オール阪神・巨人(オールはんしん・きょじん)は、日本の漫才コンビ。吉本興業大阪本社所属。1975年4月にコンビ結成。コンビ名は毎日放送の公開バラエティ番組『ヤングおー!おー!』内で桂三枝(現・六代桂文枝)がコンビ名募集を行い、その中から採用されたものである。オールきょじん、( - )主にボケ担当。1951年、大阪の天王寺で産まれ、その後、家業の都合で転居を繰り返す。その後豊中市の北条に落ち着き、結婚までの時期をこの地で暮らす。中学3年生の頃には身長が180cmほどになっていた。特に暴れん坊だった、不良だったと言うわけではないのだが、いつしかケンカが強いと言う「設定」になっており、学校では一目置かれる存在となり、いつのまにかたくさんの子分がいたという。現在は吹田市在住。大阪商業高等学校卒業後は学生の頃から手伝っていた実家の鶏卵卸売り業に勤務する。そのかたわら『素人名人会』などアマチュアが出演するテレビの演芸番組でモノマネや漫談を披露する。この頃に老人ホームや刑務所などでの慰問を行うために素人の手伝いを探していた時、まだ高校生であり、同じく演芸番組の常連であった高田昭徳、後のオール阪神と出会う。臨時的に阪神と組んで漫才を行ったことがあったがこれが受け、阪神と共に吉本興業に所属することを勧められる。当時の吉本にはNSCといった養成所がなかったため誰かの弟子となるのが習慣であったが、意中の島田洋之介・今喜多代は既に島田一の介や今いくよ・くるよ、島田紳助など多くの弟子をかかえており、ちょうど付き人を探していた吉本新喜劇の岡八朗の弟子となった(岡の一番弟子であったという)。当時島田紳助と仲が良く、今喜多代からコンビ結成を勧められたが、もともと吉本入りは阪神とのコンビ結成が前提であり、また巨人は年下の阪神が卒業するのを待っていたため、これを断った。1975年2月には阪神も岡の弟子となる。その後1975年4月までの約9ヵ月間、岡八朗の弟子として過ごす。ただし岡は新喜劇俳優(とは言え漫才師としての経験もある)、巨人は漫才師志望のため、直接的に芸を学ぶ事はなかったが、アドバイスを受けることはあった。一時期はせっかく夢を持って吉本に来たのだから、と、弟子入り志願者が10人居れば7-8人を弟子としていたほどであったが、2012年現在は、弟子を取ってはいない。弟子の数は合計30人程度にのぼるが(うち一人は女性だが、他は男性)、ほとんどは芸人を辞めていった。常識の無い弟子に困らされることもしばしばであったと言うなお、巨人は厳しい師匠だと言われる事があるが、勿論弟子が失敗すれば怒ったり謹慎を命じたりしたりする事はあるにせよ、巨人自身は、そうではないと思っているとのこと。巨人は師匠である自身が弟子と真剣に向き合っているからこそ、怒鳴ったり怒ったりすることもある、としており、また自身は理由も無く手を挙げるような乱暴者では無いとも語っている(後述)。だが謹慎をきっかけに弟子が辞めてしまうこともあり、そういった時は非常に寂しいもので、あの時許していればと自省をしてみたりと言ったこともあり、師匠をやるのも難しいものなのだと語っている。なお、巨人によれば、巨人が弟子に手を上げたのはただの一度だけであると言い、その弟子はあろうことか阪神の財布から現金を盗んでいたのだという。また、テレビ番組『EXテレビ』の企画で巨人の弟子となった有吉弘行が兄弟弟子を歯が折れるほど殴ってしまい、暴力を振るうような奴は弟子にはいらんと謹慎を言い渡したところ、いつの間にか上京して「猿岩石」を結成しブレイクしていたといったことがあった。その後巨人と再会した有吉は土下座して謝罪し、巨人は何故連絡の一つも寄越さなかったんだと言いながらも、お前も辛かったんだろうと、正式に破門と言うかたちにした。有吉以外にも巨人のもとを離れてから成功した例がいくつかあり、一時期は巨人の弟子をやめたら売れると言う話が生まれたという。なおあくまでテレビのバラエティ番組内でのトークではあるが、有吉がMCを務める番組に巨人がゲストとして出演した際、有吉は巨人師匠の弟子につかせてもらって良かった、としながらも、(猿岩石がブレイクしたきっかけの)6ヵ月のヒッチハイクと巨人のもとでの8ヵ月の弟子生活を比較し、もう一度どちらかをやれと言われたらヒッチハイクの方を選ぶ、と思うほど、(18歳当時の)自身には厳しいものだったと語っている。弟子・元弟子には有吉のほか、きどゆういち、角田龍平、コラアゲンはいごうまんなどがいる。また弟子を取る時には履歴書と、心構えなどを書いた書面を提出させ、それは全て保管しているという。弟子については#ガチンコ!でも詳述する。『ガチンコ!』と言うテレビ番組の企画で、巨人に漫才師を育てる企画、「漫才道」の講師の依頼があった。「生まれてこの方やらせと嘘は大嫌い」と言う巨人は、やらせをしない、「演出」も極力控える条件でこれを承諾。1週目収録がはじまると、20-30人集まった候補者の中にとんでもなく態度の悪い人物がおり、巨人はその人物を怒鳴りつけたが、その人物はしらばっくれたような態度を取るだけだった。巨人は、"「何を言うてんねん。お前な、漫才師になりたくてここに来たんなら、俺の言うことを聞け、嫌やったら帰れ! お前が俺の弟子やったらパンパンやぞ!!」"(オール巨人『師弟』p.148より引用)と叱りつけた。巨人によればこの「パンパンやぞ!!」は後で評判になった台詞だが、本当はそんな風に言うつもりでななく、パンパンとはバチバチっと殴るぞ、ちゃんとやらないと手が出てるぞ、程度の意味合いであり、恐らく自身が怒りで興奮していたんだろう、としている。ともあれ1週目の収録は終わったが、巨人はその態度の悪い人物を、番組側が仕込んだやらせなのではないかと怪しみ、スタッフを問い詰めた。この時スタッフはやらせを否定したものの、2度目の収録の前の週に巨人がテレビを見ていると、なんと他の番組にその人物が出演しており、真面目な好青年であったという。巨人は「やっぱりやらせか!」と激怒し、2度目の収録の時にスタッフを叱りつけ、収録は中止となった。巨人は本音ではこの企画をもう降りたかったが、1週目を収録してしまった都合上そういう訳にもいかず、今後は自分の好きにさせて貰う、やらせは行わない、と言う条件でやむなく続けることにした。以後は1回目のようなあからさまな仕込みはなかったものの、スタッフが弟子へのビンタを要求するなどやらせを要求され、腹を立てることがあったという。巨人はこの件に関し自著で、口で言っても解らない子には殴るしかない時もあろうが、自分は誰にでも手を出すような乱暴者ではない。またテレビの企画とは言え塾生を弟子のように思っているから無闇に怒るようなこともできない、と著している。なお巨人は前述の通り、弟子に対して師匠として真剣に向き合うから怒鳴る時もあれば怒る時もあるとしており、テレビ番組の企画とは言え、自身が塾生たちにも真剣に向き合った結果、テレビの視聴者に「巨人は怖い」との印象を与えるに至ったのではないかとしており、出演しなければ良かった、と思う時もあるという。この企画で怖いと言う印象がついてしまい、寿司屋を訪れると茶髪の店員を奥に隠したり、「ウニください」と普通に寿司を注文したら、「あれ、怖くないんですね」などと驚かれたこともあったと言う。巨人によれば、ガチンコの出演は残念な結果に終わったが、芸人として残っている数少ない弟子は「巨人師匠は優しい」と言ってくれるし、また、一部のファンは当時「巨人さんは本当は優しいと知らしめたい」と言ってくれており、その気持ちは嬉しかったとしている。巨人は以前、C型肝炎を患っていた。初期は自覚症状がない病気であるが、これが発覚したのは1997年ごろ、虫垂炎の手術をしたときである。ひとくちにC型肝炎と言っても色々なタイプがあるが、最も治りにくいウイルスに冒されていた。自覚症状が無い為になかなか治療を開始する踏ん切りがつかず、治療を開始したのは還暦を前にした2010年2月のこと。巨人が受けたインターフェロン治療は注射を行うと体温が39度を超え激しい頭痛と関節痛が伴い、また副作用が20も30もあるようなものであったという(巨人の場合、一番ひどかったのは、耳鳴りであった。その他立ちくらみや味覚障害による食欲不振など。)。またこのような症状は当日だけではなく、日常生活にも支障を来すものであった。しかし不思議と、舞台上では時折目の前が真っ白になりながらも、しっかり漫才を行えていたという。その辛さから家族に八つ当たりすることもあったが、巨人は仕事を休まずこの注射を毎週、1年半続け、また更に半年後の検査でもウイルスは検出されず、2012年現在は完治ということになっている。治療費は1年間につきおおよそ100万円程度かかったが、2012年現在は助成金が有り安価に治療できるとのこと。なお巨人が治療を開始する4-5年前に、巨人の妻も同じくC型肝炎でインターフェロン治療を行っている。妻も注射後3-4日はずっとしんどいとへたりこんでいたという。また巨人は治療中飲酒とゴルフを絶っていたが、治療終了後に「飲酒再開の会」を興したところ、20人ほどが集まってくれたと言う。巨人は師匠である岡八朗を非常に尊敬・敬愛していると語る。弟子として専属したのは9ヵ月程度であったが、離れても一生師匠は師匠、弟子は弟子と言い、酒に溺れ身を崩す岡を諫め続けるなど、師弟関係は岡が死去するまで31年間続いたものであった。巨人曰く、たまたまの縁で岡と師弟関係となったが、師匠である岡の深い愛情と大きな度量があったから今の自分があり、後年酒と怪我で身を崩した岡を諫めるようなことになっても、その尊敬心や信頼関係にはいささかの揺るぎもないという。また、本当に優しくて、大きな師匠であり、岡八朗師匠に出会えて良かったと心から感じている、としている。なお岡の葬儀の後、岡の日記を読む機会があったが、巨人の本名が「南出」であるところ、死去する2日前に書かれた、数日前に行われ岡最後の舞台となった芸能生活45周年公演について記した日記で岡も舞台を非常に楽しんだことなどが記されていたが、巨人の名前が「南田」と誤記されており、ここでそれはないだろう、と、ガックリきたと冗談めかしながら著している。オールはんしん、( - )主にツッコミ担当。1974年頃、オール巨人と時を同じくして素人演芸番組に出演し、好評を博す。巨人とはアマチュア時代から親交がある(詳しくはオール巨人の来歴も参照)。1975年2月、高校卒業が決まったため、既に巨人が入門していた岡八朗の弟子となる。漫才のスタイルは正統派の「しゃべくり漫才」で、ボケ役とツッコミ役はネタや場面によって入れ替わる。テレビでは一切放映しない劇場限定のネタも有している(後述)。夢路いとし・喜味こいしの死後は『バラエティー生活笑百科』などで、ネタの途中で彼らの漫才の物真似(巨人=いとし役、阪神=こいし役)を行うことも多い。他にも嘗て番組の企画で砂川捨丸・中村春代の物真似を化粧やちょび髭、衣装を揃えて演じ切った。他にも平和ラッパ・日佐丸の日佐丸が「こんなん連れてやってますねん」とボヤき、これを受けてラッパが「苦労しまっせ(または「気ィ使いまっせェー」)」「ハハーッ、さいならー(しゃいならー)」も真似する。デビュー直後は日々の仕事をこなすことに手一杯であったが、巨人によればある頃より海原かける・めぐるを意識し目標とする(めぐるは2012年現在吉本新喜劇で活躍する池乃めだかである)。また2012年現在は夢路いとし・喜味こいし(故人)が目標であるという。彼らは特にキャラの強く無い「無色透明」な二人であるが、喋り出すと抜群におもしろい。喋りひとつで無限のバリエーションを産み出す、究極の話芸であると言う。このため阪神・巨人も、「阪神の背が低く、巨人の背が高い」と言う見た目のキャラクターを利用せずに、あくまで話芸で色を出す漫才師を目指しているという。前述の通り、互いに岡八朗門下。巨人は1974年7月に、年下である阪神は1975年2月に弟子入りしている。アマチュア時代に臨時的にコンビを組んだことがあったが、お互いに素人番組の常連であったため持ちネタを熟知しており、『ズッコケ学芸会』の予選会場でたまたまはじめて二人での芸を行ったが、非常に受けた。その時に審査委員長を務めていたテレビ番組『ヤングおー!おー!』プロデューサーの林誠一に、高田(のちのオール阪神)と共に吉本興業に所属することを勧められる。なお当時巨人と阪神は林家染三に名前を貰い落語家を目指しており、林の提案がなければそのまま落語家になっていた可能性もあったという。なお巨人によれば阪神・巨人は吉本で恐らくはじめて「スカウト」されて入ったコンビであり、島田紳助には「お前らはドラフト一位で入った」などと言われていたという。1975年4月に正式にコンビを結成。「高田・南出」と言うコンビ名で『ヤングおー!おー!』に出演したのがプロデビューである。その後、「マネマネゴンスケ・マンスケ」(これは桂文枝(当時の桂三枝)による命名)を経て、『ヤングおー!おー!』番組中での一般公募により、2014現在のコンビ名、『オール阪神・巨人』となる。劇場デビューはその後の1975年7月、京都花月となっている。だが当初の3-4ヵ月はスベることが多く、観客からのヤジが多かった。デビューの同期には1955年度生まれの明石家さんまや島田紳助(以上二人は厳密には同期ではない。後述。)・桂小枝(デビュー当時の芸名は桂枝織)がいる。上述の経歴、後述の受賞歴にも表れているように、若い頃から正統派芸人としての評価が非常に高かった。1980年頃から2年ほど続くの漫才ブームでは、オール阪神・巨人はその中心に居たとは言えなかった(ただし、4年間ほどは休みが一日もなく、漫才マシーン1号・2号などと言われることがあるほど多忙ではあった)。彼らの漫才は正統派の漫才であり、漫才ブームで受けていたのはギャグ漫才であったからである。また正統派以外の漫才にもチャレンジしようとしてはみたが、二人とも不器用であり、路線変更は叶わなかった。漫才ブームが去った時には、巨人は少しほっとしたという。ブームの渦中に居た漫才師たちが東京へ行くので、阪神・巨人はその穴埋めに花月劇場に大いに狩り出された。阪神・巨人も吉本に東京行きを打診するが、「お前らがいなくなったら誰が大阪の舞台に立つんだ」と引き留められ、これは叶わなかった。なお、吉本興業の林正之助会長から、「二代目エンタツ・アチャコ」を襲名させる話があったが、本人たちが「おそれおおい」と断った。阪神・巨人は、テレビでは決して流さない、劇場専用のネタを持っている。わざわざお金を払って劇場に足を運んでくれたお客さんに(無料である)テレビで見たネタを披露してしまっては、申し訳が無い、と言う持論による。巨人によれば不仲であったことは事実でありおおよそ1990年頃までコンビ仲は良いとは言えるものでは到底なかったが、それ以降は落ち着いて来ており、2012年現在はコンビ仲は良いと言う。巨人によれば、デビュー当初、観客に受けなかった時期からしばらくは本当に仲が悪かった。巨人は著書で、これは阪神が作るネタが適当につくったようなもので面白く無かった点や(これは後年、阪神も認めているという)巨人が5歳も年上であったため(当時巨人が23歳、阪神が18歳である)、自分がリードしなければと言う気持ちがあったこと、また巨人が師匠の岡から「漫才のコンビは相方をライバルと思い、こいつに勝とうと思わないといけない」とアドバイスを受けていたため必要以上に阪神にきつくあたった節があることなどが原因として考えられるとしているが、両者ともウケるために必死で長時間のネタ合わせを行っており、阪神などはノイローゼ気味になるほどであったのに、そうまでしているのになかなかウケが取れないため、相手の何でもないところにまで腹が立つようになってきて、大ゲンカを始めるようなことになったという(大抵は先に怒り出すのは巨人の方であったという。また大ゲンカは月に2回ほどであったとのこと)。ラジオの生放送中にケンカを始めた事すら何回かあり、舞台に立ってもお互いに目を合わせずに漫才を行っていたという。こんな有様ではあったが、解散に至らなかったのは、時折ウケが良いとこれまでのイライラが吹っ飛び途端に仲がよくなること、アマチュア時代に二人を引き合わせた人物から、「3年は辞めるな」と言われていたからであるという。その内に賞を受賞するようにもなってき、3年経った頃には新たに「7年はがんばろう」という意識が芽生えてきた。だがデビューから12-13年経った頃には、ついにこれまで一度もなかった、「解散」の言葉を出した大ゲンカがあった。これは阪神の仕事が伸びてしまい劇場への到着が遅れてしまったのだが、阪神は劇場に連絡を入れていたのであるがそれが巨人には届いておらず、並み居る師匠方に頭を下げて先に出番をこなして貰い、自分達が「トリ」(寄せや劇場などで最後を飾る芸人。通常、最も実力のある芸人が選ばれる)となってしまったことが原因であり、巨人から解散を切り出したものである。巨人は本気で解散を考えており、今入っている仕事を全部こなしたらそれで解散だ、と思っていたのだが、いつの間にか次から次へと仕事が入ってくるので結局2012年現在まで解散していないと言った次第であるという。巨人はこの事件を、「夫婦は子がかすがいだが、コンビはしごとがかすがいだ」と語る。だが1985年にコンビ結成10周年を迎えた頃には改善がみられており、コンビ結成から15年を経て、阪神が結婚するころ、二人の関係はようやく落ち着いてくる。2012年現在は、コンビ仲は良いと言う。巨人はプライベートの部分が性格も趣味も嗜好もまるで正反対であったがため、その部分についてはお互いがお互いを大切にできたのがよかったのではないかとしている。阪神は出身地で行われる泉大津だんじり祭りに子供の頃から参加している。また、2011年11月には泉大津市から名誉大使の委嘱を受けた。阪神の出身地である泉大津市の市長だった神谷昇が第46回衆議院議員総選挙に自民党公認で大阪府第18区から出馬(後に落選)のため辞職したことに伴う泉大津市長選挙(2013年1月6日告示、1月13日投開票)に阪神が出馬を検討していた。自分が市長になれば市民が市政に興味を持ってくれると考え、立候補に関する書類の収集やポスター用写真の撮影、公約の検討など準備を進めていた。しかし、2012年12月28日に阪神の従兄弟で泉大津市職員(参与兼健康福祉部長)だった伊藤晴彦が出馬を表明。阪神も会見に立ち会い、双方話し合いの末、阪神は出馬を取りやめて応援するなどの選挙協力を表明した。これを受けて、NHK大阪放送局は、2012年12月30日に『漫才祭り2012冬』の放送を予定していたが、この番組に阪神が出演しており、選挙に影響が出かねないとして、選挙終了後まで放送を延期することになった。また、2013年1月4日放送の『春一番!笑売繁盛』(毎日放送)にも出演を予定していたが、選挙への影響を考慮し、出演を取り止めている。同選挙は対立候補に627票の差をつけて伊藤が初当選を果たした。
出典:wikipedia
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