アンドレ・マルロー(André Malraux, 1901年11月3日 - 1976年11月23日)はフランスの作家、冒険家、政治家。ド・ゴール政権で長く文化相を務めた。代表作に『王道』や『人間の条件』がある。マルローはフェルナン・マルローを父としてパリに生まれたが、両親は子供のころに離婚、パリ近郊のボンディで母親と祖母に育てられた。(なお、父フェルナンは再婚し、ロランとクロードの2子をもうけ、1930年に自殺する。)マルローはパリ東洋語学校(。現在のINALCOの前身)に入学し、東洋の言語を学ぶとともに、首都の芸術家の集まりにしばしば顔を出して少し風変わりなダンディーを気取った。在学中の1921年にドイツ系の富裕な家族の遺産を相続したクララ・ゴルドシュミットと結婚し、学校は卒業しなかった。マルローは妻とともにベルリン、シチリア、チュニジアなどを旅行するが、1923年妻の財産を株式投資につぎ込み株価暴落によって破産。同年、妻とともにカンボジアに出かけ、12月23日バンテアイ・スレイ寺院で女体のレリーフを盗んだため友人のルイ・シュヴァッソンとともにプノンペンで逮捕された。1924年7月プノンペンの裁判所でマルローは禁固3年、友人のルイは禁固1年半の判決を受けた。一方、無罪判決を受けた妻クララはいち早くフランスに帰国し、知識人たちに救援運動を呼びかけた。これに応じてアンドレ・ジッドやフランソワ・モーリアックらパリの知識人らが署名嘆願運動を起こし、マルローは10月にサイゴンの控訴審で執行猶予1年に減刑され、11月にフランスに帰った。彼はインドシナにおけるフランス植民地当局に極めて批判的で、1925年には再びインドシナに赴きヤング・アンナン同盟設立に助力し、新聞『鎖に繋がれたインドシナ』を創刊した。考古学への情熱からラオスへの調査旅行も行い、1927年には中国国民党とも関係をもった。1926年に最初の小説『西洋の誘惑』を書き、その後、1928年『征服者たち』、1930年にはカンボジアでの事件を基にした『王道』、1934年には上海における共産主義政権の崩壊を描いた『人間の条件』を書いて1933年にはゴンクール賞を受賞した。1930年代にはイランやアフガニスタンへの考古学調査にも参加し、ルイ・アラゴンとともに文化防衛のための国際作家同盟も設立した。1933年、長女フロランス誕生(このフロレンスは、のち映画監督アラン・レネの最初の妻となる)。1936年スペイン内戦が起こると義勇兵として共和国派に参加し、空軍パイロットとしてマドリッド攻防戦で二度負傷した。共和国軍の資金募集のために米国、カナダ旅行も行い、この経験をもとに1937年『希望』を出版した。この頃からジョゼット・クロティスと同棲し、1940年に妻クララとは離婚。またこの時期、同じように義勇兵としてアメリカから参戦していた作家アーネスト・ヘミングウェーの知己を得た。1939年第二次世界大戦が勃発するとフランス軍に入り、戦車部隊の一兵士となったが、1940年に捕虜となり、脱走後、レジスタンス運動に身を投じた。1941年にジョゼットと再婚。ピエールとヴァンサンの2子をもうける。1944年にはゲシュタポに逮捕され、危うく処刑されるところだったが、レジスタンスのメンバーに救出された。同年9月自由フランス軍のアルザス・ロレーヌ旅団司令官となり、ストラスブール防衛戦やシュトゥットガルト攻略戦に参加した。この功績でレジスタンス勲章や戦争十字勲章を授与された。ジョゼットはこの年に事故で死亡。1945年8月自由フランス軍のシャルル・ド・ゴール将軍に出会って意気投合し、1945年11月から1946年1月にかけてフランス臨時政府の情報相に任命された。1947年ド・ゴールが創設したフランス国民連合に参加、広報を担当する。ド・ゴールが下野していた1950年代には『芸術の心理』や『空想美術館』など芸術や美術に関する著作を発表した。1958年6月、ド・ゴール政権成立によって再び情報相を拝命し、1960年から1969年にかけて文化相に在任した。この間マルローは、美術行政の担当者になっていたジャック・ジョジャール(=ルーブル美術館所蔵の美術品の数々を疎開させナチスによる窃盗や略奪から守り抜いた英雄)のことを嫌い、突然解任し、「君には別のもっと良い地位を用意するから」と欺き、実際にはそれは実行しなかった。マルローは、あくまで、かつて東洋で美術品の窃盗をおこなった男で、その男(元 窃盗犯)が文化大臣に任命されたところ、なんと部下には、フランスの誇る文化財を窃盗から守り抜いた英雄がいた、という皮肉な事態が起きたのである。1965年にはマルローは訪中して毛沢東と会見した。1974年には日本も訪問、熊野・那智滝や伊勢神宮に参拝し、日本文化に深く親しんだ。異母弟であるロラン(1912年-1945年)は第二次世界大戦中にレジスタンスの闘士となり、1945年3月にドイツ軍によって処刑された。もう一人の異母弟クロード(1920年-1944年)はイギリスが支援する諜報機関の諜報員としてレジスタンス活動に協力していたが、1944年にドイツ軍に捕らえられ処刑された。1948年に異母弟ロランの未亡人であるマリ=マドレーヌ・リューと結婚。彼女とはマルローが亡くなるまで添い遂げた。1961年の交通事故で、当時20歳のピエール、17歳のヴァンサンの息子2人を同時に失った。マルローは1976年にパリ近郊のクレテイユで死去し、その遺産は娘フロランス・マルローが相続した。没後20年目の1996年11月23日、ジャック・シラク大統領らの尽力でマルローの棺はフランスの偉人を祀るパンテオン (パリ)に改葬された。内宮外宮を含め千古の技術を集めた神宝の再生された第六十回伊勢遷宮(1973年10月)の7ヶ月後、1974年5月マルローは参拝している。そして、伊勢神宮の参拝においては、それまでの彼の聖芸術探索をつうじて追究してきた神性、聖性を産みおとしたところの、さらに元にあるもの、何かしら根源的なものへ、眼差しを据えている。「忘れられた建築家が、この社を創案したのだった。日本人が、絶える事なくそれを燃しては立て直す。それゆえにこそ、永遠なれと。忘れられた庭師が、これらの木々をうえたのだった。幾百年後にも大地からの未知の祝詞が人々の耳に届くようにと。西洋の建築家は、その聖堂が久遠の石のごとくであれと夢み、伊勢の大工たちは、その柱が、この上なく壮麗な宴のごとくであれと念じた。しかして、このたまゆらは、大聖堂よりピラミッドより力強く、永遠を語るのだ。そそり立つ列柱、そそり立つ飛瀑、光に溶け入る白刃。日本。」(アンドレ・マルロー『反回想録』第五部第二章) 更にこう続く。「伊勢神宮は過去を持たない。20年毎に建てなおすゆえに。かつ又、それは現在でもない。いやしくも千五百年このかた前身を模しつづけてきたゆえに。仏寺においては、日本は、自らの過去を愛する。が、神道はその覇者なのだ。人の手によって制覇された永遠であり、火災を免れずとも、時の奥底から来たり、人の運命と同じく必滅ながら、往年の日本と同じく不滅なのだ。神宮は、テンプルにしてテンプルにあらず。これを木々から隔てるや、それは、命を失うのだから。杉の巨木のかたちづくる大聖堂の、神宮は祭壇にして、サンクチュアリ。ただし、西洋の大聖堂の円柱は、穹窿の暗がりへと消え、これらの杉の大木は祭壇を讃美するのだ。日本の祖先。太陽への捧げもの。光箭の葉ごもりへと掻き消えたるはてしなき、その垂直軸をもって、、、」この参拝に同行したマルローの研究家である竹本忠雄は、これをマルローの悟りと著書のなかで書いている。神道的霊性の本質がなければ、マルローの悟りもありえなかったと。1920年代1930年代(※Thierry Maulnierによる脚色版『人間の条件 戯曲』は小松清訳が河出書房「河出新書」から1956年に、中外書房から1958年に刊行された)(第三書房の原文と訳文を併載するシリーズ「現代フランス文学双書」から1959年に刊行されている)(※1938-39年にBoris Peskineとの共同監督で撮影されフランスで45年に公開された映画"Espoir, sierra de Teruel"〔1993年日本初公開時のタイトルは『希望 テルエルの山々』〕がある。)1940年代(※原文掲載される三修社「大学教科書」シリーズから1971年に堀田郷弘編注『人間と芸術 マルローのユネスコ講演【改訂版】 L'homme et la culture artistique』が刊行されている)(小松訳『東西美術論』は『芸術新潮』にて1950年8月号から1956年10月号の「東西美術論 完(75)」まで毎号掲載された)1950年代1960年代1970年代没後刊行1940年代1950年代1960年代1970年代1980年代1990年代2000年代2010年代
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。