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増田明美

増田 明美(ますだ あけみ、本名・木脇 明美、1964年1月1日 - )は、元女子マラソン・陸上競技長距離走選手で、現在はスポーツジャーナリスト・レース解説者・タレントなどで活動中である。1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン日本代表。佐々木七恵とともに1980年代前半の日本における女子長距離走の第一人者であった。千葉県夷隅郡岬町(現・いすみ市)出身。法政大学通信教育部経済学部中退。専業農家の家庭に生まれ育つ。小学校は自宅から約2.5kmの距離があり、そこを歩いて通学したことに加え、しばしば登校中に忘れ物に気づき自宅まで走って取りに戻ったりしたことが、足腰や心肺能力を高めるきっかけになったのではないかと自ら述べている。小学生時代は足が遅いという理由で運動会は嫌いだった。中学校では、当時人気のあった漫画『エースをねらえ!』に憧れて軟式テニス部で活動していた。2年生の冬、町内一周駅伝大会に中学でチームを組むに当たり、陸上部だけではメンバーが足りないために他のクラブからも選手が集められた際にその一人として参加、本番では高校生3人を抜いて優勝に導いた。これを契機に3年生ではテニス部とかけもちの形で陸上部に所属し、千葉県大会の800mに千葉県記録で優勝、全国大会でも4位となる。教員を志望していた増田は高校で陸上競技を続けるつもりはなかったが、走りを見た私立成田高等学校の陸上部監督である瀧田詔生がその冬に自宅を訪れてスカウトし、同校に進学した。千葉県立佐倉高等学校の教員だった小出義雄も少し遅れて(小出によると「一週間差」)スカウトに来たという。自宅から成田高校まで遠かったことから、瀧田の自宅にある離れに同学年で同じ中距離走の選手だった樋口葉子とともに下宿した。高校1年生の2学期に貧血にかかり、瀧田からマネージャーへの転向を指示される。それに反発した増田はいったん陸上部をやめて自宅に戻り、千葉県立長生高等学校への転校を考えたり(困難なために断念)、自宅から2時間半かけて成田高校に通学したりしたが、半年後に復帰。「(マネージャー転向を指示した)瀧田を見返してやろう」という思いから猛練習を重ねる。その成果が長距離に転向した3年生の1981年にあらわれた。4月19日に中央大学で行われた記録会で、10000m(33分20秒0)、5000m(途中計時16分48秒4)の日本新記録を出したのを皮切りに、兵庫リレーカーニバル(5000m、15分53秒2=日本新記録、途中計時の3000m・9分30秒6も日本新記録)、スポニチ国際陸上(3000m、9分14秒81=日本新記録)、アジア陸上競技選手権大会(3000m、9分18秒17)など好記録を重ねた。6月7日のアジア陸上10000m(オープン競技)では、その年のボストンマラソン優勝のアリソン・ローや、同3位のジョーン・ベノイト(後のロサンゼルスオリンピック女子マラソン・初代金メダリスト)らと互角に渡り合い、彼女らを抑えて33分13秒22の日本新記録で優勝した。身長173cmのローを150cmの増田が抜き去る模様は、国立競技場の観客を大いに沸かせた。一方、当時女子マラソンの日本最高記録保持者だった佐々木七恵(当時岩手県の教職員だった)は、スポニチ国際やアジア陸上(3000m)で同走したが、あまりの速さの違いに「別世界の人みたい」と感想を漏らすほどであった。これを契機に佐々木は以前より指導を受けていた中村清により熱心にコーチを求めていくこととなった(翌年、ヱスビー食品陸上部に入部)。6月21日の札幌タイムス20キロロードでも日本最高記録で優勝、途中計時の10キロでも日本最高を記録し、トラックの3000m・5000m・10000mとロードの10キロ・20キロの日本記録をすべて塗り替えた。こうした活躍に、マスコミからは「女瀬古」のあだ名がつけられた。10月の日本陸上競技選手権大会でも3000m、10000mで2冠を達成する。このうち10000mは自己の記録を更新する33分01秒5の日本新記録であった。1982年元日に18歳となり、日本陸上競技連盟が定めるマラソン参加資格を獲得。その時点ですでにマラソンへの挑戦がマスコミでは期待されていた。2月21日、千葉県光町(現在の横芝光町)の小さな大会(千葉県選手権光町マラソン)でマラソンに初出場する。「初めてのフルマラソンは注目されない地方の小さな大会で楽に走らせてみたい」という瀧田の意向による出走だった。結果、2時間36分34秒の日本最高記録で優勝し、途中計時の30キロも合わせて、長距離全種目の日本記録を1年で塗り替えるという快挙を達成した。その後も3月7日の中日20キロロード(名古屋国際女子マラソンの前身)では2位ながら1時間6分55秒で世界最高記録を上回った。日本の女子選手が世界最高記録を出したのは、1927年の人見絹枝(200m)以来55年ぶりであった。これらの結果、女子マラソンの種目がオリンピック初の正式プログラムとなる、1984年のロサンゼルス五輪への出場を実業団で目指すこととなった。増田の進路をめぐっては、資生堂やダイエーなどからも誘いがあったが、高校時代と練習環境が大きく変わらないことを理由に、新たに陸上部を創設して瀧田と増田・樋口を受け入れると申し出た地元の川崎製鉄千葉(現・JFEスチール)に進んだ。このほか、瀬古利彦の師である中村清が増田に興味を示し、瀧田に「増田を(中村が監督を務めていた)早稲田大学に入学させてくれないか」と持ちかけるも断られた、という話も伝えられている。増田自身は中村からのスカウトについてこれまでコメントしたことはないが、大学に進学しなかった理由として「当時大学の陸上部は(女子の)指導者・選手とも実業団に先行している場はない」と考えたからだと著書で記している。社会人になって最初のレースとなった、1982年5月2日の兵庫リレーカーニバル10000mでは自己記録を更新する32分48秒1の日本新記録で優勝。しかし、一週間後のスポニチ国際陸上5000mではラスト1周で佐々木七恵に抜かれ、長距離転向後初めて日本選手に敗れる。さらに、マラソンの記録も同年6月6日に再び佐々木に更新された。6月下旬から7月にかけてノルウェーに遠征し、ビスレットゲームズの5000mとオスロのハーフマラソンに出場。前者では11位ながら15分38秒29の日本新記録を樹立。後者は女子マラソンの第一人者だったグレテ・ワイツをはじめベノイト、イングリッド・クリスチャンセンといったランナーが集う中、ワイツ、ベノイトに次ぐ3位に入賞する(クリスチャンセンは4位)。この結果から「自分を過大評価した」「関係者がオリンピックの成績に期待し、それが本番直前にプレッシャーになった」と増田は引退後に語っている。この頃、貧血が再発し、練習後は1時間以上休養してからでないと帰宅できない状態になった。その背景には減量やレバーやほうれん草が苦手で食べられないといった事情があったが、病院に行くと練習できなくなる不安から、瀧田に貧血を明かさなかったという。こうした状況で1983年1月23日には、第1回の全国都道府県対抗女子駅伝に千葉県チームの一員として参加、優勝チームのアンカーとして記念すべき最初のゴールテープを切る。しかし、その1週間後の大阪女子マラソン(現・大阪国際女子マラソン)では14.7km地点で貧血のため意識を失って昏倒、無念の途中棄権となった。過度の練習と緊張、そして減量し過ぎによる栄養失調が原因だった。大阪警察病院に収容され、ベッドで「これでもう陸上は止めよう」と考えていた時、病院の外から「増田、負けるなよ!」と励ます声が聞こえ、思い直したという。その後、宗兄弟(宗茂・猛)の所属する旭化成陸上部との合同合宿に参加し、マラソンの楽しさを教えられる。1983年6月の札幌タイムス20キロロードにオープン参加の形でレースに復帰し、優勝者よりも早いタイムでゴールした。7月には前年に続いて北欧に遠征し、7月6日にはヘルシンキのワールドゲームズ3000mで4位ながら自己記録を更新する9分11秒95の日本新記録を出すなど復調ぶりを見せた。9月11日にアメリカ・オレゴン州のマラソンで 2時間30分30秒の日本最高記録(当時ジュニア世界記録でもあった)を再び樹立した。この記録は当時の世界歴代8位・年間ランキング8位に相当し、 日本選手として初めて歴代ベスト10に入るものであった。翌年のロサンゼルス五輪女子マラソン代表をかけて、11月の東京国際女子マラソンに出る予定だったが、直前に足の故障で欠場(佐々木七恵が優勝して代表を獲得)。1984年1月、前回リタイアした大阪女子マラソンに出場する。ここでは前年と一変してレース終盤まで独走するが、東ドイツのカトリン・ドーレにゴール手前の40.9km地点で逆転を許す。しかし、2時間32分台の好タイムで2位となり、佐々木に次いでロス五輪女子マラソン代表の座をつかんだ。2月の横浜国際女子駅伝に日本チームの一員として出場後、オリンピック本番に向けたトレーニングに入った。真夏のロサンゼルスでおこなわれるマラソンは高温が予想されたことから、「暑さに慣れるため」という理由で男子マラソン代表の宗兄弟と合同でニューカレドニアや宮古島、沖縄などで合宿を実施した。しかし暑さで体調を崩し、合宿終盤にはタイムトライアルで地元の高校生に敗れて完全に自信を失った。周囲からの「がんばって」という言葉すら苦痛に感じるようになり、7月5日の川崎製鉄主催による最後の壮行会を無断欠席し、「失踪」と報じられる騒ぎになった。のちになって、このとき適応障害を起こしていたと振り返っている。臨んだ8月のロス五輪女子マラソン本番では序盤から積極果敢に飛び出したものの、ほどなくして後退し優勝・メダル争いの集団に吸収される。しかしその後集団からも脱落し、「集団の中で走っていない」「同じ日本代表の佐々木七恵にも先行された」ことなどに耐えられず、16km付近で再び途中棄権となってしまった(なお佐々木は完走するも19位に終わり、二人共にメダル・8位入賞はならなかった)。レース後の取材に対し、増田は涙を流しながら「ずっと胸が痛くて呼吸が苦しくて…」等と返答する様子が新聞に報じられていた。また同レースでゴール直前、夢遊病者のように意識朦朧と成りながらも競技場の大声援の中完走した、スイスのガブリエラ・アンデルセンの姿を救護室のテレビで見て、「ああまでして走る選手がいるのに自分はゴールできなかった。なんて弱い人間なんだ」と思ったと後年述べている。このオリンピックの途中棄権は増田にとって大きなダメージとなり、陸上への熱意を失ったことから、同年秋には「引退会見」を開いて川崎製鉄を退社。いったん陸上競技を離れた。増田は1985年に法政大学通信教育部経済学部に入学し、以前からの希望だった教員の道を歩もうとした。陸上競技に専念していた間にできなかった「普通の若者」の日常を経験することができたが、そのうちに再び「もう一度思い切り走りたい」という思いが募り、日本陸連の強化委員長だった小掛照二に相談した。その結果、1986年に法政大学を中退し、小掛の助力によりオレゴン大学への陸上留学とNECへの入社が実現する。アメリカではオレゴン大学の陸上部ではなく、ブラジル人コーチのルイーズ・オリベイラのチームでトレーニングを受けた。オリベイラからは「自主的にトレーニングすること」「走って自分が幸せだと思えること」の重要性を教えられ、増田の陸上競技に対する姿勢を大きく変えることになる。1987年に帰国。12月の全日本実業団対抗女子駅伝では、それまで無名の松野明美に追い抜かれた。翌1988年1月の大阪国際女子マラソンでは、途中棄権となったロス五輪以来約3年半ぶりのフルマラソンを走る。このレースはソウルオリンピック女子マラソンの代表選考会だったが、日本人最高の2位となった宮原美佐子が、増田の日本記録を更新して日本女子初の2時間30分突破を果たし、五輪代表内定となった(同レース出走で3位の荒木久美、4位の浅井えり子もソウル五輪代表となる)。一方の増田は、調整期間中に右足を痛めて体調が万全でなかったこともあり、優勝争いにも、日本人トップ争いにもまったく加われず、マイペースでの走りとなる。その大阪のレース途中、30km前後で沿道の観衆から「増田!もうおまえの時代は終わったんや!!」という痛烈な野次を浴びた時に増田は思わず立ち止まり、しばらく歩いてしまうが、再び走り出してゴールまで完走した。立ち止まったときには惨めさに耐えられず「地下鉄を探して逃げよう」と考えていたが、周囲の市民ランナーから肩を叩かれたりして励まされたことで、再び走り出したという。結局記録は2時間51分台で順位も30位、全盛期から程遠い成績に終わった。それでも、「見栄とプライドからそれまで越えることのできなかったハードル」を越えて完走できた喜びからゴール後の増田は思わず涙を流した。このヤジを飛ばされた時のエピソードは、現役引退後に増田自ら講演等でもよく語っており、1998年に出演した『課外授業 ようこそ先輩』では母校(小学校)の児童とともにこのレースのダイジェストを鑑賞した上で「(現役時代のレースの中で)いちばん楽しかった、走ってて」と述べている。その後トレーニングを重ね、精神的にも成長した増田は、1989年11月の東京国際女子マラソンでは、日本人最高の8位入賞を果たして第一線に復帰。1990年4月のロンドンマラソンでは19位ながらも、全盛期に近い2時間34分台のタイムを記録した。しかし、同年12月の全日本実業団対抗女子駅伝で、従来のような闘志を感じられなくなったことから引退を決意。1992年1月の大阪国際女子マラソンを引退レースと決めて練習に励んだが、当日のウォーミングアップ中に起きた右足の激痛を抱えたままレースを迎え、関門制限時間に間に合わず、ここでも16.8km地点で途中棄権を余儀なくされた。引退後の検診で、過去の無理なトレーニングと減量で月経が2年ほど止まった時期にエストロゲンの分泌がおこなわれなかったために足の骨がもろくなり、複数の疲労骨折が起きていたことが判明した。スポーツライターに転身し、新聞や雑誌に寄稿したり、陸上競技・ロードレースの解説を中心に放送に出るようになる。ライターへの転身は、現役時代より練習日誌をつけるなど書くことが好きだったのに加え、引退時に指導者としてのオファーがなかったことも一因だった。オリンピックの女子マラソンでは、1996年のアトランタオリンピック・2004年のアテネオリンピック・2008年の北京オリンピックおよび2012年のロンドンオリンピックではラジオ、2000年のシドニーオリンピックではテレビの解説を務めている。レース解説について、自らの現役時代のレース中継では走りと体調のことしか話題にされず、競技者という視点だけで見られていたことを寂しく思っていた経験から、選手や監督の思いを伝えたいと述べている。解説では趣味や家族関係など選手のプライベートな話題にも多く触れる。2013年にはその内容の細かさがテレビ番組『マツコ&有吉の怒り新党』で視聴者リクエストによって取り上げられ、マツコ・デラックスからは「女子マラソンの解説は全部増田さんでいい」とコメントされた。解説スタイルについて増田は「レースと無関係な話題だという批判があることは承知しているが、自分は"人"を伝えたい」と雑誌の取材に対して述べている。2007年には初の小説『カゼヲキル』を上梓した。スポーツ関係以外のテレビ番組にも多く出演している。TBS系の期首期末特番「オールスター感謝祭」の恒例企画「赤坂5丁目ミニマラソン」では、最初の2回(1993年春、秋)に連続優勝した。1994年には、日本テレビのテレビドラマ『ブスでゴメンね!』に出演した(原真紀役)。当初「ブス役」と聞いて立腹したが、脚本の田子明弘やプロデューサーと面談して、田子が増田が演じる原真紀というキャラクターを愛していることやスタッフの意気込みを知り、覚悟を決めて出演を受諾した。その後演じているうちに、ブスであることにいじけず笑顔を絶やさない真紀の役がとても好きになったと記している。日産自動車やツムラ、富士フイルムのテレビCMでは、声だけの出演を果たしている。その傍ら、全国各地でランニングやウォーキングの指導にも当たっている。2008年より故郷のいすみ市で開催されている市民ロードレース「いすみ健康マラソン」は「増田明美杯」と名付けられ、自らも運営に協力している。障害者のランニング大会である「夢伝」や、スマトラ島沖地震復興のためのプーケットでのチャリティーマラソンなど、社会的活動と結びつけたものもある。2008年より評議員を務めるプラン・ジャパンでは、発展途上国の少女を支援する事業に協力している。これについて増田は「年齢的にもう子どもは持てないので、社会的な面で子どもに関わる活動がしたい」と述べている。2005年1月 - ファイナンシャル・プランナーの男性と結婚。夫は人を笑わせるのが好きで、ロードレースに出場するときは「増田明美の夫」と書かれたゼッケンをつけて走るという。引退以後、本格的な陸上競技の指導者経験はない。この点について増田は2010年の対談で、山下佐知子や宇津木妙子、井村雅代といったすぐれた女性のスポーツ指導者の持つ資質を知っているので自分には無理だと述べている。2001年から2007年まで、日本陸上競技連盟の理事を務めた。理事退任後の2015年3月11日、日本陸連が2015年世界陸上競技選手権大会のマラソン日本代表選手を決定した後の記者会見に出席し、横浜国際女子マラソンで唯一国内選考会で優勝した田中智美が落選、大阪国際女子マラソンで日本人トップで2位の重友梨佐を選出(ゴールタイムは重友が田中より僅か18秒差で先着)した陸連の選考方針に関して、増田は「重友さんは復調の兆しが見えたが、後半の失速ぶりにまだまだのように見えた。田中さんには圧倒的な強さが有ったと思う。本当にこれで良いのでしょうか??」と大きく疑問を呈しながら異議を唱えていた。2015年3月19日、2019年3月までの4年間の任期で中野区の教育委員に任命された。2000年頃から俳句の実作を始めており、NHK教育テレビの俳句番組にも時折ゲストとして出演している。俳号は「カンナ」。増田が長距離走に取り組み始めた当時、日本陸連は1980年にトラック・ロードの女子長距離種目を公認対象に加えたばかりであった。ロサンゼルス五輪での女子マラソン正式採用決定(1981年)もあって強化が求められていたが、まだ選手層も薄く、欧米と比べて記録面での格差は否めなかった。その時期に、日本の記録水準を高めた選手である。当時の新聞にも「国際水準に数えられる日本新を出した意義は極めて大きい」と記された。上記の通り、マラソンで世界歴代および年間ベスト10に入った最初の日本選手であった。増田が作った日本記録のうち、フルマラソンは4年4ヶ月、トラック種目は5年以上破られず、他の選手の目標となった。小出義雄は、皆が増田の記録を破ろうとしたことで、(女子長距離走の)コーチや練習環境もよくなったと述べている。無名の中高生ランナーだった有森裕子が、全盛期の増田に憧れて練習日誌に増田に関する記事を貼っていたと証言するなど、後続の選手にも影響を与えた。テレビ局のマラソン中継番組スタッフからは、選手層が薄くしかも年齢が高い女子マラソン選手が多かった当時、「小柄で若くて強」く、「軽が重を制す」という増田は「昔ながらの日本人好みのパターン」としてスター選手となったと指摘されている。こうした成績を可能にしたのは、一日15km・1ヶ月に600kmという当時の女子選手としては豊富な練習量と、海外の有力選手とも遜色のない高い心肺能力(最大酸素摂取量が全盛期で体重1kgあたり毎分72ml)であった。この心肺能力について、瀧田は当時「軽自動車にF1のエンジンを搭載したようなもの」と評していた。ランニングスタイルは、「他人の後ろを走るのが嫌い」という性格もあって「先行逃げ切り形一本槍」だったと述べており、宗兄弟からは「おまえは日本のイカンガーだ」と評されたという。身長が低いため瀧田からはストライド走法を勧められ、それを可能にするため一日に3000回の腹筋運動などの激しい補強運動をおこなっていた。一方でメンタル面で弱さを持つランナーだったことを引退後に認めている。特に瀧田の指導を受けた時期はマンツーマンの指導になってから自主性を失い、「負けん気はあっても芯の強さが不足していた」と述べている。瀧田は当初取材に対して「じっくり育てて、1988年のソウルオリンピックのマラソンを狙わせる」、「増田の心身のピークは1992年のオリンピックの頃」といった発言をおこなっていた。しかし、他に適任者が佐々木七恵しかいなかったり、ロサンゼルス五輪のトラック種目は3000mが最長(10000mが種目に加えられたのは次のソウル五輪から)だったといった事情もあり、20歳のロサンゼルス五輪でマラソンに出場した。この点について、小掛照二は1991年に「結果的には、若いうちからマラソンに追い込みすぎた。犠牲者は、もう増田ひとりでいい」とコメントした。「一週間の差」で指導する機会を逸した小出義雄は「増田の力をうまく開花させられたら、(引用者注:日本の女子長距離選手の中で)五輪で最初にメダルに届いたのは彼女じゃなかっただろうか。しっかり食べさせたかった」とその才能を惜しんでいる。アメリカ留学から帰国後の選手時代について増田は、自主性をもって取り組めたという点で「オリンピック前の競技生活とは比べものにならないほど豊かで、充実した競技生活だったと自信を持って言うことができる」と引退後に述べている。スペシャルドリンクは蜂蜜入りの紅茶を使っていた。ある年の北海道マラソンでは調子が悪かったため、気分転換にすべてのドリンクをレース中に飲み干したところ、レース後の体重がスタート前より0.8kg増えており、「夏のフルマラソンを完走して体重が増えるのは増田くらいだ」と笑われたという。スタート前に聴く音楽は松任谷由実やサザンオールスターズなどだったが、あるレースの前に突然「天城越え」が「無性に聴きたくなり」、レース中もメロディーが頭から離れずに上り坂では腕の振りまでこぶしを回すような動きになった。それ以来、レース前日などに「天城越え」をカラオケで歌った調子と当日の調子が妙に符合するようになり、「コンディションを計るバロメーターになった」という。高校1年生のとき、瀧田から吉川英治の『宮本武蔵』と武蔵の著書である『五輪書』を手渡され、それ以来競技生活で心の支えとしていた。川鉄千葉の頃までは、修行僧のように無表情で走っていた。これは高校1年生の全国高等学校総合体育大会陸上競技大会800mの際、ウォーミングアップ直前まで知人などとしゃべりすぎて力が抜け予選落ちした時に、瀧田から「強くなりたければ口を閉じろ」と指導されたことに由来する。また、この指導を受けて「書くことでストレスを発散する」方針に切り替え、引退まで約300冊の練習日誌をつけることになった。上記の通り、1982年のノルウェー遠征でグレテ・ワイツと同走した。5000mではワイツからは大きく離され、ハーフマラソンでもやはりワイツのペースについていけず、スタート直後に引き離されそうになったときに悔しさからワイツのランニングパンツを手で引っ張ったところ、ワイツは増田の手をはたいて走り去った。成田高校から川崎製鉄まで指導した瀧田詔生を著書で「唯一の師」と記している。「(マネージャー転向指示で)突き放されたことがよい刺激となって頑張れた」「記録を出したことで瀧田のために走ろうという気持ちになった」ことなどを挙げて、「当時の自分に合った指導者だった」としている。結果的に決別した点については「当時瀧田を偶像化していたが、社会人になってともにいる時間が増えたことで、いろんな面が見えるようになり、信頼関係を失っていった」と述べている。瀧田の側も生前「自立させたいという気持ちもあって、社会人になってからはあえてスキだらけの自分を見せた」と証言していた。樋口葉子とともに瀧田の自宅に同居した当初は、太らせるために樋口の茶碗にご飯を大量に盛りつけたり、お互いが相手の目を盗んで腹筋や腕立て伏せのトレーニングをしたりと、息の詰まるような生活をしていた。これについては瀧田から注意を受けたりしたが、1981年の日本陸上競技選手権で増田が3000mと10000m、樋口が1500mにそれぞれ優勝したことでお互いに認め合える関係になった 。増田は「樋口の存在が日本記録達成の原動力だった」「樋口との日々が自分にとっての青春の証明」と著書に記している。本格的に陸上競技に取り組む前から、福岡国際マラソンでの瀬古利彦の活躍やその指導者である中村清の「天才は有限だが努力は無限」というコメントに感銘を受け、この二人に敬意と憧れを抱いていた。それだけに、佐々木七恵が本格的に中村の指導を受けることになったときには、「もうこれまでの佐々木さんではない」と考え、佐々木本人というよりその後ろにいる中村が怖かったと述べている。佐々木とは現役引退後長く会う機会がなかったが、2008年11月に東京国際女子マラソンの終了を記念しておこなわれたシンポジウムに増田がコーディネーター、佐々木がパネリストとして参加し、10数年ぶりに顔を合わせた。このとき思い出話を交わし、佐々木からは「私達は戦友だからこれからも仲良く生きましょうね」と声をかけられたという。しかしそれから7ヶ月後、佐々木が53歳の若さで亡くなった際には「レース中に七恵さんに抜かれたことが一番悔しかった」「思い出話に花を咲かせる機会が増えるだろうと楽しみにしていただけに、大変悲しい気持ち」とコメント。同年9月に開かれた「お別れの会」では友人代表として「もっと話したかった。七恵さんの思いを受け継ぎながら、たすきを渡していきます」と弔辞を読んだ。松野明美が実業団対抗女子駅伝で自分を抜いたときには、一瞬沿道の小学生が飛び出してきたと思い、ゼッケンを確認してショックを受けたという。松野がソウル五輪で増田の持つ10000mの日本記録を破ったときには打ちのめされ、「こんな選手の出現を喜ぶべきだ」「主役は自分だ」という二つの思いの葛藤に悩んだ。その後1989年12月のバルセロナ国際女子駅伝に日本チームのメンバーとしてともに参加。ここで松野の競技に打ち込むひたむきで純粋な姿勢に接して、敬愛の念を抱くことになった。増田は「彼女に会って初めて人のがんばりを自分の励みとすることができた」と記している。引退後、初めて解説を務めた1992年5月のソウル国際女子駅伝の慰労会で、日本陸連関係者と酒杯を注ぎあううちに強い酔いに見舞われて失神した。回復するまでの一部始終を小出義雄に目撃され、からかいのネタにされたが、そのおかげで小出とはくだけて話ができるようになったという。趣味である俳句では黛まどかの句会のメンバーで、「明ちゃん」「まどかっち」と呼び合う仲である。気性が激しく負けず嫌いで、直情径行な性格であると記している。また我が強いということを法政大学在学時に認識するようになったという。引退から間もない時期にラジオのパーソナリティーを2本担当するという幸運なスタートを切りながら、我の強さのためにゲストを差し置いて話したりスタッフに嫌われるという結果を招き、短期間で降板に至ったことを自著に綴っている。容貌が似ているといわれた人物として、増田は著書で都はるみ・宮澤喜一・江川紹子を挙げている。その中で、都はるみについては最も早くからそのようにいわれたと記している。自身形態模写を得意とし、高校時代の新聞記事にも陸上部の合宿で夜のミーティングに歌う姿が「ソックリ賞が出るほどうまい」と記されていた。1997年に「ものまねバトル」で「好きになった人」を披露した際には、事前に増田が出演することを記したエッセイを都はるみ本人が目にし、着物とお守り、それに着物を着た本人の写真を増田に送り、本番ではその着物をまとった。話し声には定評があり、2010年代にはスポーツと関係のないテレビ番組等でナレーションを担当するケースも見られる。元アナウンサーである橋本テツヤは増田の話し方を「あのテンポといいトーンといい、本職のアナウンサーも真っ青」「彼女の声も生来(引用者注:聞いている人に癒やしを与えるといわれる)『F分の1ゆらぎ』を持っていると言っていい」と評している。

出典:wikipedia

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