アラマンニ人(阿:Alemanne、独:Alamannen、ラテン語・英:Alamanni)は、ドイツ南西部のライン川上流地域を原住地とするゲルマン人の部族連合。アレマンネ人、アラマンネン人、アレマン人とも表記される。「ドイツ、ドイツの」「ドイツ人」「ドイツ語」を意味するフランス語「Allemagne/allemand」、スペイン語「Alemania/alemán」、ポルトガル語「Alemanha/alemão」の由来になった民族名である。紀元前後にスカンジナビア半島あるいはユトランド半島から南下し、ローマ帝国の皇帝・アウグストゥスが遠征させた将軍・ウァルスとのトイトブルク森の戦いで名を轟かしたゲルマン部族連合の盟主だったケルスキー族首長のアルミニウスの傘下に属したランゴバルド人とともにゲルマン系の連合部族の一派に遡るという。後に東部ドイツのエルベ川の流域に移住したと伝わる。このゲルマン系民族は3世紀中頃から度々ローマ帝国領内への侵入を試みた。皇帝ガッリエヌスの治世には、ローマ帝国がライン川及びマイン川の流域に防壁を設けていたため、エルベ川から民族移住して、リーメス内への居住が認められ、ラエティアを経て一時はアルプスを越えイタリア本土への進入もみられたが、続く皇帝クラウディウス・ゴティクス治下の268年のベナクス湖の戦い()で敗北し、撤退を余儀なくされ、同時に古くからライン川流域にいたケルト人、または侵略者のローマ人との混血を繰り返して、アルプス山脈北西部にあるライン川上流にて「アラマンニ人」として、民族形成がなされた。271年には、プラセンティア(現伊ピアチェンツァ)の戦い()に勝利し同都市を一時占領したものの、皇帝アウレリアヌスが率いるローマ帝国軍にファーノの戦い()で敗れ、敗走した。367年には、ローマ帝国の属州であった高地ゲルマニアの中心地モングンティアクム(現マインツ)を占拠したが、皇帝ウァレンティニアヌス1世が指揮するローマ帝国軍に敗れ、その後、374年には、アラマンニ王マクリアヌスとウァレンティニアヌス1世との間で和平が結ばれた。5世紀に入ると、その領域はアルプス地方からライン川中流域にまで拡大した。しかし、496年から497年にかけてハイデルベルク周辺のトルビアックの戦い()でメロヴィング朝フランク王国を創始したクロヴィス1世(クロートヴィヒ)に敗れ、その支配下に入ると、キリスト教(カトリック)への改宗が進んだ。やがて、アラマンニの有力貴族は、神聖ローマ帝国の部族大公としてのツェーリンゲン家のバーデン辺境伯、ホーエンシュタウフェン朝のシュヴァーベン公国として発展させたのである。さらにスイスの小貴族であり、神聖ローマ帝国・オーストリア帝国の君主となったハプスブルク家、ニュルンベルク城伯・ブランデンブルク公・プロイセン王、さらにドイツ帝国の君主となったホーエンツォレルン家も、元来はアラマンニ族の有力貴族であった。
出典:wikipedia
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