亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。富山県新庄町の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。第四高等学校 (旧制)で、西田幾多郎より、宗教哲学を学ぶ。東京帝国大学では、井上哲次郎と波多野精一から哲学、姉崎正治から宗教学を学ぶ。研究の結論として、仏教を否定することになる。在学中は、真宗大谷派僧侶の近角常観が、東京本郷で主宰していた求道学舎に寄宿する。小樽中学教諭になった頃に、金森通倫の伝道集会に出席し、神、罪、救いを聞き、金森の祈りに感銘を受けて求道する。1917年(大正6年)9月23日に富山市上り立町メソジスト教会で、メソジスト派の宣教師より洗礼を受ける。最初は、住職の仕事をしながらキリスト教を信仰していたが、後に家族に打ち明けて、妻や母親になどの大反対をうける。一時はキリスト教信仰を捨てることも考えたが、正式にキリスト教信者になることを決意する。本願寺に聖書1冊と金森通倫の『信仰のすすめ』を贈り、除名を申し出、直接献身して東京神学社で学び、植村正久らに薫陶を受けた。牧師になり、1919年地元をカルバリ山とみなして、富山新庄教会を設立する。1951年に自伝として『仏教から基督へ―溢るゝ恩寵の記―』を著す。キリストは仏教の破壊者ではなく、完成者であるとの信仰を持ち、富山での郷里伝道に終生仕えた。『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」を引用する。そして、この無常観は仏教専有のものではないとし、「コヘレトの言葉伝道者の書]]」第1章第2-14節、「ペトロの手紙一」第1章第24-25節、「マタイ伝」第24章第35節を引用する。仏教は罪障に悩み、他力の本願を立てた。親鸞は罪責観に徹した。「ローマ書」(第3章第10-18節、第7章第18-25節)を読んで、この罪責観が聖書にあると悟った。使徒パウロは自分を「罪人のかしら」と呼んでいる。神に対して罪を犯した人類が滅ぼされるべきというのは、必然である。仏教の目的は、罪障宿業を断絶することにあり、弥陀による救いを求めていた。救いの宣布者ではなく、救い主ご自身を見たいと願っていた。「それがキリストご自身である」と確信した。救い主として肉体をもって地上に来たり、十字架において罪からの救いを与えてくださり、これを信じる者は、十字架のいさおしによって永遠に罪から解放され、救われて永遠に神の民となる、と信じた。仏教の罪業から断絶され、神に反逆した罪から救われた。「実にキリストによるのほか、この神への大罪よりの救いは他に全くないのだ。十字架による罪よりの永遠の救い!全人類よ、心より悔い改めてとこしえのこの御救いに与かれ!」。さらに復活の希望、聖霊の恵み、教会の活動、天国の富、再臨の待望について語っている。
出典:wikipedia
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