東氏の事実上の「乗っ取り」に至る危惧を抱かせたとする)。また、保立は祐親に千鶴御前を殺害されたことに憤慨した頼朝が祐親に恨みを持つ工藤祐経を唆して奥野の巻狩りの場で祐親を襲撃させて祐親嫡男の祐泰を殺害させ、その事情を知った祐泰の遺児である曾我兄弟が頼朝の命をも狙ったとする。孫には曾我兄弟の他、鎌倉幕府2代執権の北条義時、有力御家人の三浦義村がいる。八重姫と千鶴丸のエピソードにより敵役のイメージの強い祐親であるが、地元の伊東市では毎年「伊東祐親まつり」が開催され、物見塚公園には祐親の騎馬武者像が建てられるなど、郷土の英雄として親しまれている。

出典:wikipedia

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