西川口(にしかわぐち)は、新潟県長岡市の地名。旧北魚沼郡西川口村。郵便番号は949-7513。2011年4月1日現在の人口は1,438人。西川口は、長岡市川口地区西部の大字で明治22年に新設合併した川口村(後の川口町)のうち、旧・西川口村及び川口原新田・山崎新田にあたり、農地及び住宅地が多くを占める。また魚野川の男山漁場は新潟県最大の簗場で鮎・鮭・鮠・鯉・鯰などが獲れる。字西倉では西瓜を栽培がさかんである。北西で小千谷市上片貝、北で信濃川を挟んでに牛ケ島、東で魚野川を挟んで東川口・川口中山、南で川口和南津・川口田麦山、西で小千谷市川井・塩殿及び僅かに川井新田に隣接している。小字として荒屋・新敷・中新田・岩出原・西倉・原新田・川岸・上野原を有する。この地には先土器時代末期の荒屋遺跡が魚野川左岸台地に存在する。この遺跡からは彫刻刀及び細石器が出土している。縄文時代の遺跡として信濃川左岸に西倉遺跡・上ノ原遺跡当地は和名抄の魚沼郡剌上郷にあたる。中世に入り、この近辺は藪神ノ内と呼ばれ、下川郷十九半名の一部として内ヶ巻城主である新田一族の田中氏の支配下にあった。1542年(天文11年)に起きた天文の乱において、田中氏当主である田中太郎左衛門長義は越後国守護上杉定実の側につき、長尾為景と対立したが、為景没後、田中氏の自立の承認と引き換えに守護代長尾晴景に帰服した。江戸時代に入ると、川口村は高田藩に属した。正式に分村してはいなかったものの、正保国絵図では既に川口村とは別に西川口村の名が見られる。江戸初期に高田藩に属していた当地は、1681年(天和元年)の越後騒動の結果、高田藩が改易されると天領となった。1743年(寛保3年)になると川口は幕府(魚野川右岸)と糸魚川藩(魚野川左岸)の相給となり、それぞれ御領川口、私領川口と呼ばれるようになった。 このうち私領川口は1834年(天保5年)に天領に復したものの、同時分村し、1861年(文久元年)には西川口村と称した。また、1840年(天保11年)に刈羽郡法坂村の百姓茂兵衛によって千曲川縁が開発され、山崎新田となった。村高は「正保国絵図」において301石余、「弘化三年村明細帳」において398石余。1878年(明治11年)の郡区町村編制法において魚沼郡西川口村とされた西川口村だったが、翌1879年(明治12年)には魚沼郡が分割され北魚沼郡西川口村となった。1889年(明治22年)の町村制施行に伴いそれまでの西川口村と川口村・川口原新田・山崎新田を併せて新しく川口村が設立され、西川口村は川口村の大字となり、北魚沼郡川口村大字西川口となった。この前年の1888年(明治21年)の戸数は96、人口554を数えた。1927年(昭和2年)には十日町線(現・飯山線)の越後川口-越後岩沢間開通に伴い、線路が当地を通った。1957年(昭和32年)、川口村の町制施行に伴い、川口村大字西川口は川口町大字西川口となった。1977年には川口原新田・山崎新田を編入した。2011年(平成22年)3月31日の川口町の長岡市への合併に伴い川口町大字西川口は長岡市西川口となった。付近で信濃川と支流魚野川との合流点があり、この魚野川の河口部左岸、西側に立地することによる
出典:wikipedia
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