高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、日本のサッカー選手、元サッカー日本代表選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。大阪商業大学卒業。家族は妻と一男一女。長男はサッカー選手の高木利弥。現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっているが、引退後高木本人がTBSでの山田邦子の番組にゲスト出演した際に今身長184cm・85kgと語っていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ、ハンス・オフト監督時代の日本代表におけるターゲットマンとして攻撃のキーマンであった。長崎県南高来郡北有馬町(現・南島原市)出身。小学生時代は野球少年で、「堀内2世」と周囲に言われた豪腕投手だった。中学3年生の時、2年後に島原商業高校サッカー部監督の小嶺忠敏が国見高校に異動するという情報を耳にしていた。高校2年生から指導を受けられる予定であったため、島原商業ではなく、国見高校に進学する。2年生になり、小嶺が国見高校に赴任してきた時、新3年生の部員はおらず、また、2年生の部員も小嶺の指導のあまりの厳しさに1人、2人と減り、秋になる頃には高木1人しか残っていなかったため、小嶺新体制の国見高校サッカー部のいわば「長男坊」として、早くからチームのまとめ役を任された。3年時には主将としてインターハイに初出場し、国見高校の選手を中心に編成された長崎県選抜チームで臨んだ国体サッカー少年男子の部では、準優勝と得点王に輝いたが、全国高校サッカー選手権では県予選で後に同僚となる前川和也を擁する平戸高校に敗れて初出場は果たせなかった。高校卒業後の1986年に大阪商業大学へ入学し、同大学のサッカー部でプレー。小嶺の師でもある上田亮三郎から指導を受け、関西学生サッカーリーグ戦では1987年と1988年の2度、1部リーグで優勝した。大学卒業後、フジタ(現:湘南ベルマーレ)を経て、1991年にマツダに入団。早くから攻撃の中心選手として活躍し、マツダがサンフレッチェ広島F.Cとして発足するとプロ契約、1992年にはJSL新人王を獲得。同年にはハンス・オフト監督が指揮する日本代表にも初選出され、広島で開催されたアジアカップでは決勝戦で唯一のゴールを決め、日本の初優勝に貢献。「アジアの大砲」というキャッチフレーズと共に、高木の存在はサッカーファン以外にも広く知られるようになり、翌1993年に始まったJリーグでも人気選手となった。同年の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選にも最終予選まで参加したが、本大会出場はならなかった。1994年には、イワン・ハシェックと抜群のコンビで、広島のサントリーシリーズ優勝の原動力となった。しかし、同年のJリーグチャンピオンシップの第2戦でアキレス腱を断裂。以後、常に故障に悩まされ続けるも、「怪我をネガティブに考えたことは一度もなかった」(高木談)というプラス思考で広島の中心選手として活躍を続ける。1997年には1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選で最終戦のカザフスタン戦に招集され 1得点を挙げたが、続くプレーオフのイラン戦(ジョホールバルの歓喜)ではメンバー外となり、翌年の本大会でも日本代表には選ばれなかった。そしてカザフスタン戦が高木にとって日本代表での最後の出場試合となった。1998年、広島の経営悪化に伴い移籍金を得るため放出を余儀なくされ、本人も環境を変えるいい機会として、ヴェルディ川崎へ移籍。前線の基点としてプレーするも次第に怪我により、活躍できなくなっていく。V川崎で2シーズンプレーした後、1999年末にオファーのあったコンサドーレ札幌へ移籍。日本代表のコーチや監督として指導を受けていた岡田武史監督の下、初めてJ2でのプレーとなった2000年は札幌のJ2優勝メンバーとなった。だが、自らはリーグ戦初の年間ノーゴールに終わり、同年を最後に、膝の負傷などを理由にして現役を引退した。サッカー解説者として活動する傍ら、2005年には将来のJリーグ参入を目指して高木の故郷である長崎県で結成されたV・ファーレン長崎から監督就任のオファーを受けた。しかし、解説者としての仕事の都合や、当時はまだS級ライセンス取得中であったことから監督就任は見送り、技術アドバイザーとしてチームを支えることになり、主にサッカー解説のない時に来県して指導していた。S級ライセンス取得後、2006年からはJ2の横浜FCのコーチに就任し、指導者としての第一歩を踏み出した。更にチーム始動から1ヶ月程しか経っていない第1節終了後の3月6日には足達勇輔監督が解任されたことに伴い監督に昇格し、チームを指揮することになった。指導経験に乏しく、準備期間も与えられなかった上、先輩に当る三浦知良を選手として起用することへの指導面も含め、難しい立場と思われていた。フロントの決断はサポーターの批判も招き、高木の初指揮となった第2節のホーム開幕戦では横断幕ゼロ、一切のコールを行わず試合を見守るのみという沈黙の抗議を行なう事態となった。しかし高木就任後、チームは15戦無敗。新監督として過去にない好成績を残し、J2加入以来5年間下位に沈んでいたチームを一気に昇格争い出来るチームへ変貌させた。更にイタリア代表の堅固な守備を称したカテナチオをもじって名付けられた「ハマナチオ」は、770分間連続無失点のJリーグ新記録 及び7試合連続無失点のJ2タイ記録も樹立し、選手・サポーターの信頼を勝ち得た。11月26日、第51節(残り1試合)でのサガン鳥栖戦の勝利と、同節の他チームの結果によってJ1昇格を決定させると共に、指導者として初のタイトル(J2優勝)を獲得。初物づくしの一年となり、高木の手腕はサッカー評論家などの間で高く評価された。2007年も同チームを指揮、開幕戦では敗れたものの前年王者の浦和レッドダイヤモンズを苦しめ、第2節の「横浜ダービー」横浜FM戦で勝利するなど、開幕直後はJ1でも通用するかに見えた。しかし、他クラブとの戦力差は否めず、「ハマナチオ」はあっという間に崩壊、大量失点を繰り返した。新戦力の奥大介や久保竜彦も故障で離脱するなどし、大差での最下位(18位)に低迷。三浦淳宏獲得などの補強方針を巡ってフロントとの確執も表面化し、8月27日をもって監督を解任された。その後はTBSのスーパーサッカー などでサッカー解説者を務め、2008年、J1に復帰した東京ヴェルディ1969のコーチに就任。2009年からはクラブのJ2降格に伴い退任した柱谷哲二の後を受け、東京Vの監督に就任した。経営難から満足な戦力が整わない中、中盤には6連勝を含む10戦負けなしを記録するなど奮闘したが、クラブの身売り・存続の危機というピッチ外での騒動の影響もあって、徐々に成績は下降。1年でのJ1復帰がなくなったことに加え、第89回天皇杯の初戦でJFL所属のホンダロックSCに敗れたことが引き金となり、7試合を残した10月に途中解任された。2010年より、ロアッソ熊本の監督に就任。守備に重点に置きながらカウンターを狙うという戦術が功を奏して失点数を大幅に減らすことに成功し、J2昇格後3年目のチームを初めて1桁順位(7位)に押し上げた。しかし翌年11位に後退、更にその次2012年も12位以下が確定したことから、クラブは2012年11月8日、同年シーズンの公式試合が終了次第退任させることを発表した。2013年より、かつてアドバイザーを務めたV・ファーレン長崎の監督に就任。J2初年のチームを6位に導き、J1昇格プレーオフ進出を果たした。2014年は14位に終わったものの、2015年には6位となり2年ぶりにJ1昇格プレーオフへ進出した。!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算191||64||18||6||17||7||226||7717||0||1||0||3||1||21||122||9||0||0||||||||15||3||0||0||||||||245||76||19||6||||||||その他の公式戦|-!通算高校時代クラブチーム代表指導者
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