冷蔵車(れいぞうしゃ)とは、鉄道貨車の一種で、腐りやすい生鮮食料品などを温度を保持して輸送することができるように設計された車両である。日本国有鉄道における車種記号は「レ」。有蓋車から派生した車種であり、構造は有蓋車と似ているが、何らかの断熱構造を備えていることが特徴である。野菜や果物を輸送するためにもっぱら用いられる通風車とは異なり、冷蔵車には何らかの保冷装置・冷却装置が設置されている。冷蔵車では、氷・ドライアイス・機械的な冷凍機などで冷却が行われる。牛乳輸送用車両やその他の急行冷蔵車では、旅客列車に連結して高速で走行できるように台車などに改良が加えられたものがあり、そうした車両では冷却装置がなく単に断熱されているだけのものもある。冷蔵車の使用目的は大きく分けて5つある。日本では、機械式冷凍機を備えた車両は実験的にしか現れず、氷槽を備えた車両でもそれをあまり利用せず、主に5の魚介類輸送目的で使用されていた。地方の漁港で水揚げされた鮮魚を首都圏や近畿圏などの大都市圏に輸送するために多く用いられ、レサ10000形とレムフ10000形で構成された特急鮮魚貨物列車「とびうお」や「ぎんりん」は代表的な列車であった。道路網の拡充と冷凍機付きトラックの発展に伴い、輸送距離が短い日本では、積み替え時間の占める割合が大きい鉄道貨物輸送では太刀打ちできず、さらに冷蔵機能付きコンテナが登場したことにより特急貨物列車もコンテナ化されたことから1986年(昭和61年)までに全て運用を離脱した。しかし世界的に見れば、今でも冷蔵車を運行している国は多い。冷蔵車の構造は、車体そのものや走り装置などについては通常の貨車と大差ない。他の貨車との違いは、冷却や断熱に関する構造にある。側板・妻板・天井・床などの内部に断熱材を挟み車内の温度維持を図っていた。断熱材には様々なものが用いられ、フェルト、コルク、アルセルボード、グラスウール、ポリスチレンなどがある。家畜の毛を圧縮して作ったフェルトは、安価ではあるが欠点があり、3年から4年ほどの使用で腐って、車両の木造部分も腐敗させ、積み荷に腐敗臭を付けてしまう。亜麻の繊維から織った「リノフェルト」やコルクは高価であるためあまり広まらなかった。グラスウールやポリスチレンなどの第二次世界大戦後に導入された合成材料は安価で一般に使用された。扉に開き戸を用いる車両が多い。これは、通常の有蓋車のように引き戸を使用すると気密構造を作るのが難しく、保冷性に難があるからである。ただし、有蓋車兼用の車両の中には引き戸を採用したものもある。また、より新しい冷蔵車の中には気密構造と取り扱いやすさ、開口部の面積の大きさを両立できる、プラグドアを採用したものがある。車体は、初期には木造が多かったが、多くの貨車と同じように後に鋼製が主流となった。氷槽冷却式では水分を使用すること、場合によっては塩水を使うことから腐食は常に大きな問題であった。このため、後期の冷蔵車には内装をステンレスにしたものがある。また車体そのものをアルミニウムやステンレスで製造した車両も存在したが、コスト面で普及しなかった。氷槽式の車両では、氷が融けた水を流しだすため車体中央部の床が低くなっており、床下へドレン管が取り付けられていた。このドレン管についても気密構造が考慮されている。車内には積み荷に応じて様々な装備がある。たとえば肉類を輸送する車両では肉を吊るレールやハンガーが天井付近に設置されていたり、箱入りの荷物を床置きする車両では排水と冷気の循環をよくするためにすのこが設置されていたりする。アメリカでの一般的な冷蔵車の運用方法を示す。通常一かたまりの車両をまとめて取り扱う。日本でも冷蔵車の運用は、アメリカと基本的には同じである。日本では鮮魚輸送が中心であるため、主に漁港のそばに常備駅が定められており、そこで荷を積載して市場へ輸送し、空車で再び常備駅へ返送される運用であった。後に貨車の配備事務が改善されると、特に常備駅を定めずに広い範囲で共通して冷蔵車を利用するようになった。さらに特急鮮魚貨物列車に関しては、旅客列車と同様の厳密な運用が定められていた。鮮魚輸送では、着駅変更・着駅留置ということが行われていた。着駅変更とは、冷蔵車で鮮魚を発送してから、市場の相場の状況を見て目的地を変更するというものである。着駅留置とは、市場の駅に到着時点で相場が荷主にとって好ましくない水準であった場合に、市場の側線に冷蔵車を倉庫代わりに留置しておいて、相場が上がってから出荷するというものである。運転手とエンジンが必ず対になる冷蔵トラックでは、市場で倉庫代わりに利用することはコスト的にほとんど不可能であり、また市場の冷蔵倉庫は国鉄の冷蔵車を留置しておく費用(留置料)に比べて高かったため、鉄道による鮮魚輸送の大きなメリットとなっていた。一方でこのような極めて柔軟な運用を要求されることは、列車の運行計画・車両の配車計画が立てづらく、輸送当局にとって悩みの種であった。特急鮮魚貨物列車では厳格に運用が定められているため、着駅変更・着駅留置はできず、これがその速達性にも関わらず一時期不人気であった原因であった。日本では氷槽の利用がほとんど行われなかったので、その場合出発時の氷の搭載作業は省略される。さらに輸送距離が短かったため、在日米軍向けの一部の例外を除いて、氷槽使用の場合でも途中駅での氷の補給作業はなかった。車両の洗浄は主に到着駅で行われていた。貨車使用後の現状復帰は荷主の責任というのが原則であったが、冷蔵車の場合は食品を扱う性格上特に厳重な洗浄が求められることもあり、国鉄が委託した業者が行うことが多かった。ホースで水を流して洗う作業には水道代が嵩み、東京市場駅では海水を汲み上げて浄化し洗浄用に供給する仕組みが備えられていた。鮮魚貨物列車の場合は運用が厳しく、短い折り返し時間の中で急いで行わなければならない作業となっていた。アメリカでは南北戦争後、グレートプレーンズで生産された家畜類を東部の市場へ送る上で、シカゴが鉄道の一大拠点として発展した。市場の要求に応じて、家畜の群れは約1,200マイル(約2,000km)を歩いて移動させられ、カンザスシティのターミナルで家畜車に載せられて、生きた状態で加工場へ輸送された。大平原を家畜を歩いて移動させることは、体重を著しく減少させ、途中で死亡してしまうこともあった。加工場に到着すると、家畜は屠殺されて精肉が近くの肉屋で市販に回されるか、輸送用に燻製や塩の樽に詰められる形で加工された。家畜の重量の約60パーセントは食用に適さない部分であるため、生きたまま家畜を鉄道で輸送することはコスト面での問題が大きかった。家畜が長い輸送で死亡すると、さらに輸送単価は上昇した。精肉業者のグスタフス・フランクリン・スウィフト()は、シカゴの精肉工場から東部の市場へ、加工済みの精肉を輸送する方法を検討し始めた。19世紀中頃には、農産物を鉄道で輸送する試みが多々行われた。マサチューセッツ・ウエスタン鉄道()では傷みやすい品物を腐らせることなく運ぶことのできる画期的な貨車を開発していると、1842年(和暦は天保13年)6月15日のボストン・トラベラー紙(Boston Traveler)で報じられている。最初の冷蔵車は1851年(和暦は嘉永4年)6月、ニューヨーク・ノーザン鉄道(NRNY: 、後のルトランド鉄道()の一部)で運行を開始した。この冷蔵車は寒冷な天候でしか機能しなかったため部分的にしか成功を収めなかった。同年、オグデンスブルグ・アンド・レイク・シャンプレイン鉄道(O&LC: Ogdensburg and Lake Champlain Railroad)は、氷で荷物を冷やす機能を付けた専用目的の車両を使ってバターをボストンへ輸送し始めた。シカゴ・ストックヤード(、シカゴにある大きな精肉処理施設)から最初の精肉が鉄道で出荷されたのは1857年(和暦は安政4年)のことで、通常の貨車を改造して箱に氷を詰められるようになったものを利用していた。氷と肉を直接接触させることは、変色や味の変化をもたらして実用的ではないことが分かった。同時期にスウィフトは、ドアを取り外した貨車を冬期に走らせるという方法で、グランド・トランク鉄道(GTR: )によりニューヨークへの精肉の試験出荷を実施した。しかしこれは実用的に用いるには制限がきついものであった。デトロイトのウィリアム・デーヴィス()は、氷と塩を用いた冷却剤と肉類を金属製の棚で隔てる冷蔵車の特許を取得した。彼は1868年(和暦は慶応3年)にこの特許をデトロイトの精肉業者ジョージ・ハモンド(George H. Hammond)に売却した。ハモンドはこの方式の車両を実際に製造し、五大湖から採取した氷を冷却に利用して彼の製品をボストンへ輸送した。この車両は高速でカーブに進入すると、積み荷が一方に片寄る傾向があり、何回かの脱線事故を起こして使用が中止された。1878年(明治11年)にスウィフトは技術者のアンドリュー・チェイス(Andrew Chase)を雇って、天井部に氷を入れられるようにして、冷たい空気が自然に下に降りてくるような、外気と遮断された車両を設計させた。肉はきつく荷造りされ車両の床に置かれて重心を下げるように配慮され、また片寄りが生じないようにしていた。チェイスの設計は精肉用の保冷車両として実用的であることが証明され、スフィフトの会社はアメリカ全体、そして国際的に商品を販売することができるようになった。スウィフトはチェイスの設計を多くの鉄道会社に売り込もうとしたが、これは失敗した。冷蔵肉輸送が広く受け入れられると、これまで鉄道会社が多大な投資をしてきた、動物を生きたまま輸送するための貨車や飼育施設が無駄になってしまうことを恐れたためであった。このため、スウィフトは自分自身で投資して冷蔵車を製造して運行しようとした。アメリカの多くの鉄道会社がその運行を拒否すると、スウィフトは生きた動物の輸送をほとんど行っていなかったグランド・トランク鉄道と契約してミシガン州まで運行し、そこからカナダを経由して東へ輸送するということを行った。1880年(明治13年)、ペニンシュラー車両会社(、後にアメリカン・カー・アンド・ファウンドリー(ACF: )に買収された)から最初の冷蔵車が届けられ、スウィフト・リフリジレーター・ライン(SRL: Swift Refrigerator Line)が開業した。年内に同社の所有車両は200両を突破し、スウィフトは毎週平均3000頭分の精肉をボストンへ輸送した。競合する精肉業者、アーマー・アンド・カンパニー()もすぐにこれに追随した。1920年(大正9年)までにSRLは7000両の冷蔵車を所有するようになっていた。食品を冷却して長く保存するために氷を用いることは先史時代にまでさかのぼる。中国、古代ギリシア、古代ローマなど、多くの文化で寒い季節に雪や氷を調達して洞窟などにわらかそのほかの断熱材を使って保存しておく習慣があった。氷を使用することにより暑い季節でも食品を保存することができるようになり、この慣習は長く続けられた。19世紀を通じて、池や湖から調達された天然の氷が冷蔵車に使用された。高山地帯や緯度の高い場所では、1フィートほどのタンクに水を入れておき凍らせるという方法も用いられた。氷は冬のうちにブロックに切断され、おがくずや干し草で覆われて倉庫に保管された。19世紀後半の木造冷蔵車は、250マイルから400マイルを走るごとに氷を補給する必要があった。20世紀に入る頃、氷の生産はさらに一般的になった。例えばこの頃、パシフィック・フルーツ・エクスプレス社(PFE: )は7つの天然氷の採取施設と18の人工氷製造施設を稼動させていた。PFE社の最大の施設はカリフォルニア州ローズビルにあり、毎日1,200米トンの氷を生産していた。またローズビルの施設では毎日254両の冷蔵車に氷を積載する能力があった。氷を用いた冷蔵車輸送の最盛期には、毎年1300万米トンの氷が冷蔵車用に生産されていた。トップ・アイシング(Top Icing)とは、呼吸率が高く高い湿度を必要とする農産物向けに、積み荷の直接上に(または個別の箱の中に)2インチから4インチの砕いた氷の層を作る方式である。事前によく冷やされた生鮮食料品は車両に搭載されて出荷直前になってから、氷を上に載せた。トップ・アイシングを行うと食品にかなりの重みを加えることになるからである。40フィートサイズの冷蔵車ではトップ・アイシングを行うために10,000ポンドの氷を必要とした。トップ・アイシングは、融けた氷から垂れる冷水が積み荷の間を滴り落ちることで、全体を冷やすことを期待したものであった。しかしながら、トップ・アイシングで冷やせるのは積み荷の上部だけであり、多くの冷水は積み荷ではなく積み荷の箱の間を流れ落ちてほとんど冷却効果がないということが分かった。トップ・アイシングは単に冷蔵車内の温度を上昇させないということにだけ効果があるものと分かったため、トップ・アイシングの利用は中止になった。20世紀後半になると、機械式冷凍装置が氷の冷却装置を置き換えるようになった。機械式冷凍装置により、氷を補給するために必要な人員を削減することができた。1960年代になると、より大きな開口部を確保し積み荷を出し入れしやすいプラグドアが導入された。きつく閉じることができるドアを使うことで、車内の保温をより効果的に行えるようになった。1970年代中ごろまでには、残っていた氷を使う冷蔵車はトップ・アイシングの目的にのみ使われるように格下げされた。アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道のトピカ工場では、1965年(昭和40年)に5両の液体窒素を冷却材に使用する実験車を製造した。車内の温度があらかじめ設定された一定の温度を超えると、霧状になった液体窒素が車内に放出される。車両には3,000ポンド(1,360kg)の冷却材が搭載され、マイナス30度を保つことができた。1990年代には、いくつかの車両製造会社が実験的に液体二酸化炭素を冷却材に使用することを行った。燃料費の上昇と、機械的冷凍装置の定期的なメンテナンスの問題から、こうした冷却材への移行が行われた。二酸化炭素を利用したシステムでは、積み荷を14日から16日間冷却し続けることができる。超低温冷蔵車は数百台ほど配備され冷凍食品を輸送するために用いられている。ただし、液体二酸化炭素の価格上昇などの理由によりそれほど普及しなかった。超低温冷却は既に確立した技術で、環境にもやさしいため、今後の燃料費の上昇や京都議定書の関係で導入される二酸化炭素回収技術の進歩によっては、超低温冷蔵車の復活もありえる。クライオ・トランス社(Cryo-Trans, Inc.、1985年(昭和60年)設立)は、所有する200両ほどの超低温冷蔵車をワイン輸送に用いている。日本における冷蔵車の歴史はアメリカのものと大きく異なるため、特に別に記す。日本では1908年(明治41年)に最初の冷蔵車が鮮魚輸送用として登場した。漁業の発展に伴い陸揚げした魚介類を大消費地へ輸送する需要があったためである。鮮魚輸送用にはトップ・アイシングのような、木箱や発泡スチロール箱に魚と一緒に砕いた氷を入れる(「抱き氷」)方法が一般的であり、氷槽を備えた車両も多数存在したがあまり氷を入れて用いられることはなかった。一方、アメリカで冷蔵車の利用の中心であった果物や肉類の輸送は、日本では普及しなかった。これは、果物や野菜に関しては輸送距離が短いため通風車で十分であるためであり、肉類に関しては保冷度が強く要求されて、主要都市が沿岸部にあることもあり、早期に冷凍機を備えた冷蔵船に置き換えられてしまったためである。第二次世界大戦により冷蔵車はかなりの打撃を受け、さらに戦後は進駐軍が食料輸送用に質のよいものから冷蔵車を接収したため鮮魚輸送は混乱することになった。ただし、進駐軍はアメリカ流の冷蔵車の運用を持ち込んだため、日本ではあまり用いられていなかった氷槽を利用した氷冷却が広範囲に実施され、途中駅での氷補給も行われた。アメリカからの補給物資の多くが横浜港に陸揚げされたため、接収された冷蔵車の多くが東横浜駅常備とされ、そこから全国の米軍部隊への輸送が行われた。戦後しばらくして冷蔵車の事情が改善してくると、戦前と同様に鮮魚輸送に活発に利用されるようになった。様々な新形式が投入され、1966年(昭和41年)にはレサ10000形、レムフ10000形を利用した特急鮮魚貨物列車の運行が開始された。一方で、次第にトラック輸送に押されるようになり、1960年代後半をピークに冷蔵車は急速に減少し始めた。1970年代に頻発したストライキが、鮮度の重要な鮮魚輸送の信頼性を著しく落としたことも影響している。最終的に1986年(昭和61年)に最後の冷蔵車が冷蔵コンテナに置き換えられて、日本での冷蔵車の歴史が終わった。日本では輸送量の小ささから2軸車が主力で、ボギー車はかなり後になるまで製作されなかった。日本の冷蔵車は総製作両数が8100両程度に留まり、最大の1960年代後半でも5000両程度の在籍しかなく、アメリカの冷蔵車に比べると非常に数が少なかった。鮮魚輸送が一般的でそれほど低い温度を実現する必要性がなかったこともあり、冷凍機付きの冷蔵車は一部の実験的なものに留まり、実用冷蔵車は保冷機能のみであった。また欧米で広く発達した冷蔵車の私有貨車制度が日本では全く発達せず、進駐軍に接収されたものを除けば、全て鉄道会社所有の車両であった。これは鮮魚輸送が国策で保護されて運賃が低廉に抑えられていたため、自前で車両を用意するインセンティブに欠けていたからである。戦後の混乱期に冷蔵車不足から一部の業者が冷蔵車の私有を検討したが、コストが高く、まもなく冷蔵車不足が解消に向かったこともあり実現しなかった。標準的な冷蔵輸送は主に、14日以内の消費を目安にしたものに用いられる。アボカド・切り花・緑葉野菜・レタス・マンゴー・肉製品・マッシュルーム・桃・ネクタリン・パイナップル・パパイヤ・さくらんぼ・トマトなどである。急行冷蔵車は7日以内の消費を目安にしたものに用いられる。血液・魚・ねぎ・牛乳・いちご・一部の薬品などである。初期の急行冷蔵車は1890年頃に運用に入り、まもなく北アメリカで急行輸送ルートが確立された。20世紀に入るまで一般的に用いられるようにはならなかった。急行用に設計された車両は標準用のものと比べて大きく、貨車としてよりは荷物車としての装備を保有していた。速度に応じた台車とブレーキを備え、客車列車の前に連結される場合には、空気ブレーキ用の空気管と蒸気暖房用の蒸気管も備えていた。急行冷蔵車はプルマン・カーの緑のように、客車と同じ塗装をしていた。最初の急行冷蔵車はエリー鉄道のサスケハナ工場(Susquehanna Shops)で1886年(明治19年)8月1日に製造された。1927年(昭和2年)までには急行冷蔵車は2,218両に達し、1930年には3,265両になった。1940年(昭和15年)には鉄道会社が独自の急行冷蔵車の製造と運行を行うようになり、レールウェイ・エクスプレス・エージェンシー(REA: Railway Express Agency)が最大のものであった。1948年(昭和23年)には同社の所有車は1,800両に達した。その多くは第二次世界大戦で兵員輸送用に用いられた"troop sleeper"を急行冷蔵車として改造したものであった。1965年(昭和40年)には、冷蔵輸送の減少に伴って、多くの急行冷蔵車は郵便輸送用に転用された。1930年代、ノース・アメリカン・カー・カンパニー(North American Car Company)はユニークな氷槽式の2軸冷蔵車を、フルサイズの冷蔵車を満杯にするだけの出荷量のない事業者向けに製造した。NADX #10000型は全長22フィートの全鋼製車体で、ヨーロッパで第一次世界大戦期に用いられたフォーティー・アンド・エイト(40人の兵士か8頭の馬を乗せることができたことから名前を付けられた貨車)に似ていた。初期型は13.5トンの重量で、両端に1,500ポンドの氷槽を備えていた。この車両はホーメル社()にリースされ、シカゴと南部アメリカの往復輸送に用いられた。このアイデアは東部の大鉄道会社には受け入れられず、追加の製造は行われなかった。ただし、これはアメリカでの事情であり、日本においてはむしろ2軸冷蔵車が中心であった。これは輸送量の小ささを反映したものである。SFRDでは、1931年(昭和6年)にドライアイスを冷却材に使用することをテストした。ドライアイスは手に入れやすく、氷を置き換えるのに理想的であると思われた。ドライアイスは-78.33度で融け、0度で融ける氷に比べて2倍程度効率的で、水の重量分を軽くすることができた。ただ、氷に比べて高価で、長い貨車の列に効率的にドライアイスを搭載する方法が難しく、氷を置き換えることはできなかった。その上、一部の食品ではドライアイスの近くに置くと臭いや色に影響を与えるということも分かった。1933年(昭和8年)には、日本国鉄がドライアイス冷却専用車レ2500形を製作した。実際に輸出用の冷凍魚の輸送に使用されるなどの実績を上げたが、第二次世界大戦に突入してドライアイスの生産が停止されたため通常の冷蔵車として転用された。大戦後は多くの冷蔵車や冷蔵コンテナで棚を設けて、そこにドライアイスを搭載して冷却するということがかなり広く行われるようになり、ドライアイス冷却が普及しなかったアメリカとは対照的である。1946年(昭和21年)に、PFE社はカリフォルニア州ウィルミントン(Wilmington)にあるコンソリデーティッド・スティール・コーポレーション()から2両の40フィート アルミ車体冷蔵車を、鉄製車体の車両と軽合金の車両がどれくらい耐久性に差があるかを比較するために導入した。この車両は同サイズの鉄製車両に比べて1万ポンドほども軽かったため、軽量であることと腐食しないことのメリットが初期費用を相殺すると期待されていた。1両のアルミ車体(PFE
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