駒野 友一(こまの ゆういち、1981年7月25日 - )は、和歌山県海南市出身のサッカー選手。元日本代表。アビスパ福岡所属。ポジションはディフェンダー(DF)及びミッドフィールダー(MF)。広島県立吉田高等学校卒業。小学生の頃はFWだったが、中学2年生時に招集された関西選抜において「左足で蹴れるから」と抜擢された左サイドハーフ(SH)での活躍により、同3年生時には複数の私立高校やクラブから勧誘された。1996年秋に父が病死したこともあり寮費減免があるサンフレッチェ広島ユースを選択。同年冬に広島県・吉田中学校へ転校し、1997年、高校1年生時から広島ユースに加入。ウイングバック(WB)として活躍し、高校3年次には同級生の森崎和幸・浩司兄弟とともに2種登録選手になった。2000年、サンフレッチェ広島とプロ契約を締結。翌2001年、ヴァレリー・ニポムニシに見出され、右サイドバック(SB)として沢田謙太郎からレギュラーを奪った。その後も安定したプレーを見せ、その年の2ndステージ3位になる原動力となった。これ以降も右アウトサイドのレギュラーとして活躍した。2003年8月、J2第28節横浜FC戦で左膝前十字靭帯を断裂。手術後の入院中に脚をギプスで固定したことで静脈血栓塞栓症を発症し生命の危機に陥った。懸命なリハビリを続け、2004年4月のナビスコカップ横浜FM戦で復帰。駒野不在の間、広島の右サイドのレギュラーに定着した選手はいなかった。2004年9月にはぶどう膜炎を発症し失明の危機まであったが軽症で済んだ。2005年にかけて復調し、佐藤寿人へのクロスによってチャンスを量産、右SBながら9アシストを記録した。利き足である右足から放つクロスを得意とし、特にFWの動きに合わせた軌道を研究して練習した、と自身で述べる鋭く曲がり落ちるアーリークロスは大きな武器となり、当時の専門誌において「クロスボール部門」Jリーガー第1位に選ばれている。2007年オフには広島からの慰留に加えてジュビロ磐田及びヴィッセル神戸からオファーを受けた。2008年、ジュビロ磐田へ移籍。2009年には背番号を広島在籍時と同じ「5」に、ポジションをMFからDF(SB)に変更。2年続けてJ1残留争いを経験し、同年末には広島からの復帰要請に前向きな姿勢を見せるも広島の資金難によって復帰は立ち消えとなり磐田に残留。2010年もSBとして活躍を続けたが、同年10月の韓国代表戦で右上腕骨を骨折。磐田が12年ぶりの優勝を決めたナビスコカップ決勝戦を含めたシーズン終盤を欠場した。2011年、右SBとしてJ1全試合にフル出場し、FW前田遼一との好連携でリーグ最多のアシストを記録。2012年1月にはベルギー1部リーグ・シント=トロイデンVVへの移籍で基本合意に至るも、磐田との契約期間を残しており違約金等の調達がまとまらずに頓挫。磐田残留が決まった。2012年もリーグ戦全試合に出場し、自身初のJリーグベストイレブンに選出された。2013年は新布陣採用に伴ってSBからWBにポジションを上げたが、これが奏功せずチームは低迷。同年は主将を務め第23節新潟戦でJ1通算350試合出場を達成するも、クラブ史上初、自身3度目のJ2降格を喫した。2015年はシーズン後半にかけて宮崎智彦に左SBのレギュラーを奪われたが、第33節群馬戦では途中出場で直接FKによる決勝点を挙げ、ベテランとしてチームを支え磐田のJ1昇格に貢献。しかし、磐田からは契約延長を打診されたが、若返りを理由に単年契約でのオファーだった事もあり、退団を決意した。2016年よりFC東京へ移籍。2月9日に行われた2016年シーズン初戦となったAFCチャンピオンズリーグ2016 プレーオフ・チョンブリーFC戦でスタメンで出場。自身初のACLとなった全北現代モータースで肉離れを起こし、リーグ開幕戦は欠場となった。オーバーエイジ枠でFC東京 U-23として、同年4月3日に行われたJ3リーグ第3節・ブラウブリッツ秋田戦で初めてJ3の試合に出場した。怪我や若手の小川諒也の活躍もあり、リーグ戦は1試合のみの出場で止まり、同年7月3日にアビスパ福岡へ期限付き移籍。年代別代表時代から左右のSBとして活躍。2004年にはU-23日本代表としてアテネオリンピックに選出されたが、ガーナ戦で左鎖骨を骨折A代表には、2005年の東アジア選手権で負傷の三浦淳宏に代わって初招集され、8月3日の中国戦で国際Aマッチ初出場。その後もDF加地亮のバックアッパーとして定着し、翌2006年開催のワールドカップメンバーに選出された。これは追加招集された茂庭照幸と共に「アテネ世代」からの数少ない選出であった。加地の負傷により、本大会初戦のオーストラリア戦で先発出場。この試合では同点に追いつかれた直後、ペナルティエリア内でドリブルを仕掛けて相手DFに倒され、あわや追加点となるチャンスを作った。しかし守備で振るわずに逆転負けを喫し、加地が復調した第2戦以降は控えに回った。2006年から2007年にかけてのイビチャ・オシム体制下では、スピードを評価され、左SB及び左WBの一番手として重用されたが、オシム後任の岡田武史監督の下ではDF内田篤人や長友佑都ら若手選手の台頭により、控えに戻った。2010年開催のFIFAワールドカップでは、大会直前に行われた強化試合コートジボワール戦におけるDF今野泰幸の負傷もあり堅実なプレーでポジションを再奪取。本大会のグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の計4試合で右SBとして先発出場した。好調を維持し、スプリント数においては日本代表では駒野と本田圭佑だけが4試合全てで100超を数え、また、カメルーン戦では時速25.77kmを記録。攻守に献身的な働きで日本の決勝T進出に貢献した。決勝T1回戦のパラグアイ戦では、相手陣内深いエリアまで上がり再三クロスを上げるなどチャンスを演出し、パラグアイに押し込まれた時間帯には体を張った守備でピンチの芽を摘むなど豊富な運動量でチームの完封に貢献した。同試合は延長戦でも決着せずPK戦となり、駒野は3人目のキッカーを任されたがシュートをバーに当て失敗。パラグアイは全員PKを成功させたためベスト8進出を逃した。2010年8月以降のアルベルト・ザッケローニ体制下でも内田・長友の控えが続いたが、2011年10月11日のFIFAワールドカップ3次予選・タジキスタン戦では国際Aマッチ初得点を含む1ゴール2アシストの活躍。通算65試合目の出場での初得点は、GKを除き日本代表史上最も遅いものとなった。2013年の東アジアカップでは、これまでの貢献度の高さを理由にチームキャプテンを任された。第1戦中国戦では2失点に絡んだが、急造チームに一体感を作り、日本の同大会初優勝に貢献。チームに献身する姿勢はザッケローニから「本当のプロフェッショナル」と賞賛されていたが、2014年のFIFAワールドカップに際しては、予備登録の30名に留まり、自身3度目となる本大会のメンバー入りを逃した。362||18||36||2||20||2||418||2287||4||colspan="2"|-||2||0||89||44||0||colspan="2"|-|| colspan="2"|-||4||0453||22||36||2||22||2||511||26!通算!!colspan="2"|AFC|2005||5||0!通算
出典:wikipedia
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