大黒 将志(おおぐろ まさし、1980年5月4日 - )は、大阪府豊中市出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。元サッカー日本代表。5歳の時に 兄の影響で サッカーを始める。小学1年次より豊中SSに所属し、3年次からは元日本代表FWの釜本邦茂が代表を務めていた釜本FC(ガンバ大阪ジュニアの前身)でもプレー。4年次からは、釜本FCより移管されたガンバ大阪ジュニアでのみプレー。中学校入学と同時にガンバ大阪ジュニアユースに昇格。セレクションが無かったため100人以上の中学生を抱える大所帯になっていたが、Aチーム(1軍)入りを続け、大阪府立少路高等学校進学と同時にガンバ大阪ユースへと昇格した生粋の生え抜き選手である。ユースチーム所属時にはFWとMFでプレー。高校3年次にFWとして定着し、ユース同期である二川孝広 とともにクラブユース選手権を制した。その後に開催された高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会では決勝戦で藤枝東高校との激戦に敗れ、準優勝となった。1999年からガンバ大阪トップチームに昇格。同年3月、市原戦でJリーグ初出場。2000年3月のV川崎戦でJリーグ初得点。FWの選手層が厚かったことからMF(ウイングバックなど)で起用されることもあった。2001年、試合出場経験を積むために自ら志願してコンサドーレ札幌にレンタル移籍。ポジションを奪うことは出来なかったものの、岡田武史監督の下で練習に取り組む姿勢を改め、手応えを掴む1年となった。2002年、G大阪に復帰。復帰当初は中盤の攻撃的なポジションで起用されていたが、ユース時代からの本来のポジションであるFWでサッカー選手として最後の勝負をさせてほしいと西野朗監督に直訴しFWとして復活。2004年に才能が開花し、Jリーグ得点ランク2位、日本人選手最多となる20得点を挙げ、同年のJリーグベストイレブンに選出された。Jリーグでの活躍が認められ、2005年には得点力不足と嘆かれていたジーコ監督率いる日本代表に初選出。代表として2戦目となった2月9日のアジア最終予選・対北朝鮮戦で後半残り10分から途中出場し、後半ロスタイムに値千金の 決勝点を挙げた。この試合のテレビ中継の瞬間最高視聴率が57.7%(関東地区)を記録したこともあり、その知名度が瞬く間に急上昇した。日本代表では2005年の1年間で最多となる5得点を挙げている。またこの年Jリーグではアラウージョ、フェルナンジーニョと組んでG大阪の攻撃の核としてフル回転。リーグ6位の16得点を上げ、G大阪のJリーグ初優勝に貢献した。大黒天と名前が同じ文字であることから「大黒様」「大黒神」と呼ばれる事も多く、また、G大阪のホームタウン・吹田市にあるガンバ大阪オフィシャルショップ内にはその大黒天にあやかった「ガンバ大黒(だいこく)神社」が2005年3月23日に建立された。2006年に移籍となったが、北千里サティに大黒神社の大黒像が移籍後も残っている。2006年1月には当時日本企業のインデックス社がオーナーであったフランスのクラブチーム「グルノーブル・フット38」(フランスリーグ2部所属)へ完全移籍。5試合のフル出場を含め19試合6得点(2005-06に17試合5得点、2006-07に2試合1得点)。同年5月、2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出、グループリーグ3試合に全て途中出場した。しかし、出場時間は短く(オーストラリア戦1分、クロアチア戦5分、ブラジル戦24分)、得点は挙げられなかった。同年8月、ヨーロッパの移籍期限間近である8月31日にセリエAのトリノFCへの移籍が決定。大黒自身の以前からの夢であったセリエAへの移籍が実現したが、練習試合で得点を重ねてアピールするも、公式戦ではFWでのプレー機会に恵まれなかったこともあって 無得点に終わり、イタリアでの挑戦は消化不良に終わった。なお、2006年当時のトリノFCの監督は、のちの日本代表監督のアルベルト・ザッケローニであった。2008年6月30日、東京ヴェルディに完全移籍で加入することが発表され日本復帰。退団したエースFWフッキの穴埋めを期待されたが、チームにフィットするのに時間を要したこともあり、チームは低迷し、J2に降格。翌2009年も東京Vに残留し、J2を舞台に21得点を挙げたが「(攻撃は)1人じゃ厳しい」と孤軍奮闘は否めず、チームの親会社変更など雑音も多くJ1昇格はならなかった。2010年、東京Vの経営難により移籍を余儀なくされたが、東京Vとは2011年末までの契約を結んでおり 完全移籍では高額の移籍金が発生するため、レンタル移籍でJ2の横浜FCへ。2度のハットトリックを達成するなど 16試合で12得点を挙げ、前年に続きJ2では別格の実力を見せた。ワールドカップ開催によるJリーグ中断期間中の同年6月に、J1・FC東京へレンタル移籍(保有権は東京Vのまま)。FC東京ではチームの主力となり、同僚の羽生直剛は「エゴイスティックなタイプかと思ったが、周囲を活かしてくれるのでやりやすい」とNHKのサッカー中継のインタビューでコメントしている。8月に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップでは、対戦相手のLDUキトのエドガルド・バウサ監督に特に注意すべき選手として警戒されていたが、試合終了間際に同点ゴールを決め、クラブのタイトル獲得に貢献した。しかし9月半ばの監督交代以後はフル出場の機会を一度も得られず、翌年の戦力構想外となり、移籍期間満了により退団。2011年、横浜F・マリノスに完全移籍。2005年以来となるJ1での二桁得点を達成した。2013年2月、札幌在籍時にも指導を受けた岡田が監督を務める中国サッカー・スーパーリーグの杭州緑城足球倶楽部へ期限付き移籍。2014年1月、横浜F・マリノスとの契約満了により杭州緑城足球倶楽部へ完全移籍。同月、京都サンガF.C.への期限付き移籍が発表された。その後シーズン途中に完全移籍に移行。同年リーグ戦42試合に出場し26得点を挙げJ2得点王となった。翌2015年、シーズン途中に石丸清隆に監督が交代すると、守備を重視した同監督が指揮を執った20試合で先発は僅か5試合に留まった。だが監督交代後も6ゴールを挙げシーズン16ゴールでチーム最多得点。2016年より期限付き移籍でモンテディオ山形へ加入。選手保有権は引き続き京都にあり、山形は京都と対戦する全ての公式戦に大黒を起用することが出来る契約となった。204||69||34||12||13||12||251||93137||75||colspan="2"|-||5||1||142||7619||6||1||0||0||0||20||610||0||1||0||colspan="2"|-||11||024||4||colspan="2"|-||2||3||26||7394||154||36||12||20||16||450||182その他の国際公式戦出場大会試合数|2005||15||5!通算
出典:wikipedia
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