桂 小金治(かつら こきんじ)は落語家の名前。当代は2代目。2代目桂小文治の門弟に与えられる名前である。2代目桂 小金治(かつら こきんじ、1926年10月6日 - 2014年11月3日)は、東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)出身の落語家、俳優、タレント。本名は田辺 幹男(たなべ みきお)。桂小金治事務所所属。帝京商業学校(現:帝京大学中学校高等学校)卒業。元俳優の山岸快は孫である。1947年、2代目桂小文治に入門して落語家となる。次代の名人候補として将来を嘱望されたが、川島雄三の要請で映画俳優に転身。昭和中期から映画やテレビドラマ、バラエティ番組に数多く出演し、ことにワイドショーの名司会者として名を馳せた。平成以降は放送メディアに登場する機会は少なくなっていたが、全国各地で講演活動を展開しており、落語を口演する機会もあった。江戸前の歯切れの良い滑舌で、高座では古き良き時代の江戸落語を聴かせていた。芸名の通りもともと落語家であったが、その後長らく俳優・司会者・タレントとしての活動が続き、落語家としては開店休業状態だったが、1980年代初頭、2000年代から2011年までは落語家としても活動していた(後述する理由からフリーの落語家として活動)。陸軍特別幹部候補生だったが、終戦。金もなく、着物を着てできる職業ということで落語家を選んだ。落語家になるために新宿末廣亭の楽屋に通い、誰にも入門できないまま、前座(のちの5代目春風亭柳昇)の下でさらに下働きをしていた。落語家は前座の弟子を食べさせる義務があるが、食糧事情が悪すぎるため、前座一人分の食糧を捻出できる落語家がほとんどいなかったのである。しかしよく働く小金治の姿に、当時の日本芸術協会副会長・2代目桂小文治が目をつけ、小文治のほうから入門をもちかけた。小文治はもともと上方噺家であり、常に関西弁のみをしゃべるため(そのため、普通の入門志願者から敬遠され、どこかで挫折した、訳ありの落語家を後から自分の門下にすることが多かった)、入門を躊躇したが、副会長の権勢は傍目にもすごいように見え、入門を決意した。小文治よりもらった初名(前座名)は桂 小竹。小文治は「噺はよそ行って習うて来い。わしからは芸人としての生き方だけ覚えていったらええのや」と言い、小金治にいっさい稽古をつけなかった。小金治は生粋の江戸っ子、それも魚屋の倅である。もし稽古をつけていたらせっかくの江戸らしさが失われていただろう。二つ目になった後、小金治のファンでもある松竹大船撮影所の川島雄三監督が小金治の出演していた東京・神田の寄席『立花』を訪れ、そこで直々に川島に誘われて抜擢される。そのとき川島雄三は師匠の小文治に「良い噺家を一人ダメにします。お許しください」と手をついたという。一本目の映画『こんな私じゃなかったに』に出演。拘束時間1日、ギャラ5千円だった。映画は好評で、川島により起用され続け、単発契約で何本か出演した。それらも好評で、川島の所属する松竹は小金治と専属契約を結びたいと考え、小金治に対して映画出演一本あたりのギャラを提示した。そのとき松竹は片手の指5本を開いて示した。もともと映画一本のギャラが5千円という約束だったので、小金治は当初これを「5千円」と解釈し自分の一月の稼ぎより多いと考えていたら、実は「5万円」という意味だったので驚喜した。ちなみにこのときの条件は「年間6本の出演義務」であった(よって年収30万円)。念のため、師匠の小文治に「契約したほうがいいか断るべきか」を聞きに行くと、即座に「アホ! 落語やってたら、そんな金、一生かかってもようもらえんで…」と返されたという。結果、松竹との専属契約は無事締結された。今度はいずれも軽い役でなく、長い日数拘束される。スケジュール上なかなか寄席に出られないことから、日本芸術協会から事実上脱会状態となった。以降、フリーの落語家となり、落語家としてはどこの協会にも属していない。しかし師弟関係を大事にし、小金治は終生にわたり小文治を師匠と仰いだ。小金治が名を返そうと小文治のもとを訪問すると「アホ! 師匠に『名を返す』なんてお前いつから偉くなったんじゃ? 師匠が名を取り上げるのでもあるまいに…。小金治、これからもしっかりやりや」と、師は小金治に名を返上しなくていいと告げた。そのため、落語家としての名も返上していない。松竹時代の川島雄三監督は長く小金治を起用し続けた。しかし、1954年に川島が日活に単身移籍し、コンビを解消。だが、その川島が今度は東京映画(東宝系)に移ると、小金治も1959年、東宝に移籍し、再びコンビを組み活躍。1961年、今度は小金治が日活に単身移籍し、コンビを解消。その日活ではスターとして迎えられ、1962年から1963年にかけて4本の主演作を残している。他は脇役が多く、その日活には1965年まで在籍。そこの大部屋俳優・桂小かんは(俳優としての)弟子である。上述したように、小金治は落語界では真打になっていないので、本来のしきたりから言えば小金治を「師匠」と呼ぶことはできない。しかし、テレビですっかり大看板となった小金治は、芸能人仲間からよく「師匠」と呼ばれるようになる。どうしたらいいのか師匠・小文治に聞きに行った小金治に対し、小文治は「小金治が師匠と呼ばれて何がおかしいのか…」と諭した。よって、晴れて「師匠」と呼ばれて良い許可をもらったのである。2000年代は『大工調べ』『禁酒番屋』『三方一両損』『芝浜』などの演目を演じた。小金治が映画界入りしてから上がった高座は次の通り。以降、17年間完全に沈黙。以降、国立演芸場や横浜にぎわい座などを借り切って独演会形式で活動を再開。また、既設の名人会に呼ばれることもあった。1983年の「本多寄席」の高座は、ソニー・ミュージック・京須偕充によりLP化(CD化)されている。2004年7月19日「神田伯龍・桂小金治二人会」と2006年5月30日の独演会は、以下の通りCD化されている。テレビ朝日のテレビ番組『末広演芸会』の司会を務めた。落語はしなかったものの、収録会場の新宿末廣亭には定期的に足を運び続けていたのである。
出典:wikipedia
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