アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schönberg、1874年9月13日 - 1951年7月13日) は、オーストリアの作曲家・指揮者・教育者。調性音楽を脱し無調に入り、十二音技法を創始したことで知られる。アメリカに帰化してから1934年以降は、「アメリカの習慣を尊重して」"ö"(o-ウムラウト)を"oe"と表記したSchoenbergという綴りを自ら用いた。アメリカでは「アーノルド・ショーンバーグ」と呼ばれた。父シャームエル・シェーンベルク(Sámuel Schönberg 1838年 - 1889年 )は代々ハンガリーのノーグラード県セーチェーニに住むユダヤ人で、靴屋を営んでいた。母パウリーネ・ナーホト(Pauline Náchod 1848年 - 1921年)もプラハ出身のユダヤ人。ウィーンにて生誕。初めはウィーン人らしくカトリックのキリスト教徒として育てられる。8歳よりヴァイオリンを習い始める。その後チェロを独学で学ぶ。15歳の時、父が亡くなり、経済的に立ち行かなくなった彼は、地元の私立銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けていた。その後作品を発表し始めたころに彼の余りにも前衛的な態度のため、激怒した聴衆によってウィーンを追い出され、ベルリン芸術大学の教授に任命される時、プロテスタントに改宗、その後ナチスのユダヤ政策に反対して1933年、ユダヤ教に再改宗している。若い頃の彼はブラームスに傾倒していたが、のちツェムリンスキーに師事し、師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚め、また、ツェムリンスキーとともにマーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、彼の交響曲について好意的な論文を記述したこともある。ブラームスとヴァーグナーという異なる傾向を結びつけるような音楽を書いた点はツェムリンスキーと共通している。初期は『ペレアスとメリザンド』や『浄められた夜』など、後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになる。『室内交響曲第1番』は後期ロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて室内オーケストラを選び、4度を基本とした和声を主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっている。これ以降、彼の実験は更に深められ、次第に調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。1900年から書き始められ1911年に完成した『グレの歌』は、巨大な編成と長大な演奏時間をもち、カンタータ、オペラ、連作歌曲集などの要素が融合した大作である。しかし、基本的な構想は1901年までに書かれているため、音楽的には『ペレアスとメリザンド』などと同様後期ロマン派の様式となっており、ある意味、後期ロマン派音楽の集大成であり頂点であるともいえる。しかし、楽器法などには中期のスタイルがみられる。1908年、弦楽四重奏曲第2番(1907年~1908年)のソプラノ独唱付きの終楽章と、歌曲集『架空庭園の書』(1908年~1909年)で初めて完全な無調に到達した、とされることも多い。1909年に書かれた『3つのピアノ曲』Op.11や『5つの管弦楽のための小品』Op.16、モノドラマ『期待』Op.17では、多少調性の香りを残していたが、無調の様々な可能性が試みれられた。『6つの小さなピアノ曲』Op.19(1911年)で、調性をほぼ完全に放棄するに至った、とする見解もある。これらの実験から傑作歌曲集『月に憑かれたピエロ』(ピエロ・リュネール)が生まれる。『月に憑かれたピエロ』は『期待』の成果を更に推し進めて生み出されたと言ってよいかも知れないが、着想などは更にユニークである。ラヴェルやストラヴィンスキーに影響を与え、前者が『マラルメによる3つの歌』を、そして後者が『紀貫之の短歌等による日本の3つの抒情詩』を作るきっかけとなった。そして後のブーレーズらにも影響を与えた傑作である。物語の朗唱を室内楽で伴奏をするという方法が、かつてなかったとは言えないまでも、これほどにまで高められた作品は皆無で、またかつて無い効果をあげた伴奏の書法も全くユニークな傑作であった。ただ、時代は無調の音楽に対する準備が出来ていたとは言えなかった。ストラヴィンスキーの『春の祭典』で大騒ぎとなるような時代で、無調の音楽は一部のサークルの中だけのことであった。ウィーンの私的演奏会で聴衆が怒り出してパニックになったり帰る人が続出したのは当然であった。しかし、指揮者のシェルヘンなどが積極的にこれらの音楽を後押しし、演奏してまわったことで、シェーンベルクなどの音楽が受け入れられるようになっていく。同じ頃、弟子のアルバン・ベルクは『クラリネットとピアノのための5つの小品』Op.5や『管弦楽のための3つの小品』Op.6などで、無調(あるいは拡大された半音階主義)の作品を発表し、アントン・ヴェーベルンも師シェーンベルクにならって『6つの小品』Op.6を書いているが、シェーンベルクはバランス感覚に優れ、ベルクはより劇的で標題性を持ち、ヴェーベルンは官能的なまでの音色の豊穣さに特徴があり、明確な個性の違いがあるのは興味深い。1910年代後半、シェーンベルクは大作『ヤコブの梯子』に挑むが、第一次世界大戦で召集されたためにその他の多くの作品と共に未完のままに終わった。同じ頃、弟子のベルクは歌劇『ヴォツェック』Op.7を完成する。シェーンベルクらと始めた無調主義による傑作オペラの登場である。無調主義が次第に市民権を持ちはじめると共に、無調という方法に、調性に代わる方法論の確立の必要性を考えるようになっていった。それが12音音楽であった。12の音を1つずつ使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。この手法でシェーンベルクが最初に書いたのが、全曲12音技法で書かれた『ピアノ組曲』op.25(1921年~1923年)の「プレリュード」(1921年7月完成)である。作品番号では『5つのピアノ曲』op.23(1920年~1923年)が先立っているが、12音技法による第5曲「ワルツ」は1923年2月の完成とされている。ヴェーベルンも1924年、『子どものための小品』の中で12音音列を使った作品を書き、ベルクもすぐにその技法を部分的にとり入れた。ただし、12音の音列による作曲法はシェーンベルクの独創とは言えない。ウィーンの同僚であったヨーゼフ・マティアス・ハウアーが、シェーンベルクより2年ほど前にトローペと言われる12音の音列による作曲法を考案している。1919年にハウアーが作曲した『ノモス』は、最初の12音音楽と見なされている。この年、シェーンベルクはこの作品を自身の演奏会で紹介しているが、ハウアーが12音音楽の創始者であることに固執したこともあり、シェーンベルクと、その理解者でベルクの弟子でもある哲学者・音楽学者のテオドール・アドルノの2人から酷評される。また、1930年代のナチスの台頭により退廃音楽家として排斥され、戦後に再評価されるまで全く忘却されてしまったこともあり、ハウアーが1920年代に果たした役割が過小評価されていることは否めない。弟子のヴェーベルンが音楽をパラメータごとに分解してトータル・セリエリズムへの道を開き、形式上の繰り返しを否定し変容を強調したのに対し、シェーンベルクは無調ながらもソナタや舞曲など従来の形式を踏襲している。また初期の無調音楽は部分的には機能和声で説明できるものが多く、マーラーやツェムリンスキーなど高度に複雑化した和声により調性があいまいになっていた後期ロマン派音楽の伝統と歴史の延長線上に位置する。厳格でアカデミックな(ただしかなり偏った解釈でもあった)教育方針は古典作品の徹底的なアナリーゼを基礎としていた。12音技法の開拓後はリズム、形式面で古典回帰が顕著で、彼自身も新古典主義との係わりを避けることは出来なかった。美術をはじめとする芸術一般にも興味を持ち相互に影響した。シェーンベルクの描いた表現主義的な『自画像』は(メンデルスゾーンなどと同じく)画家としての才能も示している。ロシアの画家カンディンスキーはシェーンベルクのピアノ曲演奏風景をそのまま『印象・コンサート(1911年)』という作品にしている。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れてアメリカに移住する。移住後も南カリフォルニア大学(USC)とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて教育活動を精力的に行い、弟子にはジョン・ケージ、ルー・ハリソンなど、アメリカ現代音楽を代表する作曲家も含まれる。(アメリカでの教育活動は、アメリカの音楽教育に大きな革新をもたらしたが、反対にある種「後遺症」ともいうべき偏ったアカデミズムが長く根付くこととなった。) USCには彼の名をちなんだリサイタルホールを擁する「アーノルド・シェーンバーグ研究所」(Arnold Schoenberg Institute)があり、UCLAには彼の生前の功績をたたえ、記念講堂が建造されているが、実際のアメリカのシェーンベルクの家財道具などにアメリカでは管理費などの寄付が全く集まらず、母国のオーストリアがすべて輸入して引き取り、現在ウィーン市のシェーンベルク・センターとして情報の公開に多大の寄与をしている。移住後は、『室内交響曲第2番』『主題と変奏』などの調性を用いた先祖帰りの作品も作曲しているが、大半が旧作の完成か、アメリカの大学の委嘱などで学生でも演奏ができるように書いた作品である。また、他界する直前まで合唱曲『現代詩篇』を作曲していたが、未完に終った。戦後始まった第1回ダルムシュタット夏季現代音楽講習会からも講師として招待されたが、重い病気のためキャンセルした。1951年7月13日、喘息発作の為、ロサンゼルスにて他界。76歳。故郷ウィーン中央墓地の区に葬られており、墓石は直方体を斜めに傾けた形状である。ここでは日本で出版されたものを紹介する。
出典:wikipedia
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