諸県郡(もろかたぐん)は、鹿児島県(日向国、一部は現在の宮崎県)にあった郡。1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。郡名は記紀に「日向国有嬢子。名髪長媛。即諸県君牛諸井之女也」などの記事が見られ、その起源の古さをうかがわせる。「諸県」は現在の東諸県郡国富町に存在した地名で、この諸県君(日向国造であったとの説もある)の本拠地でもあったとされるが、当時はヤマト王権の影響力が及んでいなかった地域も多く、諸県地方が諸県君の主領域と一致したかは不明である。郡名が明確に確認できるのは「続日本紀」からであり、「延喜式」において、ほぼその後の領域が確定された。和名類聚抄では「牟良加多(むらかた)」と訓じられている。『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。中世には、宇佐宮領の諸県荘となった現在の国富町・綾町を除き、この領域を中心に島津荘が開拓された。以来、江戸期まで領域に変動はない。1587年(天正15年)の豊臣秀吉による九州征伐後、島津氏は薩摩・大隅に加えて本郡を安堵された。明治22年(1889年)5月1日の町村制施行以降の変遷。
出典:wikipedia
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