SWS(エス・ダブリュー・エス、スーパー・ワールド・スポーツ)は、メガネスーパーがスポンサーとなり天龍源一郎を核に全日本プロレスと新日本プロレスなどから選手を集めて作られた日本のプロレス団体。メガネスーパーの豊富な資金を元に既存プロレス団体から選手を引き抜きを行い団体を作り上げ『黒船』としてプロレス界に激震を引き起こした。1989年にアメリカのWCWに参戦していたグレート・ムタ(武藤敬司)とマネージャーの若松市政、さらにケンドー・ナガサキらにアプローチしていた。ムタの獲得はかなわなかったが若松は後に入団。1990年に入ると新日本プロレスからの引き抜きを開始、同年4月には全日本プロレスを退団した天龍源一郎を獲得する。さらに当時全日本が提示した複数年契約に難色を示したグループもSWSに相次ぎ移籍、結果新日本と全日本から多くの選手を引き抜いたような体勢となった。それまでのプロレス団体とは違い、選手にかなりの高給を支払っていたことでも知られる。特にトップの天龍源一郎は、当時トップクラスのプロ野球選手落合博満並みの年俸だったとも言われる。旗揚げ戦は、1990年9月29日、天龍の出身地である福井県の福井市体育館にて『越前闘会始』のタイトルでプレ旗揚げ戦が行われ、10月9日と10日の2日間、神奈川県の横浜アリーナにて『闘会始'90』のタイトルで正式な旗揚げ戦が行われた。旗揚げ戦はテレビ中継され、木村匡也がラジオのDJ口調で実況した。1991年3月から1992年3月までWOWOWが月1回のペースで放映した。相撲にちなんだ部屋別制度を採用。大相撲出身の天龍ならではのアイデアと言える。この部屋同士の対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として、天龍源一郎率いる『レボリューション』、若松市政率いる『道場「檄」』、ジョージ高野率いる『パライストラ』の3つが置かれた。しかし、その部屋別制度が派閥争いを招き、事実上の単独エースである天龍率いるレボリューションと、それ以外の部屋とで主導権争いが生じた。他にも、北尾光司の八百長発言などトラブルが続き、さらには興行の不振など、さまざまな問題から短期間で崩壊を迎えてしまう。崩壊後は、引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした『レボリューション』所属選手主体のWARと反天龍派の『道場「檄」』、『パライストラ』所属選手主体のNOWの2つに分立した。団体としては短期間で崩壊してしまったが、それまで行われることがなかった、道場を解放しての道場マッチを低価格で開催したことや、新日本プロレスとの提携解消後、どの団体も実現しなかった、WWF(現:WWE)との提携でWWFのスター選手の招聘を実現するなど、短い期間の中でも特筆すべき活動をいくつか行っている。この節の出典当時ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の天龍をはじめ中堅選手とスタッフを多く引き抜かれた全日本プロレスは、一時崩壊の噂も流れた。しかし残留した三沢光晴・川田利明ら「超世代軍」と鶴田率いる「正規軍(のち聖鬼軍、読み方は同じ)」との抗争を軸に据え、残った選手の奮闘などもあって勢いを盛り返した。結果的に全日本の社長だったジャイアント馬場は1999年に没するまで、天龍以下の離脱組を再び全日本のリングへ上げる事はなかったが、天龍の全日本参戦をWAR社長の武井正智の主導で幾度か交渉をしたことがある。馬場は「全日本が困ったときには頼むかもしれないけど、いまはいいよ」と答えたこともあり、完全な絶縁関係ではなかった。新日本プロレスからも選手が引き抜かれたが、過去に第1次UWFや長州力ら『維新軍団(後にジャパンプロレスへ発展)』らの離脱など、度々大規模な離脱劇に見舞われていた事からこの手の事に慣れていた新日本フロントは早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している。同時に離脱したジョージ高野と佐野直喜に関しては法的措置を取った。SWSは、前述の武藤敬司のほかにもさらに藤波辰巳(現・辰爾)の獲得も狙っていたという。天龍と武藤の「2本柱」は、2002年に全日本プロレスで、川田利明の長期負傷欠場により一時的に実現している。なお1990年当時新日本所属であった橋本真也は、当時の週刊プロレスの取材に応じた際に「プロレスにお金を出してくれるヒトを悪く書いたら、これからスポンサーになろうと思っている人も逃げちゃいますよ」と答えスポンサーとしてのメガネスーパーの存在に対しては肯定的意見を述べていた。UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会『U-COSMOS』のメインスポンサーを務めるなど友好な関係だったこともあって選手引き抜きは行わなかったが、その縁からSWSはUWF選手の出場を計る。後に藤原喜明の貸し出しが発表されたが、それがUWF内部に選手とフロントの関係悪化を招き、第2次UWF崩壊とUWF分裂の遠因を作ることになった。最終的にUWFが分裂に発展し、藤原、船木誠勝、鈴木みのるらはメガネスーパーのスポンサード(事実上の傘下団体)を受けて新UWF藤原組(後にプロフェッショナルレスリング藤原組と改称)を旗揚げした。形式上のSWSとの業務提携を受けて、藤原組は当初「1か月のうち1週間をSWSが拘束し興行に参戦」する予定だったが、神戸大会で発生した鈴木対アポロ菅原戦での菅原の不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係に亀裂が入り、藤原組は年に数回SWSへ参戦するに留まる結果となった。後にNOW派のレスラーが次々と離脱し団体を旗揚げ、WARも活動停止後次々と出身レスラーが枝分かれしFMWやUWFと共に現在のインディペンデント団体乱立の遠因にもなったが、部屋別制度は違うスタイルのプロレスラーが対戦することから現在における団体対抗戦の先駆けになったとも言われている。SWS創立当時、これを批判的な論調で取り上げたのが「週刊プロレス」である。同誌編集長だったターザン山本は天龍と蜜月の関係であった小佐野景浩が天龍の全日本退団などをの情報を自分たちより早く得ていたことから天龍が小佐野経由で週刊ゴングに意図的にさまざまな情報をリークしていた物であると決めつけ天龍とSWSに対するバッシングを開始。「『プロ(=プロレス)はお金である』ということがはっきりした」と表紙に掲載するなど、批判的な論陣を張った。週刊プロレスが喧伝した『SWS=金権プロレス=悪』というイメージは、天龍源一郎の引き抜きならびにその後も続いた既存団体からの実質的な引き抜きにネガティブな印象を抱いていた多くのプロレスファンに支持され、SWSは厳しい立場に立たされることとなった。それでも旗揚げ当初からしばらくは、試合結果を始めとするSWSの情報も、正規の取材を行ったうえで「週刊プロレス」にも掲載されていた。プレ旗揚げ戦『越前闘会始』には、ターザン山本自らが現地に向かい取材を行ったが全日本時代の天龍革命のような凄みを感じられなかったことからか誌面にはネガティブな記述が多くなった。こうした状況が続いたことに、「プロはお金である」というバッシングの端緒になった評に対し「週刊プロレス」に直接反論も行った天龍源一郎は、「金で動いたとはいえない」などと答え、その一方で若松市政は「その『週刊プロレス』もSWSの情報を載せてくださる。ありがたいことです」と大人の対応も示していた。そんななか、SWSが初めて開催する東京ドーム大会の広告が、「週刊プロレス」誌上に掲載された。これは「週刊プロレス」がSWSの大会を扱ったものとしては初めて掲載したもので、広告のデザイン(レイアウト)は週プロ編集部で担当した、ファイティングポーズをとる天龍の口元の部分に、「ドームに夢を見よ」というコピーのうちの、「夢」という文字が入ったふきだしが被さったものだったのだが、天龍の口に黒いマスクをかぶせるように見えたことからSWSからクレームが入り、そのデザインを修正することになったが週プロ側のミスで修正前のデザインの広告が誌面に出てしまいこれに対し、今度はSWSが不快感を示し、これに関し「週刊プロレス」側は特に意図はないとしたが、SWS側は「悪意に満ちている」とした。この広告を巡るトラブルを契機に、SWSは「週刊プロレス」に対して取材拒否を通告。これを受けて「週刊プロレス」は直近の号で、真っ黒な背景に『2月15日の午後、SWS代表取締役の田中八郎より取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました。』と表紙に大書、誌面では事態の経緯とともに関係修復を試みている旨を記したものの、これより数週後の号の誌面で「SWSに関する一切の情報の掲載を控えさせていただきます」と山本の名前で回答、双方の関係は完全に決裂した。この取材拒否はSWS崩壊後、さらには後続団体のWAR創立当初まで続くことになった。天龍個人は、団体崩壊後もしばらくの間取材拒否が続いた。なお2000年にベースボール・マガジン社が発行した「週刊プロレス スペシャル3」には、田中本人への単独インタビューが巻頭記事として掲載されている。聞き手は鈴木健。田中曰く、同誌の取材に応じたのは「プロレス界をやめるときに正式な挨拶をしていなかったから、こういった形で挨拶が出来れば」とのことである。田中は、引き抜きというタブーをやったことで週プロがアレルギー反応をおこすのは承知していたが悪く書かれたくはなかった、週プロさんには全日本との長い付き合いがあったことから(自分たち)新しい団体に対していいことを書きますなんてことはない。ゴングさんとかはそういう色は出さなかった。それは編集長の違い。と答え山本の姿勢には不満があったと語った。なお、山本は、同じ「週プロSP3」では膨大な資金力のあるSWSに付くほうがいいんだけどあえて馬場さんを支持した、ほかのすべてを敵に回しても馬場さんと共に負けるほうがいい、などと語っていた、しかし後年山本は全日本プロレス代表・ジャイアント馬場から金銭を受領しその見返りとしてSWSをバッシングしていたこと、SWS崩壊後に「今後週刊プロレス誌上で実名を上げてのバッシング活動を行わない」約束の見返りとして田中社長から1年間に渡って月50万円以上を受け取っていたことを後に暴露本で告白している。SWSが約2年という早期で崩壊してしまった要因として、上記のような一部プロレス誌によるバッシングによって作られたマイナスイメージによるプロレスファンからの反発に加え、天龍派『レボリューション』と反天龍派『道場・檄』、『パライストラ』の対立が大きいと言える。純粋な部屋対抗戦の域ならまだしも、特に天龍派にマッチメイクなど主導権を握られていた反天龍派の不信感は根強かった。成り立ちから考えれば、三道場は対等な立場であるのが本来の姿である筈だが、マッチメイク担当を『レボリューション』に所属していたザ・グレート・カブキが務めており、集客面もあって天龍中心のマッチメイクになる傾向が強かった。これに対し、反天龍派の一部選手は田中社長に直訴する事で、決定事項が覆る事も少なからずあったと言われている。また三部屋それぞれの道場が用意できなかった事も『部屋の派閥化』傾向に拍車をかけた。旗揚げ当時のプランニングでは、三部屋それぞれに専用道場を全国各地に建設し、人材育成と選手による社会奉仕の構想も練られていたが、結局、旗揚げ当初に建設された新横浜の仮道場、さらには1992年4月に川崎市・百合丘に総工費7億円をかけて建設された本道場(当初は『レボリューション』専用となる予定だった)を各道場毎に使い回しせざるを得なかった。この結果、部屋毎の独立色を打ち出せず、「派閥の温床」になっていた。北尾事件以降、マッチメイク補佐役として『道場「檄」』からは谷津嘉章と『パライストラ』からはドン荒川が就任し、各部屋の意向をある程度反映できる様に改善し、道場対抗戦にとらわれないマッチメイクも試みられていたが、依然として派閥間の対立が改善される事無く、遂には1992年5月14日、選手会長だった谷津の「選手会長辞任、SWS退団」発言で一気に対立が表面化する形となった。谷津が会見の席上、天龍を批判した事で天龍派と反天龍派の亀裂修復は事実上不可能となり、これ以降、崩壊までの大会では道場間の対抗戦は組まれず、天龍派と反天龍派がそれぞれカードを組む形で興行が行われる形となった。この事件の1週間前にはカブキがマッチメーカーを降板するとともに『レボリューション』を離脱、フリーとなっていた。カブキの後任には天龍派の担当に石川敬士、反天龍派の担当に鶴見五郎がそれぞれ就任し、お互いにカードを出し合って決定する事態だった。反天龍派側は『レボリューション』との対戦を拒否した他、会見で谷津がWWFも批判した事でWWFとの対戦カードも拒否した。その様な中で会社内部では、8月に予定されていた興行予定をキャンセルするなど、SWSの幕引きへ向けて動きが進みつつあった。5月22日の後楽園ホール大会では、開始前に内部混乱の責を取る形で谷津と同調する仲野信市が辞表を手に「引退」を表明した。当時、マスコミやファンは天龍派擁護の声が強く、谷津らへの風当たりは強かった。同大会で組まれた谷津・仲野の『SWS引退試合』では観客から野次やブーイングの中で行われるという異例の事態となった。試合終了後、谷津は別れの意味を込めて着ていたジャージを客席に投げ込んだが、逆に観客から投げ返されてしまうなど、この一件に関してファンの反応はシビアだった。谷津、仲野はこの試合以降、暫くプロレス業界からフェードアウトする形となった。5月23日、SWSでは事態収拾の為緊急理事会を招集、その席でSWSの団体活動休止と分裂(事実上の崩壊)が決定。会見は2日後の25日に行われた。天龍派は「レボリューション」を母体に「WAR(レッスル・アンド・ロマンス)」を、反天龍派は「道場・檄」、「パライストラ」と合同して「NOW(ネットワーク・オブ・レスリング)」をそれぞれ設立する事となった。SWSの母体であるメガネスーパーはそれぞれ各団体に対し資金援助を行ったがその援助も期間限定のものとなり、WARには2年間、NOWには1年間のスポンサー料を援助した形に過ぎなかった。NOWのプレ旗揚げ戦(8月9日)後の9月10日発売「週刊文春」誌上で、ジョージ・俊二の高野兄弟によるSWSの騒動の顛末とメガネスーパーを痛烈に批判する手記が掲載された。この一件で高野兄弟はNOWを離脱し、新たに谷津・仲野を発起人に加えた「PWC(プロ・レスリング・クルセーダーズ)」を旗揚げ。NOWはエース候補だった高野兄弟に代わり維新力をエースに活動を続けたが興行成績が低迷、WARよりも早期にメガネ・スーパーからの援助が打ち切られる形となった。SWSの団体活動は6月19日の長崎国際体育館大会をもって終了。また事実上のSWS傘下団体となっていた藤原組も1992年12月に内紛が発生し興行活動を停止(藤原組の項を参照)。メガネスーパーはプロレス業界から完全撤退となった。上田馬之助は、SWSが失敗した原因として、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。SWSは一プロレス団体に思われがちだが、正確にはメガネスーパーによるスポーツ事業を扱う会社であり、その内の「プロフェッショナル・レスリング事業部」という一部門が、プロレス団体としての機能を持っていた(他にゴルフ事業部があった模様)。プロレス団体としての活動を停止後も、SWSは会社組織としてはしばらく残り、ただひとり会社に残留したドン荒川は、「SWS所属」を名乗って活動していた。創立直後に、成文化された公式ルールを制定。これは旗揚げ戦のパンフレットに掲載された。現在の各団体のビッグマッチに欠かせない『一本花道』を日本で初めて採用したプロレス団体でもある。提携していたWWFの演出方法を参考にしたもので、1991年6月10日の愛知県体育館大会から採用された。新横浜の仮道場で開催された道場マッチ『登竜門』は、若手選手主体で行われ、天龍を始めとするトップ選手達は出場しなかった。しかし、道場を一般公開して興行を行うという目新しさと、500円という低料金での入場料で、観客を集めた。現在、道場を持つ団体が頻繁に開催する道場マッチの先駆けとも言える。テレビ中継に関しては、プレ旗揚げ戦「越前闘会始」を、地元の福井放送のみで後日放映したのが最初である。同様の形で1990年11月に行われた「浜松闘会始」も地元局のみで後日放映されたが、当初予定されていた静岡第一テレビではなく、テレビ静岡で放映された。前述した旗揚げ戦の中継は、2日にわたった大会を編集して、テレビ東京の「日曜ビッグスペシャル」の枠で放映したもの。前出の木村匡也のほか、杉浦滋男、四家秀治が実況を務めた(杉浦は団体後期の中継でも実況を担当)。なお、番組内で付けられていた木村の肩書きは「SWS専属アナウンサー」だった。1991年3月30日からはWOWOWで放送開始。(実況:伊津野亮 解説:菊池孝、牧元一、林家しん平)。第1回目は1991年3月30日の「レッスルフェストイン東京ドーム」大会を生中継で放送した。その後は月1回・120分枠または90分枠の録画中継が行われたが、1992年3月28日「昇龍激闘」3.18新潟大会の放送をもってWOWOWでの放送を終了した。さらに後にはテレビ東京と契約し(実質的に復帰)、「激闘SWSプロレス」のタイトルでやはり月1回・60分枠の中継(概ね月曜深夜)が開始された。「激闘SWSプロレス」は、当時、団体そのもののスポンサーになって間もない西松建設が、番組を単独で提供したが、放送枠内で必ず1回は、メガネスーパーのCMを流していた。テレビだけでなく、ラジオ局の文化放送でも週1回の30分枠でSWSの情報番組があった。試合の実況中継(ラジオ向けで音声のみ)も交えた珍しいスタイルだった。SWS崩壊後はWAR、NOW両方とも中継した。Vジャンプの増刊号時代での創刊号にて、SWSを舞台にしたプロレス漫画『闘竜王(ティラノ)ザウラー』(画:黒田ひろし)が掲載された。SWSの将来を担うレスラーとして秘密裏に鍛えられていた青年が、恐竜をモチーフにしたコスチュームに身を包み、SWS崩壊を狙う悪の団体と戦うというストーリーで、タイガーマスクのようにタイアップし、現実とリンクするかと思われたが、創刊号での掲載後、不定期に2話が掲載された後、終了している。WWF(現:WWE)と業務提携を結んでいた関係で、SWSの王座はWWFが認定する王座とされていた。なおWWFとの提携が決まった後、新日本プロレスが王座を返上し、休眠状態にあったWWFインターナショナル・ヘビー級王座、WWFインターナショナル・タッグ王座、WWFジュニアヘビー級王座の3つの王座を、SWSで復活させようとするプランが持ち上がったが、こちらは立ち消えとなり、独自の王座を認定している。また、タッグとジュニアヘビーの王座は作られたが、ヘビー級のシングル王座は認定されないまま団体は活動休止、解散となっている。この節の出典この節の出典
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