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牛田浄水場

牛田浄水場(うしたじょうすいじょう)とは、広島県広島市東区牛田新町にある、広島市水道局が管理する浄水場。太田川水系旧太田川(本川)上流部の左岸側にあたる、牛田地区にある。北方に本川と太田川放水路分岐、南方に本川と京橋川分岐がある。西側に祇園新道や広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)が通っている。近代水道百選の一つ。1898年(明治31年)大日本帝国陸軍の「広島軍用水道」が整備された時に建設された市内最古の浄水場であり、広島市水道局としては市内唯一の戦前に竣工された浄水場である。100年を超える歴史を持ち、1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下で被爆した歴史を持つが、創設から現在まで不断水を続けている。敷地内にある広島市水道資料館・別館および旧濾過調整池上屋や旧水道管は、「広島市所管の近代水道関連遺産」として近代化産業遺産に選出された。また建物のみ原爆被災した被爆建物として広島市に登録されている。"広島水道創設当初からある浄水場であることから、牛田浄水場のことだけでなく一部広島市上水道の歴史も記載する。"広島は太田川下流域の三角州に形成された街であり、海に近いため井戸からも良質な飲用水を取ることができず、住民は不衛生な川水を飲用するしかなかった。江戸時代において、縮景園を整備した広島藩7代藩主浅野重晟は、園内に新鮮な水を導いれること思いつき、文化4年(1807年)牛田の清水谷から園まで竹管を主な材料として導水路を整備した。これが広島における最初の水道にあたる。ただこの導水路は早々に休止している。明治に入り、不衛生な川水を飲料することで起こる伝染病の流布を懸念し、1889年(明治22年)市制施行して以降、市民からの水道建設の要望が高まった。一方で1888年(明治21年)広島を拠点に大日本帝国陸軍第5師団が発足すると、広島には陸軍関連の施設が建てられていった。1889年、後に浄水施設が建設される安芸郡牛田村一帯は陸軍省の用地となっていった。1890年(明治23年)その第5師団長野津道貫中将により鍋島幹県知事に対し水道布設を要望している。1894年(明治27年)4月、広島市は内務省衛生局のお雇い外国人であるウィリアム・K・バートン顧問技師(「バルトン」として知られる)に上水道布設計画を依頼する。バルトンは同年12月広島市に計画案を提出する。ただ、市の財政的な問題から早急な市水道布設実現はこの時点では不可能と思われた。バルトンへの依頼3ヶ月後にあたる1894年(明治27年)7月、日清戦争勃発。同年6月山陽鉄道広島駅開業、同年8月宇品線開通、宇品港(現広島港)が軍用港に指定され、同年9月には広島大本営が設置され、明治天皇が広島で統帥することになった。この時期、広島では伝染病が流行した。1895年(明治28年)3月から同年11月にかけて、県内で3,910人(死者2,957人)、うち市内1,308人のコレラ患者が発生した。これは日清戦争末期から終戦後兵士が帰国してきた期間に重なり、つまり戦地で伝染病にかかり帰国後蔓延したということになる。更に、大本営参謀総長である有栖川宮熾仁親王が広島で発症した腸チフスで1895年1月に死去するなど、指揮にも影響していた。そこで陸軍は伝染病対策に動く。戦争帰還兵に対して検疫をおこなう「似島検疫所」が1895年4月にでき、後藤新平陸軍検疫部事務局長による指揮のもと急速に伝染病対策が図られる。また陸軍による市街地の徹底消毒も行われた。こうした広島が軍都として急速に発展していく中で、陸軍司令部が置かれた広島城や陸軍の兵站拠点となった宇品港へ上水を送るだけでなく、広島市内に蔓延する伝染病を撲滅のためきれいな水が大量に必要となり、早急な上水道布設の必要に迫られた。1895年(明治28年)7月、バルトンの布設計画案を基に広島市水道布設を広島市議会で決議、全工事費95万円のうち2/3を国庫で補おうと関係省に申請したものの却下された。そこへ同1895年11月「明治天皇の勅令」である"勅令第157号臨時広島軍用水道布設部官制"公布により国営工事で広島軍用水道布設という異例の形で上水道建設が決定された。1896年(明治29年)5月1日起工、1898年(明治31年)8月12竣工。全工費639,845円で全て国費。なお臨時広島軍用水道敷設部の幹部職員は下表のとおり。うち、軍用水道布設計画は吉原重長が立案、つまり牛田浄水場の設計はバルトンではなく吉原が行なっている。あわせて軍用水道に接続する形で市水道も整備されることになり、野村靖内務大臣および大山巌陸軍大臣の特許、児玉源太郎軍用水道敷設部長監督のもと軍用水道と同日着工、軍用水道と同日竣工した。全工費294,065円で全て市債による。ちなみにこれは、横浜・函館・長崎・大阪に次いで全国5番目の近代水道創設であった。同1898年8月25日、軍用水道および市水道の竣工式および通水式がここ牛田浄水場で行われた。同年9月から軍用水道は広島市に貸与され、市が管理することになった。市水道の市内への通水は1899年(明治32年)1月から開始した。1920年代ごろの上水施設は、まず太田川の牛田村字神田、現在の日通寺下流側にあった水源地(取水施設)で取水、現在の牛田浄水場の位置に沈でん池が、現在の新牛田公園の位置に"ろ過池"(下の1974年空中写真参照)があり、現在も同地にある牛田配水場まで送水し、そこから給水した。主要な給水管は、軍用水道は広島城およびその周辺の陸軍施設への給水と広島駅およびその裏手の東練兵場から宇品港(広島港)への給水、市水道は軍用水道と接続延長し主要幹線道路下に配置された。日露戦争以降更に軍都として発展し、それに加えて市町村合併に伴い爆発的に人口が増え給水危機に陥ったため、1908年(明治41年)・1924年(大正13年)・1935年(昭和10年)と3度にわたり拡張工事を行った。更に、従来の牛田水源地だけでは対応できないことから、1933年(昭和8年)上流の原水源地(現安佐南区東原・西原)でも取水するようになった。市の西方面の給水をカバーするため1935年己斐配水池が竣工した。終戦ごろの最大給水量は10.6万m/日にまでなった。1945年(昭和20年)8月6日被爆。爆心地から約2.77kmに位置した。鉄筋コンクリート建物は半壊程度だったが木造建物は全壊し、爆風によりポンプや電気系統は破損し送水停止した。致命的な火災からは免れている。水源地(取水場)は送電線が断絶した影響で一部配電設備に被害があったものの、爆心地から遠かったため被害は小さかった。牛田配水池も被害は軽く、配水池に残った上水で辛うじて給水が続けられていた。そこへ生き残った水道部職員で懸命な復旧作業を行い、これに陸軍船舶兵(暁部隊)も手伝った。当時復旧作業を行った水道部技術職員の記録が残っている。当日勤務し当地で被爆したある職員は、ポンプ室の屋根が部分的に崩壊したこと、ポンプの揚水弁3つとも閉鎖したこと、配水池は無事だったがこのままでは水がなくなってしまう恐れがあったことから配水弁を絞ったこと、を手記に残している。当日非番で別の場所で被爆した職員も駆けつけ復旧作業を行った。なお広島市公式資料である#原爆戦災誌や水道局技術職員の記録には残っていないが、牛田地区は被爆1~2時間後に3分程度のごく短い間黒い雨が降ったと被爆者の証言がある。被爆6時間後の同日午後2時には内燃機送水ポンプにて牛田配水池への送水運転開始、夕方には送水ポンプ3台稼働させ給水量は4割まで回復した。なお基町にあった水道部庁舎は全壊、水道部全職員186人のうち被爆により83人が死亡した。ただ、市中心部では被爆によりあちこちの水道管が壊れていたためそこまで上水は届かず、水を求める被爆者は次々と川へ飛び込んだ。さらに同年9月の枕崎台風でも市内水道橋が落橋するなど被害を受ける。水道部職員は翌1946年(昭和21年)4月上旬まで応急修理を行い、市内全域まで復旧した。この間、水道が止まらなかったことがその後の復興に大きな後押しとなった。1949年(昭和24年)8月広島平和記念都市建設法が公布・施行され、市への国有財産無償譲与を認められた。このあたりの旧軍用地は、1952年(昭和27年)から1956年(昭和31年)にかけて譲与された。1952年広島市水道局が発足する。戦後人口増加により市内の上水道は更に整備され、1960年代以降他の浄水場も増え、それに伴い牛田浄水場の給水区域も小さくなっていった。また、牛田および原取水場は河川改修によりなくなり、1958年(昭和33年)戸坂取水場が竣工され取水を開始、1966年(昭和41年)黄金山配水池が竣工され運用開始するようになった。1980年代祇園新道建設が進み、浄水場敷地に道路が通ることとなった。この際敷地の半分以上が道路と公園などの公共施設となり、それに合わせて1985年(昭和60年)7月水道資料館が開館し現在の状況となった。2009年(平成21年)、市水道局は市水道体系の更新計画である「広島市水道ビジョン」を発表。老朽化に伴い府中浄水場廃止が決定し、牛田浄水場で広島市東部全域および安芸郡府中町・坂町全域をカバーする予定となっている。2012年現在。次に戦前の軍用水道布設における設計上の諸元を列挙する。主なもののみ。2012年現在。ここでは同敷地内の牛田配水池のみを示す。2012年現在。総有効容量:36,230m 。資料館は、元々1924年(大正13年)建造の牛田配水池への送水ポンプ室。別館は、元々1898年(明治31年)建造の牛田水源地竣工時からある量水室。1945年8月6日被爆、双方とも爆心地から約2.80kmに位置した。爆風により屋根や扉は大破したものの全倒壊は免れた。ポンプも破損したがその後の復旧作業により6時間後には配水池への送水を開始している。量水室の方は1972年(昭和47年)まで使用された。祇園新道建設により浄水場敷地内が縮小され歴史的な建物が取り壊されてしまったことを期に、水道関連の資料を保存公開する資料館として1985年7月に開館した。1993年広島市により被爆建物リストに登録。2009年建物および公開資料が経済産業省により「広島市所管の近代水道関連遺産」として近代化産業遺産に選出された。資料館は赤レンガ張りの鉄筋コンクリート構造2階建、別館は鉄筋コンクリート構造平屋建。資料館では水道の歴史の他に、水道創設時に使われた鉄管、被爆時の送水ポンプの運転日誌である「内燃機動送水喞筒運転日誌」、水に関する市民の作品などを展示している。別館はビデオルームとなっている。入場無料。1898年(明治31年)牛田水源地竣工時からあるろ過調整池と、1924年(大正13年)拡張工事により設置された上屋である。上屋は煉瓦造平屋建、ろ過池の壁面は花崗岩切石が用いられている。現在は未使用。これも資料館同様に、1945年被爆(爆心地から約2.77km)、1993年被爆建物リスト登録、2009年近代化産業遺産に選出された。1503年(文亀3年)安芸武田氏当主武田元繁が佐東銀山城(武田山、安佐南区)の守護神として甲斐国から神田八幡宮を勧進、現在の東区スポーツセンターあたりに奉遷した。1889年(明治22年)この付近が軍用地となり、牛田・白島・宇品の三町村民協議の結果、神田神社は宇品へ移転した。これを惜しんだ地元住民により軍用地のそばに神田神社の分社が祀られた。戦後、軍用地が市に払い下げられ再整備された際にその分社一帯は浄水場敷地内となり、現在の神田神社分社となった。8月6日の広島平和記念式典では、ここの手水鉢から献水を供えている。広島軍用水道布設つまり明治天皇の勅令を実現させた当時の伊藤博文内閣総理大臣と児玉源太郎陸軍中将兼広島軍用水道施設部長の2人と、のちの広島市水道拡張工事の際にこの地を訪れた記念として後藤新平逓信大臣が書いた石額が浄水場内に残っている。なお児玉と後藤は台湾における日本統治(児玉・後藤政治)において辣腕を振るっており、その2人の直筆がこの浄水場内に現存していることになる。浄水場竣工時に作られた軍用水道用の水道橋は2つ存在していた。また、広島城本丸に"桜の池"と呼ばれるコンクリートで作られた池の跡がある。これは軍用水道敷設を記念して作られたものであり、現在も残る軍用水道ゆかりの遺構である。周りは祇園新道建設や1994年アジア競技大会を機に公共施設が整備され、新牛田公園や牛田総合公園の公園、東区スポーツセンターや広島市総合屋内プール(ビッグウェーブ)の屋内スポーツ施設、牛田公民館と立ち並ぶ。最寄りの駅はアストラムライン牛田駅。昔周辺が陸軍省用地だったころ名残として、南に工兵橋が現存している。"以下水道資料館公式に記載されているものを列挙する。" 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出典:wikipedia

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