ドウェイン・ウェイド(Dwyane Tyrone Wade, Jr., 1982年1月17日 -)は、イリノイ州シカゴ出身のバスケットボール選手。2003年からNBAのマイアミ・ヒートで13年にわたって活躍し、2016年からシカゴ・ブルズに所属している。背番号は「3」。身長193cm、体重100kg。愛称は「フラッシュ」。プレイするポジションは主にシューティングガードであるが、ポイントガードを兼任することのできるコンボガードである。2006年のNBAファイナルではファイナルMVPを受賞、2008-09シーズンには得点王に輝くなど、現役屈指のオールスター選手として活躍している。ドウェイン・ウェイドことドウェイン・タイロン・ウェイド・ジュニアはイリノイ州シカゴのサウスサイドでウェイド・シニアとジョリンダの間に生まれ、両親の離婚後は同州ロビンスで父と継母のもとで暮らした。彼の少年期はシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダン全盛の時期と重なり、シカゴで育ったウェイドにとってジョーダンはアイドルだった。高校はハロルド.L.リチャーズ高校に進学し、同校のバスケットボールチームでプレイ。当時のチームのエースはウェイドではなく、彼の継兄弟であるデミトリス・マクダニエルだったが、ウェイドは3年生の時に身長が一気に10cm伸びたことで選手として頭角を現し、このシーズンは20.7得点7.6リバウンドの成績を残した。4年生のシーズンには27.0得点11.0リバウンドを記録し、チームを24勝5敗の成績とアイゼンハワー区のクラスAAタイトル決勝に導いている。在学中の通算676得点106スティールは同校の新記録となった。高校バスケ界で活躍を見せたウェイドだったが、大学のリクルートでは学業面で問題があったため、スカウトがあったのは3校のみだった。ウェイドはスカウトのあった3校のうちからマーケット大学への進学を選んだが、1年目は学業の成績がNCAAが規定する水準に達しなかったため、公式試合に出場することができなかった。2年目の2001-02シーズンからようやく試合への参加が認められると、ウェイドは早くもチームのエースとして活躍し、17.8得点6.6リバウンド3.4アシストをあげ、平均2.47スティールはカンファレンストップの成績だった。新エースのもとマーケット大も波に乗り、このシーズンの26勝7敗は1993-94シーズン以来の好成績だった。2002-03シーズンは平均21.5得点をあげると、2003年のNCAAトーナメント、ミッドウェスト地区決勝での大活躍は、一躍ウェイドの名を全米に轟かせた。優勝候補の一つだったケンタッキー大学との対戦でウェイドは29得点11リバウンド11アシストをあげ、ケンタッキー大を破るという金星をあげると共に、NCAAトーナメント史上3人目となるトリプル・ダブル達成者となった。マーケット大学は1977年以来となるFinal4進出を果たし、シーズン終了後のAP通信ランクでは全米6位となり、またウェイドもAP通信選出のオールアメリカ1stチームに選ばれた。全米から注目されるNCAAトーナメントで一気に名を上げたウェイドは、4年生のシーズンを待たずして、2003年のNBAドラフトにアーリーエントリーすることを決意した。背番号『3』はマーケット大学の永久欠番となっている。2003年のNBAドラフトにて全体の5番目でマイアミ・ヒートに指名されNBA入りした。2004年オールスターのイベント、ルーキーチャレンジに、NBA1年目選手で編成されるルーキーチームの先発出場選手として参加。2004年2月23日、ウェイドはNBAイースタン・カンファレンスの週間最優秀選手に選ばれた。マイアミ・ヒートの歴史上1年目の選手による受賞は初であった。NBA1年目はポイントガードとしてチームのプレイオフ進出に貢献した。そのプレイオフでウェイドはチームを率いて大きな活躍をし、人々の注目を集めることとなった。シーズン前にロサンゼルス・レイカーズから当時リーグを支配していたトップセンター、シャキール・オニールがヒートに移籍。コービー・ブライアントとともにレイカーズの黄金時代を築き上げたオニールだが、レイカーズ時代にはコービーとの不仲説が絶えなかった。オニールはウェイドの謙虚さをいたく気に入り、良好な関係を築いた2人はNBAでも屈指のデュオとなり、チームはイースタンカンファレンス1位という好成績でレギュラーシーズンを終えた。プレイオフでもヒートの快進撃は止まらず、1回戦、カンファレンスセミファイナルを全勝で制したが、カンファレンスファイナルのデトロイト・ピストンズとのシリーズでウェイドは故障してしまい、惜しくもファイナル初出場を逃した。また、レブロン・ジェームズと共にオールスターゲームに初めて選出された。2005-2006シーズン、ヒートは大々的な補強を行い、他チームのエース級の選手を次々と獲得。チームはリーグでも有数のエリート集団と化したが、その中でもウェイドはエースの座を確固たるものにしていた。またオニールは故障による欠場が多くなり、リーグ屈指のデュオの関係も徐々にウェイドが主導権を握るようになっていった。シーズン序盤はオニールの戦線離脱もあり、チームの成績は伸びなかったが、シーズン後半にはウェイド、オニールを中心に補強で獲得したベテラン勢が徐々に噛み合いだし、球団社長だったパット・ライリーのヘッドコーチ復帰を経て、チームはカンファレンス2位の成績でレギュラーシーズンを終えた。また、NBAオールスターゲームにファン投票で選出され、土曜日に開催されるスキルチャレンジにも初めて出場。決勝はジェームズと対決となり、26.1秒の成績で優勝を果たした。プレーオフ、カンファレンスファイナルでは再びピストンズと対決。レギュラーシーズンには他を寄せ付けない強さを見せていたピストンズを4勝2敗で退け、ついにファイナルに進出を果たした。ファイナルの相手はダーク・ノビツキー擁するダラス・マーベリックスだった。下馬評ではマーベリックス有利との評価が大半であり、ヒートは敵地ダラスでの第1戦、第2戦はマーベリックスに2連敗を喫してしまう。ところがここからウェイドの神がかりな勝負強さが発揮され、第3戦では42得点、第4戦では36得点と立て続けに高得点をたたき出し、第5戦ではファイナル記録となる21本のフリースローを決めると共に46得点をあげた。ウェイドの爆発に後押しされチームも3連勝すると、迎えた第6戦でもウェイドは36得点をあげてマーベリックスを降し、ついにウェイドにとってもヒートにとっても初となるファイナル制覇を成し遂げた。ファイナルMVPはシリーズ中34.7得点をあげたウェイドが文句なしの受賞。ウェイドは殆ど独力でマーベリックスを破ってしまったと高く評価され、またプレーオフ期間中体調不良に悩まされたウェイドは、試合中にも点滴を受けてプレイしており、その姿は1997年のファイナル第5戦で食中毒を患いながらも大活躍を見せたマイケル・ジョーダンに重ねられた。チャンピオンチームとして迎えた新シーズンはシカゴ・ブルズに大敗という形で幕を開ける。前シーズン同様シーズン序盤は苦戦を強いられ、オニールはまたもや怪我による戦線離脱、チームの多くを占めるベテラン勢も精彩を欠く中、ウェイドは変わらず高いパフォーマンスを維持し、チームを支えた。オールスターにファン投票で選出され、土曜日に開催されるスキルチャレンジに2年連続で出場。決勝は26.4秒の成績でコービー・ブライアントを破り連覇を果たした。シーズン中盤にはチーム成績も向上し始め、さらにはオニールの復帰という明るい材料もあったが、今度はウェイド自身が左肩を故障し、長期戦線離脱する事態となってしまった。肩にメスを入れてシーズンをリタイアするか、無理にでも復帰をするか二択を迫られたウェイドは後者を選択。4月8日のシャーロット・ボブキャッツ戦にて復帰するが、フリースローを度々外すなど、故障の影響ははっきりと表れた。オニールの復調もあり、チームは第6シードでプレイオフに進むが、1回戦にてブルズ相手に4戦全敗。前年チャンピオンチームがプレイオフ1回戦でスイープされるという、歴史的屈辱を味わう羽目となった。2007-08シーズンはチームにとってもウェイドにとっても最悪のシーズンになった。開幕は怪我で間に合わず、またチームメイトも怪我人が続出しチームは泥沼状態に陥った。ヒートはチームの解体を決意し、シーズン中にシャキール・オニールをトレードで放出。ウェイドは怪我を完治させるためシーズンの大半を欠場し、オニールもウェイドもその他の優勝メンバーも居なくなったヒートは「まるでDリーグのよう」と評され、15勝67敗と地区最下位で終わってしまった。シーズン前の北京オリンピックでの活躍はウェイドの完全復活を予感させるものだった。そして新シーズンが始まるとウェイドは過去2シーズンの不振が嘘のように精力的にプレイし、11月19日のトロント・ラプターズ戦では40得点11リバウンド5ブロックを記録し、40得点10リバウンド5ブロック以上を記録した史上2人目の選手となった(最初の一人は1977年のアルヴァン・アダムス)。オールスター明け後から3月に掛けては高得点を連発し、2月28日のニューヨーク・ニックス戦では第4Qだけで24得点をあげ、フランチャイズ記録を更新すると、3月9日の48得点を記録したシカゴ・ブルズ戦で78試合連続二桁得点を達成したことになり、これもまたフランチャイズ新記録となった。3月14日のユタ・ジャズ戦では50得点10リバウンド9アシストをあげ、あとアシスト1本で50得点とトリプルダブルという大記録を達成するところだった。さらにこの試合でアロンゾ・モーニングの記録を抜いてヒートの歴代通算得点1位となった。4月12日のニックス戦ではキャリアハイの55得点をあげている。ウェイドは30.2得点5.0リバウンド7.5アシストを記録し、見事に初の得点王に輝き、オールNBA1stチームにも選出される。さらにシーズン通算2,000得点500アシスト100スティール100ブロック以上を達成したNBA史上初の選手となり、また6フィート5インチ(約196cm)以下の選手としては史上初めてシーズン通算100ブロック以上を達成し、史上8人目となる2000得点500アシスト150スティール以上も達成した。チームも前年の大不振から見事に立ち直り、43勝39敗を記録してプレーオフに復帰。1回戦ではアトランタ・ホークスと対決し、第7戦まで戦った末に惜敗している。昨季の勢いを継続し、この年も素晴らしかった。得点、アシスト、スティールがリーグTOP10に入り、チームの勝ち星も増やした。しかしこの年のヒートは完全なウェイドのワンマンチームで、期待のマイケル・ビーズリーらが期待に応えられなかった。プレーオフでもウェイドが孤軍奮闘して爆発したものの、独力では勝てず、1回戦で敗退した。そして、多くの強力FAが揃った2009-2010シーズンオフ、ウェイドがマイアミに残留を決めた後にレブロン・ジェームズとクリス・ボッシュの2人の同期の大物が相次いでヒート移籍を発表、この結果マイアミに驚きのBIG3が誕生することになった。かくしてヒートは三人のスター選手を得ることになったわけだが、プレイスタイルが被るウェイドとレブロンの相性が悪いのではないかという疑念がもたれた。また、ウェイドは自身の怪我もあり調整不足でシーズンを迎え、開幕戦はボストン・セルティックスと対戦することとなり新旧BIG3対決と注目されたが自身の不調もあってなかなか活躍できず、レブロンとの呼吸もあわずベンチに下げられ敗戦した。なかなかチームも浮上のきっかけを掴めずに大きな批判にさらされることになるがウェイドはこの間「ヒートが負ければ世界が平和なんだろ」と発言して物議を醸し出した。最終的には順位も上げてPOに望むわけだが、カンファレンス・セミファイナルではセルティックスと対戦。実はウェイドはセルティックスを相手にこのシーズン活躍できておらず苦戦が予想された。しかしシーズン中とは一転、チームを牽引する活躍を見せてセルティックスを撃破した。そして優勝した時以来となるファイナルに駒を進めたわけだが、このファイナルでは相棒であるレブロンの不調もありダラス・マーベリックスに苦戦を強いられた。そして第五戦の直前、風邪をおして出場していた相手エースのダーク・ノビツキーに対してレブロンと共に茶化す仕草をしていたことが報道された。結局このシリーズでは負けたわけだが、レブロンやボッシュの獲得した上での敗戦、前述の行為など大いに批判される結果となった。続く11-12シーズン、前年度のようにレブロンと自分のどちらがエースかと張り合っていては勝てないと思ったウェイドは自らエースはレブロンに指名、エースとしての役割を譲って自分は他の役割を探すこととした。その結果ボールを持つ時間は減ったが、オフボールでの動きが大いに改善、効率のいいバスケットを展開するようになった。順調に勝ち進みプレーオフに進出したが、カンファレンス・セミファイナルではインディアナ・ペイサーズには大いに苦戦することになる。元々ビッグマンの多いペイサーズに対してサイズのないヒートは相性が悪いのであるが、この試合でのウェイドは怪我の影響もあってか集中力にムラがあり非常に不安定であった。そしてシュートタッチも非常に悪く、試合中にエリック・スポールストラHCと言い合い止めに入ったジュワン・ハワードにも食ってかかるという一面が見られた。しかしすぐにスポールストラHC と話し合い問題を解消、本人は「これが初めてではないし最後というわけでもない」と発言して第六戦では41得点10リバウンドと活躍した。そしてファイナルでは自身二度目のリングをかけてオクラホマシティ・サンダーと対戦することとなった。このシリーズではスタッツは残すもののTOが多かったりFG%はイマイチと調子が上がりきらない部分はあったが、3Kingsが発足して初の栄冠に大きく貢献すると共に自身二個目のリングを手にすることができた。王者として迎えた12-13はよりレブロンのチームという風潮が強くなったが、オフボールでの動きがさらに良くなると共に守備での貢献も高くトランジションも更に強力になった。往年のようにボールを持ってドライブで切り崩すことは減ったが、非常に効率が良くてFG%は五割を越えた。また、今までウェイドは怪我が多くて特にファイナルまで進んだ翌シーズンは怪我に苦しみ欠場が多かったが、例年に比べて安定したパフォーマンスを示した。しかしプレーオフに進んでからは怪我の影響が大きく出て次第に存在感がなくなっていった。特にカンファレンス・ファイナルではその傾向がさらに顕著になり、第一戦では4Q終盤に貴重なゴールを決めたもののOTではポール・ジョージの3Pに対するファウルでファウルアウトになると共にチームを初戦敗戦の危機に追いやった(レブロンのレイアップでチームは勝利)。その後も調子が上がらずユドニス・ハスレムやクリス・アンダーセン、マリオ・チャルマーズなどの方が活躍している印象もあり、第七戦の直前には自分の役割に対する不満をもらし「自分やボッシュはもっとできる。もっとボールが欲しい」とレブロン批判とも取れる発言をした。結局そのあとは活躍したものの、ファイナルを前に不安を残した。ファイナルではサンアントニオ・スパーズと対戦、レブロンやウェイドのペネトレイトを徹底的に封じる作戦を立てたスパーズに対してウェイドも苦しめられた。また、前半では活躍するものの後半では怪我の影響か失速する様を見せた。しかし第四戦では爆発、チームを牽引する活躍を見せると共に今まで調子を落としていたレブロンが復活するきっかけをも作った。第七戦でも好調で、独特なリズムから放つジャンパーが非常にあたっており、セレクションが悪いのではないかとも思われたがそのシュートがことごとく決まっていた。そして三年連続ファイナルに進出すると共に連覇を果たして三個目のリングを手にすることとなった。チャンピオンチームとして、レギュラーシーズンは安定の成績を残し、カンファレンス2位でプレイオフに臨んだ。ファーストラウンドでボブキャッツをスイープし、その後ネッツ、ペイサーズを破り、順当にファイナルに進出した。ファイナルで待っていたのは去年のリベンジに燃えるサンアントニオスパーズだった。三連覇のかかったファイナルだったが、スパーズの流れるようなパス回しに対応できず、ウェイド自身もペネトレイトを徹底的に封じられ、本来の実力を発揮できなかった。結局1勝4敗で敗れ、三連覇は幻となった。2014年7月11日、レブロン・ジェームスが古巣クリーブランド・キャバリアーズと契約し、全盛を誇っていた3Kingsは解体。自身とクリス・ボッシュらは再契約したが、シェーン・バティエは引退を表明。レイ・アレンもヒートと決別するなど、激震に見舞われ、チーム再編を余儀なくされた。レブロンが抜け攻守両面での負担が大きくなり、欠場試合も多く、チームは何とかプレーオフ圏内に踏みとどまっていたが、終始勝率5割を切る苦しい戦いが続き、37勝45敗で2008年以来のプレーオフ不出場となった。2015年7月2日に、1年2000万ドルで再契約した。2016年7月6日、シカゴ・ブルズと2年4750万ドルの契約を結び、故郷シカゴに凱旋。ウェイドを巡っては、前所属のヒートをはじめ、デンバー・ナゲッツ、ミルウォーキー・バックスなどが契約に乗り出していたが、最終的にブルズと契約。13年間プレーしてきたマイアミ・ヒートを離れ、地元チームでのNBAチャンピオンを目指すことになった。2004年、アテネオリンピックの米国代表チームの一員に選ばれる。オリンピックでは他のNBA1年目選手より比較的長い出場時間をもらい、チームの銅メダル獲得したものの満足のいく結果には至らなかった。2006年、チームの主力選手の1人として日本で開催されたバスケットボール世界選手権に出場した。ウェイドのプレイは日本人観衆を大いに沸かせたが、アメリカ代表はまたもや銅メダルに終わった。2008年、自身2度目のオリンピックとなる北京五輪では悲願の金メダルを獲得した。決勝のスペイン戦では前半重要な局面でシュートを決めチームを救った。2007-08の故障から完全に復活し、大会を通してMVP級の活躍を披露した(オリンピックのバスケットボールにおいてMVPは選出されない)。高速かつユーロステップを交えた自在なペネトレイトが持ち味の攻撃的ガード。コンボガードの典型であり、特にシューティングガードで才能を発揮する。マイアミ・ヒートの3度の優勝を支えてきたフランチャイズのエースであり、得点王の獲得もあるリーグ屈指のスコアラーである。強靭な肉体は空中戦で真価を発揮し、ペネトレイトとジャンパーを中心に得点を量産する。非常に勝負強く、06年ファイナルで平均34.6得点を記録し、マイケル・ジョーダンを彷彿させる決定力を見せた。シューズを履いて192cmとNBAのシューティングガードの平均194cmに比べ低身長だが、逆に体重は5kgほど重く、体脂肪も一桁である鍛え抜かれた肉体から生み出される身体能力は高く、80cmを超える高い跳躍力と210cmのウイングスパンから平均2mを超えるディフェンダーに対して繰り出されるダンクシュートも魅力のひとつである。アウトサイドシュートの安定感の欠如からペネトレイトに偏りがちなため、負傷が多い。2012-13 シーズンより中国の李寧ブランドと契約し、同社の製品を履く
出典:wikipedia
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