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角松敏生

角松 敏生(かどまつ としき、1960年8月12日 - )は、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。東京都渋谷区代々木出身。身長169cm。血液型A型。愛称は「角さん」「角松」「敏生さん」等。1981年、20歳でプロデビュー以来、約30年に亘りシンガーソングライターとして自身の名義による多くの作品を発表し、例年の全国ツアーなどライブ活動もしている。その傍ら、1980年代半ばから杏里や中山美穂といった他アーティストへの楽曲提供と、それに伴う音楽プロデューサー業も手掛けている。1997年、長万部太郎名義でのバンド活動およびプロデュースした「WAになっておどろう」(AGHARTA(アガルタ)とV6が同時期にカバー)が一般的に知られる。他アーティストへのプロデューサー業で数々のヒット曲を生み出したのに比べ、本人名義としては一般的な認知を得られるほどのヒット曲を持っていないことを自身でかなり気に掛けていて、今後の目標のひとつにその達成を掲げたいと、近年はライブのMCやインタビューなどで表立って言及している。発表する曲は海・夏・リゾートを連想させる曲(特に初期)や中期以降では深遠な恋愛観・精神世界・喧騒な夜の都会を連想させる曲が多い。ちなみに、曲の作り込みに強いこだわりを持つ事からSNSやメディアでは音楽職人と称されることもある。角松自身の音楽スタイルは、シティポップ・ニューミュージックを基調とする一方、R&B・ファンク・ソウル音楽等のブラックミュージックの要素を巧みに取り入れている事から、久保田利伸・SING LIKE TALKING・TUBE・大沢誉志幸・安全地帯等後進のミュージシャンやバンドにも影響を受けている。乱視が有り、青年時代からメガネを着用している。東京都渋谷区に生まれ、8歳年上の兄が一人居る。幼少時代には両親からの強要でピアノやオルガン教室に通っていたが角松自身はあまり乗り気では無かったと言う。10歳の時にギターを始め当初は兄の手解きを受けながら練習していたが面倒臭がって途中から教えてくれなくなりギター関連の雑誌の簡単に演奏出来る方法の記事を参考にしながら練習していたと言う。小学校6年生ではっぴいえんどを知り、1970年代半ばの中学から高校時代にかけて、はっぴいえんどからそれを継ぐティン・パン・アレー関連の日本のロック&ポップス、アメリカ東・西海岸でムーブメントが起き出したフュージョンにリアルタイムで傾倒。それらに影響を受けたバンドを作って音楽活動を始める(この頃から担当はヴォーカル&ギター)。そして、日本大学文理学部哲学科在学中に作成したデモテープがきっかけで1981年にシングル「YOKOHAMA Twilight Time」とアルバム『SEA BREEZE』でデビューする。デビュー当初は、所属レコード会社・RVC(RCAビクター、RCA Victor Corporation)の意向で、当時大瀧詠一や山下達郎のブレイクで盛り上がり、巷で流行していたリゾート感覚を取り入れたシティ・ポップスの音楽スタイルを採った。しかも、1作目ではアマチュア時代から敬愛していた日本の一流スタジオ・ミュージシャンをバックに、その10か月後にリリースする2作目のシングルおよびアルバムはアメリカ・ロス録音で当地の一流ミュージシャンをバックにした豪華絢爛な作りのものとなった。ただし、これら2作は共に作詞・作曲はすべて角松自身によるもので収められたものの、編曲やプロデュース権は与えられず(また、何もかも初めての経験のスタジオ録音作業がどういうものかを学びながら作っていったため)、自身としては必ずしも思うような作品作りは出来なかった。さらに、大規模なプロモーションを掛けたわりには、それに見合ったヒットは適わず、商業的成功を収めることも出来なかった。話題性を狙ったレコード制作及びそのセールス・プロモーションで活動拡大を図りたかった所属事務所側は角松の扱いに窮し、バンドを組んでのライブハウス出演など草の根的なライブ活動をしたい自身との活動方針の相違もあって、この後に所属事務所を移籍することになった。一方で角松の才能を評価していた所属レコード会社は、引き続き作品制作するよう支援していく。そして、音楽的な路線は前2作の延長でありながらも、初のセルフ・プロデュースやセルフ・アレンジとなる3作目『ON THE CITY SHORE』をリリース。本作からの先行シングル「スカイ・ハイ」は初めてタイアップとしてSchickの男性用安全剃刀(ひげ剃り)のテレビCMソングに採用された。この曲は自身にとっても代表曲となり、ライブでも定番曲として取り上げられているほか、CMでも以後3年にわたって使われた。学園祭やライブハウス出演など地道な活動も功を奏して、アルバムはオリコンチャート最高位21位を記録。それまでオリコンチャート圏外だった1・2作目以上に好調な売れ行きを示し、初のホールコンサートも敢行するなどして活動が軌道に乗り始めていく。また、最初の所属事務所から移籍する前、杏里のラジオ番組にゲスト出演した際に彼女と意気投合したことから、自身初の楽曲提供から始まり、それが縁となって杏里の所属事務所・マーマレードに移籍となり、自身の歌手活動と併行して杏里のアルバムへの楽曲提供とサウンド・プロデュースも手掛けるようになる。そして1983年、杏里がシングル「CAT'S EYE」をヒットさせた直後、『「CAT'S EYE」の一発だけで終わらせずに、それに続くヒット曲を』という至上課題のもと、「悲しみがとまらない」をプロデュース。チャート的には「CAT'S EYE」を凌げなかったものの、連続ヒットを記録。後年、プロデュース活動の側面を検証する上で欠かせない曲となった。それらの成功をバックに角松は、デビュー以来の夏や海といったリゾート感覚のシティ・ポップス路線から離れ、自身の音楽的趣向であったダンス・ミュージックやニューヨークのミュージック・シーンで流行る最先端のファンクに傾倒していく。その曲調に合わせて歌詞のテーマも次第に夜の街へと移り、1983年に12インチ・シングル「DO YOU WANNA DANCE」、続く1984年のアルバム『AFTER 5 CLASH』で、その世界を示した。商業的成功は続き、角松はこの路線に自信を深めて追求していく。そして、杏里の仕事で得た印税を使ってニューヨークへ長期滞在するようになり、現地での流行をいち早く取り入れた音楽活動を行うようになっていった。7&12インチ・シングル「GIRL IN THE BOX」や代表作となる1985年のアルバム『GOLD DIGGER』は、ターンテーブルによるスクラッチやラップがいち早く取り入れられた。1980年代半ば、アルバムは発売ごとにチャート上位にランクされ、全国を縦断する大規模なコンサートツアーも出来るようになった(特に都市部では複数公演を敢行するも発売即ソールドアウトを引き起こすほどの人気となる)。しかし、商業的成功の黄金期とも言えるこの時期、アルバムやコンサートの動員の成功に比べ、シングル・ヒットには恵まれなかった。その一因として、コンスタントにシングル曲は出すものの、プロモーション戦略でテレビの歌番組に出演することを避けていたため、たとえタイアップ曲であっても、どうしても世間一般への浸透が進まなかった。音楽プロデューサー業も拍車が掛かり、それまでの杏里以外にも手掛けるようになる。絶頂期であった中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』に楽曲提供および編曲もしたほか、その音楽性を買われてアドバイザーとしても加わったり、所属レコード会社で自身と同じ担当プロデューサーだったのが縁となって請け負った西城秀樹のアルバム『TWILIGHT MADE …HIDEKI』に自身が敬愛する吉田美奈子を迎えてコラボレーションしたり、お笑いグループで認知度があったジャドーズの本気の依頼に応え、和製ソウルファンクバンドとしてデビューアルバム『IT'S FRIDAY』ならびにデビューシングル「FRIDAY NIGHT」から数作にわたって全面的に関わった。なかでも中山美穂へのプロデュースは“音楽プロデューサー・角松敏生”にかつてない成功をもたらした。中山が杏里のアルバム「Bi・Ki・Ni」がお気に入りで愛聴盤だった為に角松に楽曲提供を依頼して、まず最初の関わりであった1986年のアルバム『SUMMER BREEZE』に三曲提供し、その中のバラード曲「You're My Only Shinin' Star」が彼女本人が好んでいた曲であったことからライブでも頻繁に歌われるようになる。翌1987年、当時流行りのユーロビートを反映させたシングル曲「CATCH ME」は彼女にとって待望のオリコン1位を獲得。引き続いて角松のもはや看板であるダンス&ファンク・ミュージックを全面に押し出したアルバム『CATCH THE NITE』をフルプロデュース。その発売時、1988年2月22日付けのオリコンのアルバム・ランキングにて、このアルバム『CATCH THE NITE』が1位、同時期に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位で、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成した。そして、『CATCH THE NITE』レコーディングと同時にリテイクされた「You're My Only Shinin' Star」はシングルとして発表され、「CATCH ME」に続いてオリコン1位を獲得したばかりでなく、この年の第30回日本レコード大賞金賞受賞曲となって彼女の代表曲となり、2001年には彼女がベストアルバム『YOUR SELECTION』をリリースするにあたり、収録曲を決める為にホームページ上で行った投票ではシングルA面曲で1位になっている。また、この時期から歌ものの作品以外に、自らの音楽的ルーツのひとつであるフュージョンを基調としたインストルメンタル作品を手掛けるようになっていく。1987年、初の試みとして自らのギタープレイをフィーチャリングしたアルバム『SEA IS A LADY』を発表。日本のフュージョン・シーンは沈滞化していたものの、角松の絶頂期ともあって商業的成功を収めた。このアルバムには自身のバック・バンドの面子の他にも、村上ポンタ秀一や斉藤ノブなどフュージョン・ブーム時に活躍し、またスタジオ・ミュージシャンとしても確かなキャリアを持つ彼らをリスペクトして起用した。アルバム参加メンバーでのライブ・ツアーも行われ、これがキッカケとなり、斉藤ノブはNOBU CAINEを結成。そのデビューアルバムを角松がプロデュースすることにも至った。これらミュージシャンをクローズアップした活動により、1982年以来、自身のバックバンドのベーシストであり、NOBU CAINEにも参加した青木智仁が頭角を現すようになり、1989年にはやはり角松プロデュースのもと、フュージョンを主体にした初のリーダーアルバムを作る。以降、青木は角松のバックバンドやレコーディングに引き続き参加しながらも、その傍らで自身がリーダーとなったフュージョン系のセッション・ライブを行うようになっていったり、堀井勝美プロジェクトやDIMENSION、本田雅人などの他アーティストのアルバム制作やライブにも随時参加。1990年代から他界する2006年まで、フュージョン・シーンにはなくてはならない人物の一人であった。1988年、多方面にわたる音楽活動の成功を背景に、デビュー以来の所属レコード会社のなかに私設レーベル「オーン」を作り、自身の歌唱によるオリジナル作品のほかに、前述のNOBU CAINEや自らの名義および関連アーティストのインストルメンタル作品を“サマー・メディスン”シリーズとしてトータル的にプロデュースを手掛けていく。また、自身のアマチュア時代から憧れていたミュージシャンをリスペクトした活動も頻繁となっていき、村上ポンタ秀一、斉藤ノブの他、鈴木茂、佐藤博、外道といった1970年代からプロ活動している面々と音楽的交流を持つようになっていった。充実した活動を行っていったが、1990年代初頭の作品から徐々に内省的な作品が増え、インタビューでも思想的・哲学的な内容の受け答えが多くなっていった。そして、自身の音楽に対する絶望感を訴え、1993年の日本武道館公演をもって歌手活動の「凍結」を宣言し、無期限の休止となる。FINAL CONCERT TOUR公演のMCで、「確かに非常にプライベートな事も引き金の1つにはなっている」と、歌手活動から撤退する理由として、(当時の)妻との離婚や女性関係での離別も一因であることを暗に認めているが、一方で当時、自らの歌唱についても行き詰まりを感じていたことをWEB掲載のインタビュー記事で吐露しており、公私に渡り、心身ともに限界であった事が窺える。ちなみに同公演が収録されたビデオ映像(『TOSHIKI KADOMATSU 1993・1・27 FINAL CONCERT TOUR Vol.2』)には、「ガタガタ言ってないで、続けりゃいいんだよ!」という観客からの罵声に動揺し、苛立ちの余り「ふざけんな、コノヤロー」と叫び、モニタースピーカーを蹴りつける場面が映されている。一時期は音楽業界からの引退も考えたが、所属事務所の説得で“歌手活動以外の音楽活動をしていく”というかたちで音楽業界に残ることを決断。休止直後は、前述の武道館公演のビデオ編集、休止後初のアルバムとなったベスト・アルバム『1981-1987』では2枚組20曲中14曲に新たに手を加えるなど制作作業に没頭。また、バックバンドのキーボーディストの友成好宏のソロアルバム『NATURAL SIGN』、同ギタリストの浅野祥之らが参加していたフュージョン系バンド、空と海と風と…のセカンド・アルバム『空と海と風と…2』、女性アーティストでは米光美保のアルバムを2作連続フルプロデュースしていくなど、他アーティストへの楽曲提供やプロデュース業も引き続き行い、休止前よりも多忙になっていた。1995年、それまでの私設レーベル「オーン」に代わり、「iDEAK」を立ち上げるに至る。同時期、新人ボーカリスト発掘プロジェクト、VOCALANDを立ち上げる。仕掛けたのは、起業する前から角松のファンだったという松浦勝人で、松浦のレコード会社エイベックスで展開する。時流に乗ったことで話題になり、アルバム『VOCALAND』もヒット。それを受けて角松用にエイベックスのなかでavex ideakというレーベルが作られるも、エイベックス側の会社組織再編の影響を受け、1997年に終了する。こうした多忙な音楽プロデュース業をこなしていくなかで、活動凍結前から考案していたという自らの存在を変名(長万部太郎=おしゃまんべ・たろう)で隠したAGHARTA(アガルタ)というバンド・プロジェクトを始める。角松自身でヴォーカルをとるなどしていたが、“角松敏生”のキャリアとは全く違う音楽性であったことで、歌手活動凍結宣言は依然として貫かれた中での活動となった。また、当初はメジャーからではなく、インディーズ・シーンからの口コミなどでのムーブメントを作ろうとした。しかし、1995年、そのインディーズからのアルバム発売にあたって“角松敏生”の名が出てしまったため、即完売になるも、それは角松ファンに行き渡っただけで新たなファン層の開拓計画は失敗に終わる。結局、買いそびれた人たちのためにiDEAKレーベルから1996年に再編纂したものが発売されることにもなった。それでもAGHARTAの活動は継続させた。そして1997年、NHK「みんなのうた」用に作ったシングル「ILE AIYE〜WAになっておどろう〜」が話題を呼ぶことになる。V6によってカバーされ、翌1998年には長野オリンピックのテーマ曲として使用されるに至って、さらに反響を招く。閉会式では視聴率30%の生中継でAGHARTAとしてライブ演奏を繰り広げ、それは世界へ配信放送されることにもなった。1998年に5年間のブランクを経て「解凍」を宣言、自身の歌手としての活動を再開。その後はほぼ年に1作のペースで新作をリリース、その度に新しい試みがなされている。2002年、沖縄音楽やアイヌの民族楽器トンコリを取り入れるなど、民族音楽との「音楽的交易」にも取り組んだ「INCARNATIO」を発売。2004年の「Fankacoustics」は、スタイルの異なる2組のバンド構成での2枚組CDとして発売、各バージョンでのLive Tourも全都道府県で敢行する。2014年発売の「THE MOMENT」では、他アーティストでは滅多にないと思われる組曲を制作、収録している。杏里の「悲しみがとまらない」のスマッシュ・ヒットを皮切りに、中山美穂、ジャドーズらをプロデュース。1988年2月には、オリコン・アルバム・ランキングにて、フルプロデュースした中山美穂のアルバム『CATCH THE NITE』が1位、自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位と、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成している。その他にも元BARBEE BOYSのKONTAや布施明、岩崎宏美、ジャッキーチェン、西城秀樹(『TWILIGHT MADE …HIDEKI』)のプロデュースなど、新人・ベテラン、および日本国外の有名人を問わずに積極的な活動を行っている。

出典:wikipedia

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