日本キリスト教会(にほんキリストきょうかい)は、改革派の流れを汲む日本のプロテスタントの教派の一つ。通称は新日基、新日キ。日本基督教団に呑み込まれて崩壊した日本基督教会の再建と位置付けられている。第二次世界大戦後、旧日本基督教会の関係者は「日本基督協力伝道会」を結成し、機関紙を発行して、組織的に教会協力活動を行うようになった。それは、日本基督教団の中で、福音的信仰に基づいて伝道の協力をし、合同教会の確立を目的としていた。更に、日本基督教団創立時にあった「部制」のような「会派」を作ることを教団の執行部に要求した。しかし、その要求が受け入れられなかったため、信仰告白のない日本基督教団は教会でないと見なし、1951年大森教会が日本基督教団を離脱した。この離脱をきっかけに、複数の教会が次々に日本基督教団を離脱した。そして1951年4月3日、札幌北一条教会で14教会による北海道中会が建設された。また4月25日には、大阪北教会で近畿中会が建設された。渡辺信夫牧師は日本基督教団のスローガンである公会主義はなかったとしている。また、離脱に際して、日本基督教団による妨害工作があったと証言する。日本基督教団は「離脱派はみな無学だ」「エキュメニズムの時代の流れに逆行する愚か者である」と言って日本キリスト教会を非難した。1951年5月23日、佐波亘が牧師をしていた大森教会で日本基督教会の創立大会を開催した。その時の参加教会は、北海道中会16教会、東京中会8教会、近畿中会15教会の合計39教会だった。その時の指導者は、佐波亘、植村環、藤田治芽、小野村林蔵などであった。1953年10月、植村環が牧師を務める柏木教会で開催された第三回大会で、信仰告白と憲法・規則を制定した。また、大小二つの教理問答を作成した。1954年の西宮中央教会で開催された第四回大会で、1955年4月から日本基督教会の神学校を設立する旨を決議し、大森教会を仮校舎にすることとした。日本基督教団の都田恒太郎牧師は、ジャパンタイムズ1957年1月14日号で、日本キリスト教会の離脱は、アメリカから資金を受けるための行為だと批判したが、ジョン・ML・ヤング宣教師はその事実はないと指摘している。1956年10月に柏木教会で開催された第六回大会で、世界改革教会連盟に加入する決議をし、1957年に加入が承認された。1958年、東京都世田谷区弦巻の建物に神学校の校舎及び大会事務所を移した。1990年、第40回大会で「韓国、朝鮮の教会に対して行った神社参拝強要についての告白と謝罪」を決議した。1995年、日本キリスト教会に改称。信仰告白および憲法規則の全面的な改訂を行った。同年4月、大会事務所及び神学校を埼玉県川越市に移転した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。