山都町(やまとちょう)は熊本県東部にある町で、上益城郡に属している。毎年、九月最初の土日に開催される八朔祭りや通潤橋が有名である。2005年2月11日に上益城郡矢部町、清和村、阿蘇郡蘇陽町が合併して誕生。熊本県下ではあさぎり町・氷川町とともに「まち」でなく「ちょう」と読む数少ない町である。現在、熊本都市圏及び政令指定都市についての研究会に参加している。阿蘇の外輪山から九州山地まで変化に富んだ自然を持ち、宮崎県と接している。中世南北朝から戦国期にかけては、「阿蘇大宮司家」が旧矢部を本拠地として県央地域一帯を所領とし、その居館「浜の館」を築いてその繁栄を誇る。その後、江戸時代となり、地方行政の根幹をなす「手永制度」により、矢部郷(旧矢部町と旧清和村朝日地区)は「矢部手永」、知保郷(旧清和村小峰地区と旧蘇陽町一帯)は「菅尾手永」として、それぞれに惣庄屋を配して行政治安を司らせた。民衆も惣庄屋といったいとなり地域の発展に寄与した。肥後細川藩の藩主が、矢部地方に狩りに出かけた際、この地方にある滝の壮大さ・美しさに感動し、藩のお抱え絵師を派遣して、肥後各地の名勝の絵を描かせた。(→「領内名勝図巻」)嘉永7年、矢部手永の会所(当時の役場相当)時代には、他の地方と同じように新道や堰、用水など数多くの公共的インフラが建設された。その中の一つに、御岳と白糸地区に造られた生活用水や農業用水確保のための「通潤用水」があり、通潤用水の水を送る石組みの水路橋として築造されたのが「通潤橋」である。通潤橋は、阿蘇や熊本城などと並び熊本県でも有数の観光資源・文化財であり、町のシンボルともなっている。当時、矢部会所の最高責任者として惣庄屋の布田保之助がいたが、通潤用水及び「通潤橋」は彼一人の成果で作られたものではなく、長らく大きな誤解をされてきた。(布田の神格化、カリスマによる)通潤用水及び通潤橋は矢部手永から集められた資金や肥後細川藩の資金を借り、各地の労働者や他地区の石工など総動員して作られた地域の歴史的な遺産であり、道路などと同じく個人や地元・特定団体の所有物ではない。この頃から肥後と日向を結ぶ「日向往還」の主要な交易地・交通の要衝として、山都町にある中心市街、浜町や馬見原(蘇陽地区)は商家を中心に繁栄していた。明治初め、西南戦争の折には、熊本で官軍と戦って破れた薩摩軍が、敗戦の退路に立ち寄っている。合併により旧矢部町役場を本庁舎とし旧清和村役場、旧蘇陽町役場をそれぞれ清和総合支所、蘇陽総合支所へと移行。また新庁舎の建設に伴い、山都町役場本庁舎の一部が旧白糸第一小学校へと移転することになった。本庁舎総合支所2006年度(平成18年度) 町内総生産490億円(平成20年 町民所得推計調査結果)(平成19年 工業統計調査結果)小売業卸売業(平成19年 商業統計調査結果)※山都町バスの系統についてはこちらを参照。北中島IC(仮称)は2018年度の供用予定である。矢部IC(仮称)の供用時期は未定。(廃校になった学校 - 山都町立朝日小学校、山都町立朝日西部小学校、山都町立小峰小学校ほか)地方の山村の風景や名勝を描いたものは無く、当時の日本に比類ないものであり、大変希少な史料である。架空の人物
出典:wikipedia
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