網干線(あぼしせん)は、飾磨駅から山陽網干駅までを結ぶ山陽電気鉄道の鉄道路線である。全線が兵庫県姫路市内を走行する。新日鐵住金広畑製鐵所をはじめとする沿線の工場群への通勤路線というかつての色合いは薄れ、現在では網干線沿線から姫路・明石・神戸方面への通勤客や、周辺地域から沿線高校(兵庫県立姫路南高等学校・兵庫県立網干高等学校)への通学利用が多く見られる。2000年以降、飾磨・山陽網干駅以外のすべての駅で、駅員の常駐がなくなった。駅員は定期的に巡回しており、駅員の在勤時には、企画乗車券の販売や両替等の出札対応が行われているが、各駅のその時間帯については明示されていない。2009年3月20日に阪神なんば線が開業したことにより当路線からは本線・阪神神戸高速線・阪神本線・阪神なんば線・近鉄難波線・同奈良線によって近鉄奈良駅、そして布施駅から分岐して同大阪線・名古屋線によって近鉄名古屋駅、さらには伊勢中川駅から分岐して同山田線・鳥羽線・志摩線によって賢島駅まで私鉄だけで標準軌の線路がそれぞれ繋がった。しかし、山陽電鉄と阪神との相互乗り入れ区間が山陽姫路駅 - 高速神戸駅 - 梅田駅間であり、また阪神と近鉄との相互乗り入れ区間が神戸三宮駅 - 尼崎駅 - 大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間である上、当路線を含む山陽電鉄のすべての駅では、大阪難波駅以東の近鉄線方面への連絡乗車券も発売されていない。実際に普通乗車券で近鉄線方面へ乗り越す場合は、いったん大阪難波駅までの連絡乗車券を購入し、最終的に近鉄側の駅または車内で不足分(大阪難波駅からの運賃)を支払うことになる(「山陽電気鉄道#他社路線との連絡乗車券」も参照)。網干線内の飾磨駅 - 山陽網干駅間のみの運行で、途中駅が始発・終着になる列車はない。平日のラッシュ時は12分間隔、日中時間帯と土曜・休日は1時間あたり4本(15分間隔)で運行されている。かつては、通勤時間帯などに飾磨駅でスイッチバックして電鉄姫路駅(現在の山陽姫路駅)への直通運転があったが、1991年(平成3年)のダイヤ改正で廃止された。車両は、3両編成の3000系・3200系・6000系が使用されている。1995年(平成7年)からはワンマン運転を行っており、網干線運行の車両には、ドアチャイムや自動案内放送装置が設置されている。なお、ワンマン運転ではあるが、車内での料金収受が一切ないため、運賃箱・運賃表示器等の機器は設置されていない。過去には、例年2 - 3月の週末に綾部山梅林への送客を目的とした網干線直通の臨時特急「観梅号」が運転されていた。車両は5000系の4両編成で運転され、当時は4両編成であった3次車で運行されたこともあった。高速神戸発(復路は新開地行き)とし、本線内は特急停車駅に停車、網干線内はノンストップで運行された(運転停車あり)。定期列車が3両編成のみで、特急の運転がない網干線では、希少な優等列車であったが、本線で直通特急が運行開始されて以降は、一度も運転されていない。一時は網干線を現在の国道250号にほぼ並行する相生・赤穂経由ルートで岡山市域方面に延伸する構想があった。山陽電気鉄道が、兵庫県南部に限定された路線であるにもかかわらず「山陽」という広範囲を表す地名を用いていることは、宇治川電気時代末期から山陽電気鉄道設立に至る当時の拡大姿勢を唯一今日に残すものと言える。このように、実際の路線の所在地と会社名との相違は、南海電気鉄道や上信電鉄、江若鉄道、三岐鉄道、かつての東上鉄道(現在の東武東上線)などに見られるものと同様である。そもそも「山陽電気鉄道」の社名は、宇治川電気時代の1928年に飾磨 - 岡山間の鉄道敷設免許申請を行った際、別名義として用いられたことに始まる。この免許申請は、当時の鉄道省が有年 - 赤穂 - 西大寺という競合ルートの計画(戦後赤穂線として開通)を持っていたため却下された。しかし、その後も飾磨 - 赤穂間については、鉄道省の計画線と競合しないことから延伸が検討され続け、1936年に再び電鉄飾磨 - 相生(那波)間の鉄道敷設免許申請が行われた。この際、電鉄飾磨 - 網干間については、日本製鐵(現在の新日鐵住金)の製鉄所建設決定など急速な工場立地が進んだことから、その必要性に加えて緊急性が認められ、1937年に免許が交付された(日米開戦直前の1940年10月から翌年7月にかけて全線が開通)。しかし、残る網干 - 相生間については却下された。残る区間の建設計画が再浮上したのは戦後になってからで、1952年に姫路市網干 - 赤穂市上仮屋間25.2kmの鉄道敷設免許が交付された。前年(1951年)に、国鉄赤穂線の相生駅 - 赤穂駅間が開業していたにもかかわらず、並行する路線免許の交付がされた背景には、燃料事情の極端な悪化でバスなどの運行が困難であった当時の社会情勢が影響している。実際には揖保川への橋梁架設など建設工事にあたって様々な技術的困難が存在し、また多額の建設資金が必要であったこと、その後の急速な燃料事情回復から鉄道延伸の必然性自体が低下したため、ほどなく計画は中断するに至った。そして、1971年秋の網干 - 相生間免許失効をもって、網干以西への延長計画は消滅している。
出典:wikipedia
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