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山本功児

山本 功児(やまもと こうじ、1951年12月25日 - 2016年4月23日)は、プロ野球選手・監督。ポジションは一塁手、外野手。左投げ左打ち。大阪府堺市出身。長男は同じくプロ野球選手の山本武白志。実家が当時の南海ホークスの練習場であった中百舌鳥球場と選手寮(秀鷹寮)の近くでパン・菓子屋を営んでおり、幼少期は南海選手から可愛がられていたと、皆川睦雄が野球中継解説時に語っている。また実父は当時の監督であった鶴岡一人と懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも杉浦忠、穴吹義雄、野村克也らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。その中でも特に可愛がっていたのは穴吹で、堺市の浜寺公園にあった自宅にも、ちょくちょく招いてもらっていた。三田学園では1年生からレギュラーとなる。エース吉岡邦広を擁し、五番打者、一塁手として1967年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、報徳学園に敗れる。3年次に1969年の春の選抜に出場。準々決勝に進出するが、堀越高の但田裕介投手(阪神)に抑えられ、1-2で惜敗。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退。1年下のチームメートに淡口憲治がいた。1969年のドラフト会議で南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否。法政大学経営学部に進学。東京六大学リーグでは2年生までに3度の優勝を経験するが、その後は優勝に届かなかった。リーグ通算86試合出場、282打数79安打、打率.280、3本塁打、44打点。ベストナイン2回。1972年、1973年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。卒業後は本田技研鈴鹿に入社。1974年には西濃運輸、1975年には新日鐵名古屋の補強選手として都市対抗野球大会に連続出場。1974年の第1回社会人野球日本選手権大会にも出場し、本塁打を放った。1975年には第2回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出されている。同年、ドラフト5位で読売ジャイアンツに入団。本来の守備位置である一塁手には王貞治がおり、外野手も兼ねて出場機会の確保を目指す。1979年には準レギュラーとして117試合に出場、打率.291の好成績を残す。同年から1980年にかけ、7試合に四番打者として先発出場した。王の引退後の1981年には中畑清と一塁手の定位置を争う。守備には定評があったが、打撃面での不調もありレギュラーは奪えなかった。1981年8月26日の中日ドラゴンズ戦で、代打で出場して宇野ヘディング事件が起こる飛球を放ち、遊撃手宇野勝の失策でダイヤモンドを一周して同点となる本塁を目指したが、本塁で刺殺されたということがある。1984年、三宅宗源との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。同年には初めて規定打席に到達し、打率.301(9位)を記録。同年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。しかし1988年には愛甲猛が一塁手に定着、コーチ兼任となり、同年限りで現役を引退。引退後は1989年~1993年までロッテ一軍打撃コーチ、1994年は二軍打撃コーチ、1995年~1996年まで再び一軍打撃コーチ、1997年から1998年まで二軍監督を経て、1999年から2003年までロッテ監督に就任。辞任後の2004年に、巨人時代の先輩である堀内恒夫が同球団の一軍監督へ就任したことを受けて、堀内の要請で二軍ヘッド兼打撃コーチとして巨人復帰。翌2005年からは一軍ヘッドコーチとなるが、チームの不振で堀内は辞任し、山本も同年限りで退団。ここで初めて現場から離れたこととなり、復帰もなかった。翌年の2006年から2007年までスポーツ報知野球評論家、ラジオ日本野球解説者を務めた。2008年に慢性心不全を発症してからは、病院への入退院を繰り返しながら、療養に努めていたが、長男・武白志(むさし)が九州国際大学付属高校への進学を機に同校のある福岡県へ妻と共に移住。2012年10月から12月まで「山本功児 なんとなく幸せ」と題して、『東京スポーツ』紙上で半生を振り返るコラムを連載した。2016年4月23日、北九州市内の自宅で肝臓がんの為逝去。64歳没。現役最終年となる88年の選手兼任打撃コーチに始まり、二軍打撃コーチ、二軍ヘッド、二軍監督、一軍打撃コーチ、一軍ヘッド、一軍監督と指導者としてのすべてのポジションを経験するという稀有なキャリアを持つ。特に巨人復帰した2004年の二軍ヘッド(のちに打撃コーチ兼任)というポジションは通常ありえない役職であった。この二軍ヘッドという役職はすでに組閣を終えた後に、当時の堀内恒夫監督がどうしても復帰させたい、としたため急きょ作ったもの。翌05年には一軍ヘッドに昇格した。ロッテ二軍打撃コーチ時代の1994年開幕直後、当時1年目で投手で、共に、打撃センスがあった福浦和也と小野晋吾を呼び出しバッティング練習をさせ、福浦に「おまえ、今すぐにバッターへ転向しろ」と打者転向を命じた。福浦は当初は拒否したが、その後も山本は執拗に福浦に打者転向を迫り、オールスター明けには打者に転向させた。福浦は、「ある意味で、山本さんに無理やりという感じじゃないですか(笑)」と振り返っている。なお、小野は、その後も、投手として活躍している。ロッテ監督としての選手起用については、当初は大塚明や立川隆史など、生え抜きの若手を積極的に起用したものの、それ以外の選手の決定的な実力不足を痛感し、ベテラン勢や外部補強選手を中心に戦いながらサブローや里崎智也、小林宏之などの台頭を気長に待つことになる。こうして監督を務めた5年間、ロッテはチームは全て5位か4位に終わっているが、年々勝率を上げ2003年には借金1にまでチームを戻したところで辞任した。特に2003年の9・10月は22勝8敗1分で勝率.733という好調ぶりだった。二軍監督から一軍監督時代の間に獲得・育成した選手が第2次バレンタイン政権下でのリーグ優勝・日本一に貢献する事となり、その手腕が評価された。熱血漢ゆえにファンや審判とやり合うことも多く、2002年3月19日、オープン戦で川口亘太塁審に、「しっかり見ろよ、川口。このタコ!」と暴言を吐いて退場となった。オープン戦で監督が退場処分を受けるのは、1982年の阪神安藤統男監督以来20年ぶり2人目だった。さらに、2003年9月9日にも同じく川口審判に暴言を吐いて退場となった。また、2003年5月31日のダイエー戦で小林宏之の故障を危惧した女性ファンが試合終了後に「壊れちゃう」と山本に言い寄ったところ、山本が「2日休んでるんだ、バカヤロー!」とやり返した。ほか、「立川の打順は下げたんじゃない。勝手に下がったんだ」など名言には事欠かない。 退団が決まった2003年の最終戦では、選手側から「試合後に監督を胴上げしよう」という提案があった。そして試合終了後、胴上げをするべく選手達がベンチから出ようとしたところ、山本は「胴上げは次の監督にやってあげてくれ。ありがとう」と涙ながらに固辞。そして2年後(2005年)、チームは31年ぶりのリーグ優勝を果たし、次期監督ボビー・バレンタインの胴上げが実現した。

出典:wikipedia

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