バタビア沖海戦(バタビアおきかいせん)とは太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年3月1日、日本軍と連合軍との間で行われた海戦。日本海軍艦隊とABDA連合艦隊の夜戦。連合軍側の呼称はスンダ海峡海戦(Battle of the Sunda Strait)。1942年(昭和17年)2月下旬、連合軍の東南アジア防衛線は完全に崩壊し、日本軍は連合軍の重要拠点ジャワ島攻略作戦を発動した。オランダ海軍カレル・ドールマン少将は連合軍残存艦艇を率いて日本軍輸送船団撃滅を企図したが日本海軍護衛艦隊に撃退され、ドールマン少将は戦死した(スラバヤ沖海戦)。連合軍艦隊に加わっていたアメリカ海軍重巡洋艦1隻、オーストラリア海軍軽巡洋艦1隻、オランダ駆逐艦1隻は戦場から退却後、ジャワ島とボルネオ島間のスンダ海峡を通過して南方への脱出を試みる。しかし3月1日未明、ジャワ島西方にて上陸作戦中の日本軍輸送船団と水雷戦隊と遭遇、迎撃されて2隻とも撃沈された。蘭駆逐艦は座礁して喪失した。日本海軍は誤射で輸送船数隻を失ったが、ジャワ島攻略作戦への影響は最小限だった。1942年(昭和17年)2月27-28日のスラバヤ沖海戦(昼戦、夜戦)でドールマン少将ひきいる連合軍艦隊は、ドールマン少将の戦死と軽巡「デ・ロイテル」「ジャワ」と駆逐艦数隻の喪失により、統制を失った。残存艦隊のうち、アメリカ海軍の重巡洋艦「ヒューストン」とオーストラリア海軍の軽巡洋艦「パース」は、スラバヤ沖海戦で戦死したドールマン少将の最期の命令により先任の「パース」艦長の指揮下でジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)に撤退し、2月28日朝、バタビアに到着した。しかし、バタビアは最早連合軍にとって安全な場所ではなく、戦力の再編成を行うためにABDA司令部よりスンダ海峡経由でジャワ島南岸のチラチャップへ移動する命令が下された。2月28日夕刻、寄港から僅か半日で「ヒューストン」と「パース」の2隻が出港した。オランダ海軍の駆逐艦「エヴェルトセン(戦史叢書ではエヴェルツェンと表記)」が護衛するはずであったが、出撃準備が間に合わず、後から続くこととされた。しかし遅れて出港した駆逐艦「エヴェルトセン」は、先行部隊が交戦しているのを目撃し、圧倒的な日本艦隊との接触を避けて海峡を通過しようとした。その後、先行部隊が壊滅した約1時間半後に日本軍に捕捉されて大破し、サブク島の海岸に擱坐して失われた。一方、日本軍は2月18日に今村均陸軍中将率いる第16軍が西部ジャワ島攻略(蘭印作戦)のため輸送船56隻に分乗し、カムラン湾を出撃していた。これを護衛するのは第五水雷戦隊司令官 原顕三郎少将指揮の第三護衛隊(軽巡2、駆逐艦15、水雷艇2、掃海艇5、その他3、計27隻)であった。これに加えて西方支援隊として第七戦隊(司令官栗田健男少将)の最上型重巡洋艦4隻(第1小隊《熊野、鈴谷》、第2小隊《三隈、最上》)、第19駆逐隊の駆逐艦2隻が間接支援を行っていた。2月27日、重巡熊野水上偵察機が「連合軍艦隊が輸送船団に接近中」と報告したが、連合軍艦隊との決戦をのぞむ第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将(軽巡洋艦名取座乗)と、敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将(熊野座乗)は一日近く電文の応酬をくりひろげた。みかねた連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令し、仲裁に入る一幕もあったほどである。第七戦隊(栗田司令官)の行動について小島秀雄(海軍少将)は『あとで第七戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。先任参謀いわく、軍令部に、第七戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。大事にしてくださいと言われて、後におるやつがあるものか』と批評している。結局、第7戦隊の第1小隊は海戦に参加することはなかった。日本艦隊は3月1日午前0時を期してあきつ丸以下の船団がメラク湾に、神州丸以下の船団がバンダム湾にそれぞれ入泊、上陸作戦を開始した。海戦当日の月齢は13、非常に明るい夜であったという。第三護衛隊(司令官:原顕三郎少将))西方支援隊上陸船団ABDA連合部隊先行した2隻の連合軍巡洋艦隊(パース、ヒューストン)は、途中のジャワ島バンタム湾(バビ島)付近に差し掛かったとき、前方に日本軍の神州丸以下の輸送船団を発見した。付近に護衛艦艇を発見できなかったことから、両艦はこれを攻撃すべく、バビ島の東側をまわって「パース」-「ヒューストン」の単縦陣で突撃を開始した。しかし、既に両艦は3月1日0009(0時9分、以下時間は数字表記のみ)、バビ島西方で哨戒を行っていた第11駆逐隊の駆逐艦「吹雪」に発見されていた。「吹雪」は2隻の後方8,000mを追尾、敵艦の行動を逐一護衛司令部に報告していた。一方、セントニコラス岬沖合いで哨戒中だった原司令官座乗の軽巡「名取」、第11駆逐隊(初雪、白雪)も0018、東方2万mに敵艦を発見する。更に0029、パンジャン島沖合いを哨戒中の駆逐艦「春風」(第5駆逐隊)も距離8,000mで敵艦を発見、通報する。しかしこの時点においても連合軍の2艦は未だに日本軍の護衛部隊を発見しておらず、突撃を続けていた。原司令官は一刻の猶予も無いと判断、第三護衛隊全艦に対して集結命令を出すと、北方沖合を哨戒中だった西部支援隊の第七戦隊第2小隊(重巡《三隈、最上》)、駆逐艦「敷波」(第19駆逐隊)に対しても集合するよう命じた。続いて「名取」と第11駆逐隊に「魚雷戦用意」を下令、また第5駆逐隊(春風、旗風、朝風)に集結を命じた。原司令官は迎撃準備を整える一方、敵が味方重巡の出現により形勢不利と考えて遁走することも警戒していた。従って戦闘は「名取」と駆逐隊で敵艦を広い海面に誘い出し、味方船団からも引き離した上で一挙に戦力を集中して撃滅する、という方針を立てた。しかし、そうこうしているうちに「パース」と「ヒューストン」は日本軍輸送船団に接近、0037まず「パース」が照明弾を発射する。これに続いて「ヒューストン」が輸送船に対して主砲で砲撃を始めたが、遠距離砲戦のため命中弾はなかった。一方、連合軍はようやく後方に艦がいることに気づいた。「パース」が発光信号で誰何を行った直後の0044、後方を追尾していた駆逐艦「吹雪」が距離2,500mで「ヒューストン」に対して魚雷9本を発射し、更に12.7センチ主砲を16発発射した(吹雪は魚雷命中と誤認)。これに対して2隻(パース、ヒューストン)は面舵で急旋回を行い魚雷を回避しつつ、照射砲撃で反撃したが、「吹雪」は煙幕を展張して避退した。また船団に対する2隻(パース、ヒューストン)の砲撃開始と『敵機吊光投弾ヲ投下ス』を見た「春風」(第5駆逐隊司令駆逐艦)が連合軍2隻(パース、ヒューストン)と船団の間に割って入り、0037から0057にかけて煙幕を展張した。この煙幕は当時まだレーダーを装備していなかった連合軍艦船に対して極めて有効に働き、これによって連合軍の両艦は船団砲撃が出来なくなった。原司令官も敵艦の味方船団への砲撃開始を確認した直後の0045、これを救援すべく麾下の第5駆逐隊と第11駆逐隊に対して「駆逐隊突撃せよ」と下令した。しかし船団傍にいた第5駆逐隊の「旗風」は敵艦との距離が3,500mまで近接しており、0052照射砲撃を開始したが12センチ砲4門では巡洋艦2隻の相手にはならず、反撃を受けて避退、一旦集結地点へ向かい北上した。5駆(春風、旗風、朝風)は0102、セントニコラス沖北方約10kmの海上で合流すると単縦陣となり、突撃を開始した。原司令官の突撃命令にともない、各駆逐隊は各々敵艦に向けて突撃を仕掛けた。0110、まず第11駆逐隊(初雪、白雪)が距離3,500mまで接近すると魚雷を各艦9本、計18本を発射すると煙幕を展開して北方に避退した。第5駆逐隊(春風、旗風、朝風)は0110に右舷同航の態勢で魚雷を発射しようとしたが、「春風」は被弾して舵故障(春風艦長古要桂次少佐は、魚雷発射失敗のため回頭と回想)、「旗風」は至近弾の水柱で発射できず、0113「朝風」のみ距離3,700mで魚雷6本を発射した。旗艦「名取」は0113に照射砲撃を開始、1分後に右同航戦で魚雷4本を発射すると「発射終了セルモノハ名取ニ合同セヨ」と下令、煙幕を展開しながら北方へ避退した。同時刻、それぞれ戦場に到着した各艦(三隈、最上、敷波、白雲、叢雲)は敵艦との距離をつめつつ、襲撃の機会をうかがった。敷設艦「白鷹」は南下すると0056から戦闘に加入し、0114に命中弾を記録した。「名取」と第11駆逐隊は北方へ離脱しつつ魚雷の次発装填を急ぎ、第12駆逐隊(白雲、叢雲)は急速に東進、また第一撃で射点を逸して魚雷を発射できなかった「旗風」「春風」は再度の襲撃運動に入っていた。0116、重巡「三隈」は水上偵察機1機を射出した。三隈艦長崎山釈夫大佐の報告によれば全機発進を命じたものの、2号機と3号機が接触事故を起こし、1号機しか発進できなかったという。0119、第七戦隊(三隈、最上、敷波)が戦闘に参加する。まず、距離11,200mから七戦隊(三隈、最上)はそれぞれ6本(計12本)の魚雷を発射するが、そのまま直進するとバビ島にぶつかるため、左に反転した。0122、距離11,000mで照射砲撃を開始、連合軍艦隊2番艦(ヒューストン)に砲撃を集中した。「ヒューストン」は次々と命中弾を受け次第に速力が低下し始めた。しかしここで「三隈」の主接断器に故障が生じ探照灯等の電気系統が麻痺、主砲射撃が出来なくなった。「三隈」に続行する「最上」のみ砲撃を続け、0127に魚雷6本を発射する。「三隈」の電気系統故障は0130に復旧、「我今ヨリ敵ノ止メヲ刺ス」と全軍に電報したのち、2番艦(ヒューストン)に9,000mから照射砲撃を開始した。第5駆逐隊は敵艦から砲撃に悩まされつつ、戦闘を続けた。「春風」は0126に魚雷6本を「パース」に向け発射、2分後に命中とおぼしき水柱を確認した。ただし古要(春風艦長)は、発射した魚雷は日本軍輸送船団の方に疾走したと回想している。「旗風」は0128に距離3,800mから魚雷6本を発射、「朝風」と共に西方に避退した。これも「パース」に命中する。「パース」はこれにより航行不能となった。第12駆逐隊(白雲、叢雲)は敵艦に接近、「叢雲」は01300に魚雷9本を発射、つづいて照射砲撃を実施した。「名取」は0130に距離8,000mで照射砲撃を開始、さらに第11駆逐隊(白雪、初雪、吹雪)、第12駆逐隊(白雲、叢雲)、第5駆逐隊(春風、旗風、朝風)を呼び寄せて0200までに単縦陣を形成すると、南進して「ヒューストン」を目指した。日本側では「敷波」が至近弾によりスクリューに軽微な損傷を受けた。0130以降の第七戦隊や各駆逐艦の砲撃雷撃により、連合軍巡洋艦2隻(パース、ヒューストン)は沈没寸前となっていた。0142、被雷した「パース」は急速に沈没していった。682名(士官45名、水兵631名とも)の乗組員のうち、ウォーラー艦長を含む353名が戦死(士官23名、兵329名とも)、100名(105名とも)が捕虜生活中に死亡、229人が帰国した。残った「ヒューストン」は15ktで走っていたが、機関室への命中弾で機関科兵員が全滅、次々と命中する敵弾により既に主砲は沈黙し、僅かに数門の高角砲が火を吐くだけになっていた。日本軍はこの艦に対し手を緩めず攻撃を続け、「ヒューストン」艦内は大混乱に陥った。この時点で既に被雷4本以上、被弾50発以上の損害を受け浮いているのが不思議な状態であった。0156、「ヒューストン」の主砲が沈黙したことを確認した第七戦隊第2小隊(三隈、最上)は砲撃を中止、続行していた「敷波」を分離して「ヒューストン」に止めをさすことにした。三隈水雷長が「敷波は魚雷を発射していないようだから撃たせてはどうか」と進言した為である。「敷波」は0159に「ヒューストン」へ向け九〇式魚雷を1本発射。「敷波」は更に「ヒューストン」に銃砲撃を加えた。「ヒューストン」では既に艦長A・H・ルックス大佐が戦死しており副長が指揮を代行していたが「敷波」の魚雷命中を受けて総員退去命令が下された(総員退去命令後、艦橋への直撃弾で艦長戦死とも)。そして0206、「ヒューストン」は転覆、艦尾から沈んでいった。「ヒューストン」乗組員は1008名中、368名が日本軍に救助されたが、そのうち76名は収容所内で死亡、266名が戦後帰国した。日本艦隊は救助した捕虜から「パース」と「ヒューストン」の艦名を知った。海戦自体は約2時間の戦闘で連合軍巡洋艦2隻撃沈、日本軍の損害軽微(白雪、春風、敷波小破)と日本海軍の一方的な勝利に終わったが、0135パンジャン島南方で日本軍輸送船団を直衛していた第二号掃海艇が突然右舷缶室に魚雷1本の直撃を受け、艦体切断したのち転覆した。戦死傷者約40名。0138に陸軍輸送船の「佐倉丸」(日本郵船、9,246トン)の左舷4番船倉に魚雷1本が命中、さらに0200頃に左舷機関室に魚雷1本が命中し沈没。0140に陸軍病院船の「蓬莱丸」(大阪商船、9,192トン)の左舷機関室に魚雷1本が命中し、横転着底した。また、陸軍輸送船の「龍野丸」(日本郵船、7,296トン)が魚雷を回避中に座礁するという損害が出た。第16軍司令官今村均中将座乗の陸軍特殊船(揚陸艦)「神州丸」にも魚雷が命中して、同艦は大破着底した。今村中将は海上へ投げ出され、漂流後0430に救助された。第16軍司令部首脳に被害はなかった。また揚陸作戦・攻略作戦全体に大きな影響はなかったものの、第16軍司令部は「龍城丸」沈没と無線機喪失による不便に堪えねばならなかった。今村中将は「極く強い電光をかがやかして湾内をかけめぐる2隻の高速魚雷艇」に撃沈されたと回想している(後述参照)。日本海軍では海戦直後から原因調査したが、連合軍艦艇から魚雷が発射された形跡も無く、また他に敵影も見られなかった。そして輸送船の被雷時刻、射線方向、爆発の威力から第七戦隊(最上)が0127に発射した魚雷(第二次発射)が敵艦に命中せず、そのまま射線延長線上の輸送船団に到達した可能性が高いことが判明した。一部文献では、「吹雪」が発射した魚雷が「龍城丸」等を撃沈したとする。更に陸軍の上陸点付近で九三式魚雷の尾部が引き上げられる事態に至り、第三護衛隊司令部は原因は味方の誤射と判断。今村中将に対して護衛隊司令部一同が謝罪することになった。謝罪をうけた今村司令官はこれを快く受け入れると、この事件に関しては敵魚雷艇の損害とすることを提案、海軍の顔を立てた。護衛隊司令官の原少将はこの後、この海戦の戦訓所見として「輸送船団至近ノ海面ニ於ケル戦闘ニシテ、シカモ多数ノ夜戦隊挟撃ノ態勢ニ於ケル魚雷戦ニ於イテハ、射線方向ニ対シテ特ニ深甚ノ注意ヲ要ス」と戦闘詳報に明記している。『太平洋の試練』では「比較的狭い海域でこれほど多数の魚雷を発射すれば、背後の輸送船団に命中するのは当然だ」と評している。なお1942年(昭和17年)12月8日附で山本五十六連合艦隊司令長官は3隻(三隈、最上、敷波)に対し、バタビア沖海戦における戦闘について「各隊協力善戦奮闘シ遂ニ敵ヲ殲滅シテ克ク護衛ノ任ヲ全フセルハ功績顕著ナリト認ム」として感状をおくられた。だが「三隈」はすでにミッドウェー海戦で沈没、三隈艦長崎山釈夫大佐も戦死していた。3月1日0330、第12駆逐隊(白雲、叢雲)はソワートウェー島西方約5浬で駆逐艦「エベルツェン」を発見、砲撃を行った。「エヴェルツェン」は煙幕を展開して逃走後にセグク島で擱座、夕刻に爆発して失われた。12駆(白雲、叢雲)が「エベルツェン」を撃破した頃、第11駆逐隊(初雪、吹雪)はバビ島南方を航行中の5000トン級給油船を砲撃して撃沈した。第七戦隊司令官栗田健男少将が率いる第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)、第19駆逐隊(浦波、磯波)はバタビア沖海戦の後、3月4日0100に地点で七戦隊第2小隊(三隈、最上)、第四航空戦隊(龍驤)と合流、5日1900にシンガポールへ帰投した。同じ3月1日昼過ぎには、重巡「エクセター」と駆逐艦2隻(ポープ、エンカウンター)も撃沈されており、ABDA連合艦隊の主力は失われた。スラバヤ沖海戦に参加した艦艇のうち脱出に成功したのは、バリ海峡の突破に成功したアメリカ海軍の駆逐艦4隻のみだった。その他、多くの小艦艇がオーストラリアやセイロン島を目指し脱出を試みたが、アメリカ駆逐艦「エドソール」や給油艦「ペコス」のよう撃沈される艦もあった。アメリカ海軍の軽巡2隻は大破して本国に回航され、生き残った。またイギリス軽巡2隻とオーストラリア軽巡1隻を中核とした部隊があったが、戦闘に参加しないまま早期にスンダ海峡を突破して脱出した。第16軍は3月1月、ジャワ島各所に上陸し、9日にはオランダ軍が降伏。10日にジャワ島の要地バンドンを陥落させて蘭印を掌握した。本海戦に参加した各隊・各艦は3月4日以降、次作戦に備えてシンガポールやカムラン湾へ移動していった。なお、バンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊であるあきつ丸以下は、敵艦隊との遭遇も無く無事に上陸を成功させ帰路に就いている。その後、「神州丸」と「龍野丸」はサルベージされて修理された。「神州丸」は1945年(昭和20年)1月3日、台湾の高雄沖にて米機動部隊の空襲を受けて大破放棄され、漂流中に米潜「アスプロ」の雷撃を受け沈没した。「龍野丸」は応急タンカーに改装され、海軍徴用船となって行動し、1944年(昭和19年)1月15日にマニラから門司に向かう途中、ルソン海峡で米潜「スレッシャー」が発射した魚雷2本が命中し、轟沈した。
出典:wikipedia
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