小宮山 悟(こみやま さとる、 1965年9月15日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球評論家、日本ソックモンキー協会有限事業責任組合理事、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事(非常勤)。制球力が非常に高いことから「投げる精密機械」、「ミスターコントロール」などと呼ばれた。風避けのアイウェアと独特のセットポジションが特徴。柏市立柏第四中学校から芝浦工業大学柏高校へ進学(併願した千葉県立柏南高等学校には不合格。当時の柏南の野球部員は、柏四中から有名なバッテリーが入ると期待していたというが、結局捕手のみの入部となった)。芝工大柏高校卒業後、二浪して早稲田大学教育学部に入学し、野球部に入部。2年の秋からエースの座に就く。通算52試合に登板し20勝10敗、防御率1.85、165奪三振。慶應義塾大学の大森剛との対決は早慶戦の華と呼ばれた。大森は、3年の春にはリーグ打率の更新、秋には2シーズン連続首位打者が期待されていたが、そのいずれも小宮山によって阻止されている。しかし、その秋の早慶戦ではチームの勝利優先のために大森を敬遠、慶應側スタンドからの野次に思わずマウンドで涙したという逸話も残っている。4年次には主将を務めている。なお早稲田では教職課程を取り、教員免許を持っている。のドラフト1位でロッテオリオンズに入団。、勝ち星は6勝ながらいきなりチーム最多先発登板と最多投球回数を達成する。ルーキーながら日米野球の代表選手に選ばれ、後にチームメイトになるフリオ・フランコと対戦する。この年は村田兆治の引退年でもあり、同じチームで一年間様々なことを学ばせてもらい、また村田のトレーニング量の多さに驚愕したと語っている。小宮山が過去のことを振り返る際にはほぼ必ずといっていいほど、村田から受けた影響の大きさを話している。、千葉移転前のロッテオリオンズ最後の開幕投手を務め、シーズン初の二桁10勝を挙げる。一方で負け数も16敗と多かった。以降3年連続して開幕投手を務める。は8勝15敗と前年同様負け数が二桁に達してしまった。は開幕戦の完投勝利を皮切りに、開幕から自身登板時に6試合連続完投勝利というプロ野球史上初の記録を達成(その後6連敗を喫して6勝6敗となるなどして、シーズン成績は12勝14敗で負け越し)。は勤続疲労により不調と怪我にあい2完封するものの、プロ四年間で最悪の成績に終わる。は前年とは打って変わって、プロ通算でも最高の勝率を記録し、この年のロッテ三本柱の一角を担い90年代唯一のAクラス入りに貢献する。はシーズン通して先発は担ったものの、前年とは正反対の成績に終わってしまい、隔年エースが脱却できずにいた。は3本柱だった、伊良部秀輝、エリック・ヒルマンの退団もあり、4年ぶりに開幕投手を務め、開幕から自身登板時に6連勝を記録。同年はキャリアハイの防御率2.49で最優秀防御率のタイトルを獲得。も開幕投手を務めた。同年チームは6月13日から7月8日まで18連敗をしたが、その『悪夢の18連敗』を翌7月9日のオリックス戦(GS神戸)でストップさせたのは小宮山である(自身の完投勝利による連敗阻止)。奇しくもこの試合の最後の打者となったのは、前年までのチームメイトでトレードによりこの年からオリックスに移籍してきた五十嵐章人であった。なお連敗の始まりとなった6月13日の試合の敗戦投手も小宮山であり、対戦相手も同じくオリックスであった(球場は千葉マリンスタジアム)。この年は11勝12敗の成績を残したが、101失点を喫した。、FA権を行使する意向を球団に伝えたところ、同一リーグに移籍しないことを条件に、球団からはFA補償のかからない自由契約を提案される(実質戦力外通告だったと言われ、一方的に自由契約としたという意見もある)。紆余曲折あり、様々な憶測を呼んだが、メジャーリーグ移籍を視野に入れ、横浜ベイスターズに移籍。ロッテ時代の1990 - 99年の10年間にプロ野球で最もアウトを取った投手である。は8勝11敗防御率3.96の成績だった。は自身7度目の開幕投手を務め、チーム最多のシーズン12勝を挙げる。同年オフ、トニー・アタナシオを代理人としてFA権を行使した。2001年12月1日にニューヨーク・メッツと1年50万ドルで契約(2年目は球団オプション)。は『和製マダックス』と地元紙に評価され、メジャー初登板も9球で三者凡退に抑えるが、メジャーの打者のパワーに圧倒されて打ち込まれる事が多くなり、結局メジャーでは1勝もできずに帰国。25試合に登板したものの、全て中継ぎ登板で防御率は5点台だった。はメジャーから声がかからず、国内球団にも横浜以外は同年11月30日まで獲得にはFA補償が必要なため復帰できなかった。この年は「現役投手」という肩書きで野球解説者を務める傍らトレーニングを続ける。、ロッテに復帰。この年は先発だったが3勝4敗と往年の活躍を見せることはできなかった。は自ら敗戦処理を買って出て、チーム31年ぶりとなるリーグ優勝(シーズン勝率は2位、プレーオフで勝利)・日本一を支える。同年以降は自軍が大量リードされている展開でのロングリリーフがほとんどとなった。これは監督のボビー・バレンタインの「将来性のある若い投手に敗戦処理をさせても意味がない」との持論が反映されたものであった。このような起用法に、自身のプライドから異を唱えるベテラン投手もいる中で、小宮山は自分の役目を淡々と担っていた。敗戦処理だけでなく、延長戦など緊迫した場面を任される事も多かった。これも「若い投手がサヨナラ負けで大きなショックを受けてしまうのは良い事ではない」という監督の持論によるものであった。は24試合に登板し、防御率4.63の成績だった。4月21日の対楽天戦に5回途中から登板して好リリーフを見せ、3年ぶりとなる白星を挙げた。続く24日の対日本ハム戦(22日は雨天中止、23日は試合なし)では7回2死満塁、同点に追いつかれた場面で登板し、3球でアウトを奪う。8回には自軍が逆転し、わずか3球で2試合連続の勝利投手となった。40代の投手が2試合連続で勝利投手となったのは、59年ぶり2人目(2リーグ制以降では史上初)という珍記録であった。同年は自己最多となる41試合に登板。同年に吉井理人が現役引退した事から、パシフィック・リーグ最年長投手となった。またJリーグ・柏レイソルの熱狂的なサポーターであり、柏レイソルがJ1に復帰した2007年5月6日第10節、フクダ電子アリーナでの千葉ダービーにチームメイトの小林宏之とともにスペシャルゲストとして招待された際も、ジェフ千葉ホームゲームにもかかわらず、柏のニット帽とアウェー用レプリカユニフォームを着用し登場した。この年はプロ入り最多の41試合に登板した。は33試合に登板するも防御率5点台と安定感を欠いた。は中日の山本昌が持つ最年長セーブ記録の更新を(半分冗談ながら)目標に掲げ臨む。しかし、早々に1勝を挙げたものの防御率10点台と低迷、5月に二軍落ちとなった。そして9月20日、シーズン終了を以ての引退を表明した。球団はコーチの席を用意して慰留したが“外部から野球界に貢献したい”と辞退し退団を決定。10月6日、千葉マリンスタジアム最終戦の対楽天戦、5-2で迎えた9回表2死走者二塁で登板し、代打セギノールを右飛に打ち取り試合終了。2009年当時としては史上最年長記録(44歳21日)となるセーブを、たった1球で達成(パ・リーグ史上24人目、26例目)し、現役生活を締めくくった。試合後、雨が降りしきる中でバレンタインの監督退任式に先立っての引退セレモニーが行われた。同年に田中将大が開幕から4登板完投勝利を挙げた際、次の登板を翌日に控え、野村克也監督の会見中にその記録について話題が及んで記録保持者である小宮山の名前が出たが、「なんだ。金田、稲尾とかならまだしも小宮山か」と拍子抜けされてしまった。11月23日、ザ・プリンスパークタワー東京(コンベンションホール)で開催されたチャリティフォーラム 「ありがとう ボビー・バレンタインさん 小宮山 悟さん 〜We Love Baseball〜」において、史上最年長セーブ記録を達成し2009年最後の登板となった試合で着用した帽子、ユニフォーム上下、グラブに「史上最年長セーブ記録達成、2009年10月6日」と書き加え、チャリティに提供した。2006年に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学し、投球フォームに関するバイオメカニクスを専攻。学生とプロ選手の二足の草鞋を履いた。2008年に修士号を取得。学位論文は「野球競技におけるゲーム分析結果の試合への活用方法」。2010年からは野球解説者として活動し、テレビ東京(2011年まで)、J SPORTS(2011年から2012年まで)、 FOX SPORTS ジャパン(2013年から)、NHK BS1のメジャーリーグ中継(2012年から)で解説を務めるほか、日刊スポーツの野球評論家も務めている。2014年、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事(非常勤)に就任。イチローが「最も打ち崩したい頭脳派投手として小宮山さん」と高く評価していた。同級生のプロ野球選手・コーチ・スタッフで構成する「プロ野球昭和40年会」のメンバー。オフには古田敦也、吉井理人、仲田幸司、山本昌、香田勲男、星野伸之ら40年会メンバーと、中村紀洋、小笠原道大、三浦大輔らをメンバーとする「プロ野球昭和48年会」と合同でイベントを行っている。投手としては非常に多彩な球種を持つ部類に入る。ストレートは140km/h以下で決して速くはないが、後述の「シェイク」をはじめ、スライダー、カーブ、スプリッター、チェンジアップ、カットボール、シンカー、シュートなど、ほぼ全球種を使いこなす。「(ナックル以外の球種は)投げようと思えばすぐに投げることができた」と、シェイク開発のエピソードを語る際にコメントを残している。多様な球種をもちつつ、制球力も非常に優れており、両者が噛み合うときは相手チームがどのような強力打線であっても、緩急巧みに翻弄する鮮やかなピッチングを見せた。制球がたまに混乱し、力押しのピッチングとなると下位打線にも打ち込まれることも少なくなかった。このように、豊富な球種とコントロールで打者を打ち取る投手というイメージが強いが、プロ入りして4~5年ほどは荒れ球を武器としていたタイプで、球速も140km/h半ばから後半まで計測していた。ロッテに復帰した2004年は先発だったが、2005年から中継ぎに転向した。中継ぎ転向後は安定感抜群といえるほどの投球内容ではなかったが、敗戦処理を自ら買って出るなどプライドを捨ててでもチームに貢献しようとする姿勢を見せた。2005年に新魔球「シェイク」を開発した。シェイクはボールを人差し指と中指の2本の指ではさみ、通常の投球フォームとは明らかに違う、球を押し出すようなフォームで投げる。フォームが違うことや揺れることはナックルに類似するが、球速が80km/h程度まで抑えられている。当時の監督、ボビー・バレンタインは、「誰もあの球は打てないだろう。スネークのようにシェイクする。左右だけでなく、前後にも動くようだ。振ろうとするとタイミングが違うので腰を痛める」と、ナックルとは違い、独特な変化をすると証言している。交流戦では古田敦也がこの球を空振りした。2006年には日高剛に対し4球連続でシェイクを投じ空振り三振に仕留め、球場を湧かせた。このシェイクは、千葉マリンスタジアム特有の浜風で揺れていると言われることがあるが、2005年の2月21日の鹿児島キャンプで、シェイクを原井和也に使用し、捕邪飛に打ち取っている。また、同日、里崎智也からも空振りを奪っている。しかし、独特の握りをすることから、投げ損じることもしばしばあり、2005年のシーズン中、投げ損じたシェイクがど真ん中のスローボールとなり、西武の中村剛也に痛烈に本塁打された。小宮山は後に「揺れなかったのでアレはシェイクではない」と語っている。2006年、シェイクと同じフォームからおよそ110km/hの速球を投げ込む「フェイク」を開発している。これは、ゆったりとした独特の投球動作で打者にはシェイクを投げることを予感させながら、異なる球種で投げるという投法である。メディアに「フェイク」と取り上げられる前に、この投法で西武の和田一浩から三振を奪っている。2007年シーズンは投球練習では披露することは多々あったものの、実戦では6月14日に一度使用したのみ。シェイクは大差が付いた試合でファンに披露するいわゆるサービスボールであり、2007年の小宮山は緊迫した場面で登板する場面が多かったからだと言われている。2008年8月27日の対日本ハム戦、9回表0-1ビハインドの場面において飯山裕志に、流れを変えようと2球連続で使用したが、スローボールとなってしまい、二塁打を打たれている。飯山は、自分にスローボールを投げられたからか、二塁打を打った後の塁上で怒りの表情を見せていた。この場面は2008年の珍プレーとして取り上げられた。
出典:wikipedia
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