住田呉服店(すみだごふくてん)は、日本の鳥取県米子市東倉吉町にかつて存在した呉服店。主人の住田善平は米子町長をつとめた。漫画家・妖怪研究家水木しげる(本名武良茂)の祖母の生家でもある。“住田氏”は近世期中ごろから東倉吉町に居住し、住田屋を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。仕入品の運送はほとんど船便によった。境町(現在の境港市)の栢木回漕店に依頼することが多かったとされる住田本店の明治中期の仕入状況をみると、京都の吉田重兵衛、伊藤忠支店など5店、大阪の伊藤忠、伊藤萬、山口玄洞など15店から、南部、郡内、秩父、八丈、越後、博多など各地の絹、綿、麻の織物が数10種類にわたって仕入れられている。仕入総額は資料を欠くが、境町(現在の境港市)の栢木回漕店扱いの送状のみをみても、ほとんど毎日の入荷で、原価金額は最高約600円、最低40円である。これによって住田本店だけでも、いかに大きな商いであったかを推量することができる。明治10年代(1877年~1886年)後半には近郊に約二町歩の田地を取得し、以前から所持の三反五畝余に加えている。現在の住田家は、呉服商をやめている。住田家保存の「録事表(明治十二年)」によると、明治17年(1884年)の「大福帳」によって販売状況をみると、米子町内では「佐藤武八郎、十二月十四日。一、三円四拾銭秩父縞一反。一、六拾四銭四厘郡内茶絣五尺六寸。乄四円四拾四銭。二月十四日入。」、「丹後屋安右衛門、十二月十八日。一、六拾六銭洋朱子三尺ゑり三ツ。二月十四日入。」。その他約60軒。会見郡・日野郡・能義郡にも約100軒の得意先を持った。元米子市長野坂寛治によれば、寅次郎の弟にフランスで客死した絵描きの良三と武良家に居候していた延寿がいる。延寿は赤鉛筆片手に英語の原書ばかり読んでいたが、結局定職に就かずに遊んで暮らしたという。水木しげるによると「父の叔父に、パリで三十歳で客死した画家がいて、父はとても尊敬していた。その叔父は松井須磨子の劇団で背景の絵を描いていて、ちょい役で出演したりしたという。祖母の実家で大金持ちの住田一族の直系だから、パリ遊学にも行けたのだろう。確かに画才はあったようだ。その叔父と私の誕生日がたまたま同じで、父は“生まれ変わりだ”と信じていた」という。 住田半三郎は、1911年(明治44年)8月~1914年(大正3年)7月まで米子町収入役をつとめた。当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。1000円~2000円の部に住田半三郎の名前がみえる。
出典:wikipedia
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