サッカーブラジル代表()は、ブラジルサッカー連盟によって編成される男子サッカーのナショナルチームである。FIFAワールドカップにおいて唯一、2014年大会までの20大会全てにおいて本大会出場を果たしており、単独最多となる5度の優勝経験を有する世界を代表するサッカー大国である。ワールドカップ優勝国の中ではスペインと同様に地元開催での優勝経験が無い。コパ・アメリカでは8回優勝している。これは15回のウルグアイ、14回のアルゼンチンに続いて3番目に多い回数である。FIFAランキングで1位になった経験を持つ8チームのうちの1つでもある。チームカラーはカナリア色(黄色)、青、緑、白で、これはブラジルの国旗から取られている。愛称はチームカラーよりカナリア(Os Canarinhos)。また、ブラジルの公用語であるブラジルポルトガル語でナショナルチームのことを ( セレソン)というが、ヨーロッパポルトガル語では ( スレソン)と言い、綴りは同じながら発音が異なるため、日本語では「セレソン」だけでブラジル代表を想起させることが多い。最多試合出場はカフー(142試合)。最多得点はペレ(77得点)。ブラジル国内での試合開催は、ワールドカップ予選、アルゼンチンとの国際親善試合「スーペルクラシコ」以外では、年1回の国際親善試合に限られている。それ以外は、ヨーロッパを中心にアウェイ、中立国で親善試合を開催する。1914年、リオデジャネイロ州とサンパウロ州の合同選抜チームが、イングランドのエクセター・シティFCと対戦したのが、ブラジル代表の最初の対外試合であると言われている。試合結果については、2-0でブラジルの勝利であったとするものと、3-3の引き分けであったとするものとがいずれも複数存在しており、正確な情報は不明である。初期のブラジル代表は、常に世界トップレベルにある現状とは程遠く、ブラジルサッカー連盟内部でのプロ化に関する意見の不一致による内部紛争などの影響で、代表チームの編成も不安定な状況にあった。南米選手権(現在のコパ・アメリカ)では、1919年、22年に優勝したものの、1920年にチリのビニャ・デル・マールで開かれた南米選手権では、ウルグアイに、2014年現在も最多得失点差での敗戦記録として残る0-6の大敗を喫している。また第一次世界大戦の影響もあるが、先述のエクセター・シティFCとの対戦以降、欧州チームとの対戦は1928年、スコットランドのマザーウェルFCとの試合までなかった。ウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップに出場し、グループ2初戦のユーゴスラビア戦に1-2で敗れ、続くボリビア戦には4-0で勝利したもののグループリーグ敗退となった。1934年には、イタリア王国で開催された1934 FIFAワールドカップ初戦のスペイン戦に1-3で敗れ早々に敗退、その足で向かったアウェーの親善試合、ユーゴスラビア戦で、2014年現在もブラジル代表の公式試合最多失点記録として残る4-8の大敗を喫している。1938 FIFAワールドカップでは、初めて準決勝まで進出するも、優勝したイタリアに1-2敗れ、3位決定戦でスウェーデンに勝利し3位となっている。ブラジルにとってワールドカップ優勝を狙える最初の機会は、南米選手権で27年ぶりに優勝した1949年の翌年、自国で開催された1950年大会であった。1次リーグを2勝1分で突破、2次リーグでもスウェーデンに7-1、スペインに6-1と大勝し、この大会の事実上の決勝となったリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムでのウルグアイとの2次ラウンド最終戦に臨む。しかし引き分けでも優勝だったにもかかわらず逆転負けを喫し、初優勝を逃した。これは「マラカナンの悲劇」とよばれている。初優勝は1958年スウェーデン大会で、決勝で地元スウェーデンを5-2で破った。これは南アメリカのチームがヨーロッパで開催されたワールドカップで優勝したただひとつの例である。1970年メキシコ大会では、ペレ率いるブラジルは3度目の優勝を果たし、ジュール・リメ杯を永久保持することとなった。1982年スペイン大会のジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの4選手が形成した中盤は黄金のカルテットと呼ばれ、「ブラジルサッカー史上最もファンを魅了したチーム」と称されたが、結果的には2次リーグ敗退している。ブラジルでは、この2次リーグのイタリア戦を「サリアの悲劇」とよんでいる。2002年日韓大会では南米予選で苦戦し、本大会出場すら危ないほどだったが、始まってみると序盤からロナウド、リバウド、ロナウジーニョら攻撃陣が機能し、全勝で決勝まで勝ち上がった。決勝の相手はそれまでワールドカップで対戦したことのなかったもうひとつのサッカー大国、オリバー・カーン擁するドイツ。これをロナウドの2ゴールにより2-0で制し、ワールドカップ最多優勝記録を5に伸ばした。2006年ドイツ大会では前回大会とは対照的に南米予選を1位で通過。黄金のカルテットになぞらえて「カルテット・マジコ」(魔法の4人組)と呼ばれたロナウジーニョ、ロナウド、カカ、アドリアーノの4人による前線を擁し、優勝候補の大本命とみなされていた。とくにロナウジーニョへの期待が高く、「この大会はロナウジーニョの大会になるだろう」との声もあったが、本大会が始まってみると今ひとつ調子が振るわなかった。これも一因となってか、8年前の1998年フランス大会決勝で敗れた相手、フランスとの再戦となった準々決勝を1-0で落とし連覇を逃した。2010年南アフリカ大会南米予選では、開始早々から好調を維持。2009年9月5日、敵地での対アルゼンチン戦を3-1で勝利。3試合を残し、南米勢のトップを切って本大会出場決定。これで第1回(1930年ウルグアイ大会)からの連続本大会出場記録が「19」に伸びた。本大会では順当に勝ち上がるが、準々決勝でオランダと対戦し1-2で逆転負けを喫した。翌年のコパ・アメリカ2011では3連覇を狙ったが準々決勝でパラグアイと対戦し、押し込みながらもゴールを奪えずPK戦の末に敗れて3連覇の夢は途絶えた。2014年大会は開催国として予選免除での本大会出場、丁度20度目の出場となった。ネイマールを中心にチームは勝ち進んだものの、ベスト4を争ったコロンビア戦は勝利を収めながら、チームの核であるネイマールが負傷。キャプテンでセンターバックのチアゴ・シウバがイエローカードを貰い次戦累積により出場停止という不運が重なった。それが影響したのか決勝を賭けて争ったドイツ戦では、前半に5失点するなど1-7と大敗を喫した。これは3大会ぶりの決勝進出を逃しただけでなく、ワールドカップの決勝トーナメント史上初の7失点という不名誉な記録も残してしまった。この敗戦は、「マラカナンの悲劇」にちなんで「ミネイロンの惨劇(ベロオリゾンテの惨劇など)」()と呼ばれている。前回大会の準々決勝で敗れたオランダとの3位決定戦でも0-3と敗れ、10大会ぶり2度目の4位に終わった。南米大陸開催のFIFAワールドカップで、開催国が3位以内に進出できなかった初の例となった。また11得点に対し、14失点(出場した大会中、ワースト記録)と1966年イングランド大会以来11大会ぶりに失点数が得点数を上回ってしまった。なお、1970年大会と2002年大会では、全試合90分以内での全勝優勝という快挙も達成している(他は1930年大会の全4試合だったウルグアイのみ)。中でも1970年大会は南米予選でも6試合で全勝。予選・本大会を通じての全勝優勝はそれが大会史上唯一である。FIFAワールドカップでは最多の優勝回数を誇り、優勝候補の常連国となっている。UEFAチャンピオンズリーグ常連の欧州各国の強豪クラブチームにも多くのブラジル代表選手が所属するなど、選手層の厚さも世界トップクラスである。また、サッカー大国を自負するブラジル国民の代表チームに対する思いも非常に強い物があり、サポーターやマスコミの目線も「人口の数だけ監督がいる」と表現されるほど厳しい。代表チームには常に勝利を求めるのはもちろん、ただ勝つのではなく、観衆を魅了する攻撃的な試合運びをし、対戦相手を圧倒するのを求める傾向が強く、このあたりにもサッカー大国としてのプライドが見える。それをよく表しているのが1982年大会と1994年大会でのサポーターやマスコミの反応である。1982年大会は上記のように2次リーグ敗退となったが、黄金のカルテットを中心にその攻撃的なサッカーを存分に発揮したということで、代表チームの帰国の際には賞賛の声が数多く上がった。一方、1994年大会は決勝でイタリアとの炎天下での死闘の末、PK戦で6大会ぶりの優勝を勝ち取ったが、24年ぶりの優勝を賞賛する声がある一方で、ダブルボランチを起用するなど守備重視の戦術、決勝はスコアレス・準決勝も1点に止まった攻撃陣に対する批判も強く、それは今日でも続いている。地元開催で優勝を期待されていた2014年大会では準決勝でドイツに1-7と惨敗したことで、代表メンバーやスコラーリ監督への非難の声が相次ぎ、怒った一部のファンが暴徒化してバスが燃やされたり、商品が略奪されるなどの事態となった。と書かれた横断幕を選手たちの手で掲げ、4度目の優勝を捧げた。
出典:wikipedia
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