竹成五百羅漢(たけなりごひゃくらかん)は、三重県三重郡菰野町にある大日堂の境内に多くの石仏があり、地元ではその石仏を竹成の五百羅漢と呼んでいる。昭和42年(1967年)2月10日に三重県指定の史跡になっている。嘉永5年(1852年)2月、竹成出身の僧照空(神瑞)が、大日堂の境内に15年の歳月を費やして完成させたと伝えているが、実際のところは、照空より依頼をうけた桑名の石工、石長こと藤原長兵衛一門により、慶応2年(1866年)に完成している。その後明治9年(1876年)、地租改正時に起こった伊勢暴動によって大日堂が焼かれ、廃仏毀釈の影響で、破壊されたり、持ち去られるような時期があった。石像群は小高く盛られた土山に、東側を正面にして、釈迦三尊を主尊とする羅漢像、大日如来を中心とする密教系の明王、天部などの石像で構成されており、正面入り口より、地蔵菩薩、三蔵法師、弥勒菩薩、南側に願主照空、閻魔大王、北側には天照大神、天狗、七福神、釈迦苦行像、三猿などの石仏が並んでおり、石仏の裏側には尊者名と番号が記された石仏と、記されていない石仏とがある。照空上人(上瑞和尚)は天明8年(1788年)5月竹成で生まれており、文化9年(1812年)出家し野登寺にて修行する。天保12年(1841年)竹成へ帰村後、安政2年(1855年)4月11日68歳で入滅 。照空は野登寺での修行時代に、野登山周辺に不動明王や行者の石像を建立するなど、多くの事業を行っている。事業の資金として、領主である亀山城主に度々無心にいっており、照空を庇護していた城主であったが、反感を買ってしまい失脚させられることとなり、晩年を竹成で過ごすこととなる。この後五百羅漢の石仏を作ることとなるが、完成を見る前に死を迎えている。。大日堂は大平山松樹院と称し、この松樹院は願行寺の門前にあったお堂を、照空が現在地に移し、敷地内に五百羅漢を建立している。大正6年(1917年)鈴木又市により田口新田の真願寺より、旧本堂を移築している。本尊として二体の大日如来座像が安置されており、共に三重県指定の有形文化財(彫刻)に指定されている。
出典:wikipedia
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